長編
返却口はまだ開かない
夏休みの図書館で借りた本を返そうとした千紗と莉子は、まだ開館していないはずの返却口から、自分たちの名前を呼ばれる。
灰浦怪談 第4話『返却口はまだ開かない』
夏休みは、始まって三日くらいがいちばん長い。
初日はまだ終業式の続きみたいで、二日目は寝坊しても許される気がする。でも三日目になると、部屋に置いたままの課題プリントが急に目立ちはじめる。
七月の朝、私は机の上の国語の課題を見ていた。
読書感想文。原稿用紙五枚以上。
文字にすると大した量ではないのに、書く前は途方もなく多く見える。
スマホが震えた。
『市立図書館行かない?』
莉子からだった。
『感想文用?』
『それもある。冷房用』
『正直』
『家より涼しい』
それには同意した。
母は仕事で出かけていて、弟は午前中から友達の家へ行っている。冷房をつけたまま一人でいるのは少し気が引けるし、図書館なら課題が進まなくても、少なくとも机には向かうことになる。
『十時に駅前で』
『了解』
約束の時間より少し早く灰浦駅へ着くと、改札前には旅行らしい大きな荷物を持った人がいた。駅ビル一階のパン屋には、夏限定らしいレモンのパンが並んでいる。
終業式の日に莉子と合流した場所を通ると、何となく鞄の横ポケットが気になった。
もちろん、冷たい瓶は入っていない。
私は確かめずに、改札の外へ出た。
「千紗」
ロータリーのほうから莉子が手を振った。
白いTシャツに薄い青のスカート、肩には大きなトートバッグをかけている。制服ではない莉子は少しだけ別人に見えるけれど、近づくと髪をまとめるのが面倒だったらしく、いつものように片側だけ跳ねていた。
「早いね」
「莉子が早い」
「珍しいでしょ」
「何かあるの?」
「ない。今日はちゃんと課題をやろうと思って」
「夏休み三日目で?」
「三日目だから」
莉子はそう言って、トートバッグを持ち上げた。
「筆箱、ノート、飲み物、お菓子」
「本気だ」
「でしょ。でも図書館って飲み物だめな場所あるよね」
「閲覧席ではだめかも」
「じゃあ外で飲む」
「お菓子も?」
「お菓子は、気持ちの支え」
市立図書館は駅からバスで十分ほどの場所にある。市役所と文化会館の間に建った、茶色いタイル張りの建物だ。新しくはないけれど、入口の前には大きなガラス屋根があり、雨の日でも傘をたたみやすい。
夏休み中だからか、バスには小学生らしい子と、その母親が何組か乗っていた。後ろの席では、小さな男の子が自由研究の話をしている。
「昆虫の標本って、今でも学校でやるんだ」
莉子が小声で言った。
「莉子は何した?」
「小六?」
「うん」
「海の貝殻。拾った場所と名前を調べた」
「ちゃんとしてる」
「最後のページ、半分くらい父に書いてもらったけど」
「ちゃんとしてない」
「写真を貼るのは私がやった」
「そこだけは」
バスを降りると、空が少し暗くなっていた。朝は晴れていたのに、海のほうから灰色の雲が流れてきている。
図書館の入口には、開館まであと十五分と書かれた立て札が出ていた。
「早すぎた」
莉子が言う。
「早いって言った」
「十分前くらいだと思ってた」
「十分前でも早いよ」
入口の脇には、本を返すための返却口がある。金属のふたが閉じた小さな口で、図書館が休みの日でも返却できるようになっていた。
返却口の前に、年配の女性が立っていた。
女性は一冊だけ本を持って、ふたを見ている。
「開かないんですかねえ」
私たちに向けたというより、独り言みたいな声だった。
返却口の上には、赤い文字で「開館時間中は館内カウンターへ」と書いてある。まだ開館前だから、返却口が使えるのかもしれない。
女性がふたを押すと、かたん、と軽い音がした。
少しだけ開いた。
「よかった」
女性は本を差し入れた。
その直後、返却口の奥から、ページを何枚も一度にめくるような音がした。
ぱら、ぱら、ぱら、と。
女性は手を止めた。
「中、誰かいるんですか?」
返事はなかった。
ふたは閉じ、本はもう見えなくなっている。
「職員さんが準備してるんじゃないですか」
莉子が言った。
「そうかしらね」
女性は少し笑った。
「朝からご苦労さまねえ」
それだけ言って、ゆっくり駐車場のほうへ歩いていった。
私は返却口を見た。
金属のふたは、さっきと同じように閉まっている。中の音ももうしない。
「本、返さないの?」
莉子が聞いた。
「今日借りるだけ」
「私は返すのある」
「開いたら返せば」
「うん」
でも莉子は、手に持っていた文庫本をトートバッグに戻した。
開館時間になると、入口のガラス扉が自動で開いた。
冷房の空気が流れてきて、外の湿気が急に遠くなった気がした。
