長編
レモンソーダは冷えていない
夏休み前の蒸し暑い夕方、千紗と莉子は冷えていないはずのレモンソーダを買い、閉店後のコンビニへ戻ることになる。
灰浦怪談 第3話『レモンソーダは冷えていない』
終業式の前日だけ、学校はいつもより少しだけ落ち着かない。
授業はほとんど進まないし、先生たちも「夏休みだからって生活リズムを崩すな」と同じ話をする。でも廊下には部活の予定表や補習の申し込み用紙が貼られ、教室では誰かが旅行の話をしている。
夏休みが近いというだけで、午後の空気まで少し軽くなる気がした。
「千紗、補習取る?」
掃除当番を終えた莉子が、ほうきを壁に立てかけながら聞いた。
「取らない。莉子は?」
「英語だけ」
「意外」
「なにが」
「もっと全部取らないかと思った」
「私は自分を過信してないからね」
「英語だけは?」
「英語は、先生が怖いから」
莉子は真顔で言ってから笑った。
夏休みの補習は任意だけれど、欠点ぎりぎりの人だけ先生から個別に声をかけられるらしい。莉子はその境目にいるわけではない。ただ、英語の担当の先生が、休み明けの小テストを予告するたびに妙に楽しそうな顔をするので、少しでも顔を覚えてもらっておきたいのだと言った。
「打算的」
「効率的って言って」
窓の外では、運動部の声が響いていた。梅雨が明けたばかりで、校庭の土はまだ少し湿っているのに、日差しだけはすっかり真夏だった。
私は鞄を持ち上げた。
「帰る?」
「帰る。駅前のコンビニ寄っていい?」
「また新作?」
「違う。レモンソーダ」
「それ、新作じゃないの」
「新作だけど、今日から発売のやつじゃない。昨日、動画で見たの」
「同じことじゃない?」
「全然違う。これは夏の定番になる可能性があるから」
莉子はそう言って、スマホの画面を見せた。
薄い黄色の瓶に、白い文字で「塩レモン」と書かれている。炭酸飲料なのに、ボトルの底には少しだけ白い粒が沈んでいるらしい。投稿した人は、海辺でその瓶を撮っていた。
「これ、灰浦のコンビニで売ってるって」
「全国発売じゃないの?」
「たぶん。でも見つけたら買いたい」
「莉子、前も同じこと言ってた」
「前のアイスは当たりだったでしょ」
「おいしかったけど」
「じゃあ今日も信用して」
「飲み物一本に信用とか使わないで」
灰浦南高校から駅へ向かう道は、夏になると急に遠く感じる。
住宅街の塀から伸びた木の枝が歩道に影を落としていた。小さな花屋の前には、ひまわりではなく、白い百合と青い花が並んでいる。六月末に見たひまわりのことを、私は何となく思い出した。
あの日の帰り道も暑かった。
私は思い出したことを、口にしなかった。
莉子も何も言わず、駅前へ近づくにつれて、いつものようにスマホの通知を確認していた。
「ねえ」
「なに」
「夏休み、海行く?」
「急だね」
「海浜公園のほう。泳ぐんじゃなくて、夕方に屋台っぽいの出る日あるじゃん」
「去年も行ったやつ?」
「そう。かき氷食べたら、千紗が頭痛いって言ってた」
「冷たいものを急いで食べたから」
「今年はゆっくり食べればいい」
「莉子が急かさなければね」
「私は急かしてない。千紗が勝手に競争みたいに食べてただけ」
「誰が『溶けるから負けだよ』って言ったの」
「言ったっけ」
「言った」
「じゃあ今年は言わない」
駅前の交差点を渡ると、夕方の人の流れが少し増えていた。駅ビルのパン屋から甘い匂いがして、ロータリーにはバスが二台並んでいる。
ゲームセンターの前を通るとき、莉子の歩幅がほんの少しだけ速くなった。
看板の「G」は、まだ明るい時間なのに消えていた。
私は見なかったふりをして、そのまま先へ進んだ。
目当てのコンビニは、駅前から商店街へ入る角にある。もともとは別の店だったらしく、入口の上の看板だけ少し古い。店内は狭いけれど、学校帰りの生徒が寄るので、アイスと飲み物の棚だけはやたらに広い。
「あるかな」
莉子が自動ドアをくぐる。
冷房の風が顔に当たって、汗ばんだ首が一気に冷えた。
飲み物の棚の前には、すでに高校生が何人か立っていた。スポーツドリンクの扉を開けたまま、どれにするか迷っている男子がいる。莉子はその横から器用に入り込み、レモン系の飲料が並ぶあたりを探した。
「あった」
小さく言って、一本を取る。
瓶は写真で見たより淡い色だった。底に白い粒が沈んでいる。冷蔵棚から出したはずなのに、表面には水滴がほとんどついていなかった。
「千紗も飲む?」
「一本でいい。半分ちょうだい」
「また一口だけ?」
「莉子が信用してって言ったから」
「そうそう」
莉子は嬉しそうに二本取った。
「え、二本?」
「夏休み前記念」
「誰の記念」
「私たちの」
「勝手に増やさないで」
レジで会計を済ませ、私たちは店の外に出た。入口の脇には、細い金属のベンチが置かれている。夕方の日差しはまだ強く、座ると太ももの裏が少し熱かった。
莉子はすぐに瓶のふたをひねった。
ぷしゅ、と炭酸の抜ける音がした。
「飲む?」
「うん」
受け取った瞬間、私は変だと思った。
瓶は冷たかった。
でも、冷蔵庫から出した飲み物の冷たさとは少し違った。手のひらが痛くなるほど冷えているのに、表面が乾いている。氷水の中に入れていたものを、きれいに拭いたみたいだった。
「冷たすぎない?」
「え、いいじゃん。暑いし」
莉子は自分の瓶を一口飲んだ。
すぐに、眉を寄せた。
「……変」
「おいしくない?」
「おいしい、けど」
「どっち」
「レモンソーダの味はする。でも、なんか」
莉子はもう一口飲んで、それから私に瓶を渡した。
「飲んでみて」
炭酸は強かった。レモンの香りもある。塩気がほんの少し残る。
普通においしい。
ただ、飲み込んだあとに、冷たい水ではなく、冷えた空気を飲んだような感じが喉に残った。
「おいしいよ」
「ほんと?」
「うん。でも冷たい」
「冷蔵庫が強すぎたとか?」
「飲み物ってそこまで冷えないでしょ」
莉子は自分の瓶を見た。
底に沈んでいた白い粒が、さっきより増えているように見えた。振ったわけではないのに、細かいものが瓶の中でゆっくり浮いている。
「これ、塩じゃないのかな」
「商品名に塩って入ってるし」
「そうだけど」
莉子は瓶を光にかざした。
黄色い液体の中で、白い粒は上へ向かっていた。炭酸の泡みたいに速くはなく、雪が逆向きに降るみたいに、静かに。
私は目をそらした。
「飲み切る?」
「……うん。もったいないし」
莉子の言い方は、あのプリクラのときと少し似ていた。
でも、私は何も言わなかった。
結局、二人とも半分くらい残した。
瓶を捨てるのが嫌だったわけではない。飲んでいるうちに、冷たさがだんだん増してきたからだ。最初は喉がすっきりしたのに、三口目からは、体の内側だけが冷えていく感じがした。
「家、冷房つけてる?」
莉子が聞いた。
「つけてると思う」
「いいな。うち、母が電気代気にするから、帰ってもまだついてないかも」
「扇風機は?」
「ある。でも今日は風までぬるいじゃん」
「確かに」
普通の話をしているうちに、少しだけ気持ちが戻った。
私たちは空になっていない瓶を、店の前のごみ箱には入れず、鞄の横ポケットにしまった。家で捨てればいいと思った。
そのとき、店の自動ドアが開いた。
中から、店員らしい女性が出てきた。
年齢はよく分からない。白いシャツの上に店のエプロンをつけていて、髪を後ろで一つにまとめていた。手には段ボール箱を抱えている。
女性は私たちを見て、少し困ったように笑った。
「それ、もう買われました?」
莉子が自分の鞄を見た。
「レモンソーダですか?」
「はい」
「買いました」
「ああ……そうですか」
女性は言葉を切った。
「何かありました?」
私が聞くと、女性はすぐに首を振った。
「いえ。冷えてました?」
「すごく冷えてました」
莉子が答える。
「そうですか」
女性の顔から、笑いが消えた。
「今日は、あの棚、使っていないはずなんですけど」
私と莉子は顔を見合わせた。
「使ってないって?」
「故障中なんです。朝から。飲み物の棚の一部だけ、温度が下がらなくなっていて」
女性は段ボール箱を抱え直した。
「紙を貼ってたと思うんですけど」
「貼ってありました?」
莉子が私に聞いた。
「……見てない」
確かに、そんな紙は見なかった。棚の前には高校生がいたし、莉子はまっすぐ商品を取った。注意書きがあったとしても、見落とした可能性はある。
でも、私たちが触った瓶は、冷蔵庫の中にあった。
扉を開けて、莉子が取った。
「すみません、今見てきますね」
女性はそう言って店内へ戻った。
莉子は小さな声で言った。
「故障してる棚って、ぬるいんじゃないの」
「普通はそう」
「じゃあ、なんで」
「分からない」
女性はすぐには戻ってこなかった。
自動ドアが開くたび、店内の冷房が外へ流れる。レジに並ぶ人の声、電子レンジの音、揚げ物のケースを閉める音が聞こえた。
私は鞄の横ポケットに指を入れた。
瓶は、まだ冷たかった。
さっきより冷えているような気がした。
「千紗」
莉子が私の腕をつかんだ。
「帰ろ」
「うん」
「これ、どうする」
莉子は自分の瓶を見た。
瓶の中の白い粒は、ほとんど見えなくなっていた。代わりに、液体の色が少しだけ薄くなっている。
「持って帰らないほうがいいかも」
「店に返す?」
「でも、また中に入るの」
莉子が黙る。
私も、店内へ戻りたくなかった。
さっきまで普通に明るかった店なのに、ガラス越しに見ると、飲み物の棚のあたりだけ少し暗く見える。棚の扉が並んでいる場所に、光が届いていないようだった。
「捨てる?」
「ここで?」
「ごみ箱に」
莉子は迷ったあと、うなずいた。
私たちは二人で、ごみ箱の前に立った。入口の脇にある、分別表示のついた大きな箱だ。ペットボトル、缶、燃えるごみ。瓶の飲料は、その隣の回収口に入れるようになっている。
莉子が先に、自分の瓶を入れた。
ごとん、という音がした。
次に私も入れる。
回収口の奥へ落ちるはずだった瓶が、途中で止まった。
口のあたりが引っかかったのかと思った。でも、瓶は縦のまま、回収口の暗い奥に半分だけ入っている。
中から、白い息のようなものが出ていた。
「……莉子」
「見えてる」
私たちは動けなかった。
瓶のふたはもう開いている。なのに、回収口の奥から、ぷしゅ、と小さく炭酸の音がした。
誰かが新しくふたを開けたみたいな音だった。
その直後、店の中で何かが倒れる音がした。
女性店員の声が聞こえる。
「すみません、こちら通れますか」
誰かに言っているだけかもしれない。
けれど、その声は、さっきより遠くから聞こえた。狭い店内の奥ではなく、冷蔵棚の向こう側から。
莉子が私の袖を引いた。
「帰ろ」
「うん」
瓶はそのままにした。
回収口に半分入った黄色い瓶を、私は見なかった。
駅とは反対の道へ歩き出してから、莉子がようやく息を吐いた。
「私、あの店、しばらく無理かも」
「私も」
「でも駅前のコンビニ、あそこしか便利じゃない」
「別の道の店に行けばいい」
「遠い」
「莉子が言うと思わなかった」
「怖いものと暑さなら、暑さに耐える」
「そこまで?」
「千紗、あれ見たでしょ」
「見た」
「瓶、止まってた」
「見た」
「しかも白いの出てた」
「うん」
それ以上は言わなかった。
商店街のアーケードに入ると、外より少しだけ涼しかった。古い店が並ぶ道を、買い物袋を持った人が歩いている。八百屋の前では、スイカが半分に切られて売られていた。
莉子は急に足を止めた。
「そういえば、夏休みの海浜公園の話」
「うん」
「行くの、昼にしよ」
「夕方じゃなくて?」
「うん。明るいうち」
「別に今の話と関係なくない?」
「関係ないけど」
莉子は少しだけ笑った。
「なんとなく」
「分かった」
私はそれだけ答えた。
家に帰ると、母は台所で夕飯を作っていた。
「暑かったでしょ。麦茶あるよ」
「うん」
冷蔵庫を開けると、麦茶の入ったポットの表面に水滴がついていた。
それを見ただけで、急に安心した。
冷たいものは、こういうふうに濡れている。そんな当たり前のことを確かめたくて、私はコップに麦茶を注いだ。
夕飯のあと、莉子からメッセージが来た。
『家帰った?』
『帰った』
『コンビニのレモンソーダ、検索したら投稿いっぱいある』
『おいしいって?』
『うん。普通に』
『店の話は?』
『ない』
私は少し迷ってから、さっきの女性店員のことを書いた。
『棚が故障中って言ってた』
『うん』
『でも明日には直ってるかもね』
『見に行かないよ』
『行かない』
すぐに既読がついた。
『夏休み、映画は行く?』
莉子から次のメッセージが来る。
『行く』
『ホラーじゃないやつね』
『当たり前』
『でも恋愛映画も嫌』
『選択肢せまい』
『アニメならいい』
『じゃあ調べとく』
それから、いつものようにどうでもいいスタンプが送られてきた。丸い犬が、かき氷を食べて頭を押さえている。
私は少しだけ笑った。
翌日、終業式が終わってから、私は一人で駅前を通った。
昨日のコンビニの前には、白い紙が貼られていた。
店内設備点検のため、本日午後六時より一時閉店します、と書いてある。
まだ昼過ぎなのに、自動ドアは閉まっていた。店内の電気もついていない。ガラスの向こうでは、飲み物の棚だけが空になっているように見えた。
昨日、私たちが見た場所にあったはずの瓶も、白い息も、もちろん残っていない。
私は立ち止まらなかった。
そのまま駅へ向かい、改札の前で莉子と合流した。
「遅い」
「ごめん。先生に呼ばれた」
「補習?」
「違う。提出物」
「夏休み前から偉いね」
「莉子が出してないだけでしょ」
「私は夏休みに出すタイプ」
「それを出してないって言うの」
莉子は笑った。
電車が来るまで、私たちは映画の話をした。見たい作品が多すぎるとか、ポップコーンは塩かキャラメルかとか、暑い日に映画館へ逃げるのは正しいとか。
ホームに入ってきた電車の窓が、午後の日差しを反射していた。
私は何となく、鞄の中を確かめた。
昨日のレモンソーダを入れていた横ポケットが、ひどく冷たかった。
もちろん、そこには何も入っていなかった。