館内は静かだった。受付の向こうでは司書らしい女性がパソコンを起動していて、児童書コーナーには、さっきバスに乗っていた子どもたちが走りかけて親に止められている。
私たちは二階の一般書架へ上がった。
「感想文、何読む?」
「まだ決めてない」
「千紗はちゃんとしたやつ読んで、ちゃんとした感想書くんでしょ」
「ちゃんとしたやつって何」
「名作」
「莉子は?」
「映画化されてるやつ」
「読書感想文なのに」
「原作を読んでから映画を観れば、二倍楽しめる」
「順番が逆」
棚の間を歩きながら、私は適当に背表紙を見た。
夏の本、旅の本、学生向けに薦められた本。見覚えのある題名も、初めて見る題名もある。
莉子はすぐに一冊を抜き取った。
「これ、どうかな」
「短い?」
「短い」
「分かりやすい?」
「たぶん」
「感想書けそう?」
「表紙がかわいい」
「基準が全部違う」
結局、私は以前から気になっていた小説を一冊選んだ。莉子は表紙のかわいい文庫本と、課題とは関係ない料理の本を抱えている。
閲覧席は窓際だけ埋まっていたので、奥の長机に並んで座った。
最初の三十分は、意外と静かに読めた。
莉子はページをめくるたびに、時々だけ眉を動かしている。私は物語の最初の章を読み終えたところで、外が暗くなったことに気づいた。
窓を打つ音がした。
夕立だった。
「うわ」
莉子が顔を上げる。
「傘ある?」
「折り畳みなら」
「私ない」
「また?」
「朝は晴れてた」
「天気予報見てないの」
「見た。曇りのち晴れだった」
「外れたね」
雨は急に強くなった。窓の向こうの木が大きく揺れて、文化会館の看板が白くかすんでいる。
莉子はため息をついた。
「帰り、バス混むかな」
「少し待てば弱くなるかも」
「図書館で時間つぶせるならいいけど」
「閉館までいる?」
「課題が進むなら」
「進んでないの?」
「料理の本、おもしろい」
「感想文は」
「これから」
そのとき、館内放送が流れた。
『ただいま、返却口の点検を行っております。返却をご希望の方は、一階カウンターまでお持ちください』
静かな館内で、機械的な女性の声が少しだけ大きく聞こえた。
莉子が私を見る。
「朝のやつかな」
「たぶん」
「詰まったのかな」
「本が?」
「分からないけど」
私は答えなかった。
返却口の奥で聞こえた、ページをめくる音を思い出していた。
雨が少し弱くなったころ、莉子は本を抱えたまま立ち上がった。
「一階で返してくる」
「今?」
「読み終わったし。借りる本も決めた」
「私も行く」
「別にいいよ」
「雨、まだ降ってるし」
「図書館の中だよ」
「分かってる」
自分でも変な言い方だと思った。
莉子は少しだけ笑って、「じゃあ一緒に来て」と言った。
一階へ降りる階段の途中で、私は返却口のある入口脇を見た。
そこには黄色いロープが張られていた。
返却口の前に、職員らしい男性が一人立っている。床には小さな台車が置かれ、その上に何冊かの本が重ねてあった。
「壊れたんだね」
莉子が小声で言った。
男性は返却口を開けようとしていた。
金属のふたに細い棒を差し込み、何度か押している。すると中から、かたかた、と何かがぶつかる音がした。
返された本が引っかかっているのだと思った。
けれど、次に聞こえたのは本の落ちる音ではなかった。
「莉子」
小さな声だった。
私が呼んだのではない。
返却口の奥から聞こえた。
莉子が止まった。
「……今、聞こえた?」
私はうなずいた。
男性は気づいていないようだった。返却口のふたを見たまま、もう一度棒を押し込む。
「千紗」
今度は、はっきり聞こえた。
自分の名前だった。
声は低くも高くもない。誰かの声に似ているわけでもないのに、私たちの名前だけは間違えずに呼んだ。
私は莉子の腕をつかんだ。
「カウンター、行こ」
「うん」
莉子もすぐに歩き出した。
返却口のほうを見なかった。
カウンターに本を出すと、司書の女性は普通に笑って受け取った。
「返却と貸し出しですね」
「はい」
莉子は少し早口で言った。
「外の返却口、壊れてるんですか」
「ええ。朝から調子が悪くて」
「朝から?」
私が聞くと、女性は端末を見ながらうなずいた。
「正確には、昨日の夜からですね。返却された本が、なぜか記録に入らなくて」
「記録に?」
「中に落ちているはずなのに、返却処理の機械が反応しないんです。今、確認してもらっています」
女性は困ったように笑った。
「古い設備ですから」
「本、いっぱい入ってるんですか」
莉子が聞く。
「それが、まだ分からなくて」
女性は言いかけて、口を閉じた。
「すみません。ご心配なく。館内の本は普通にお借りいただけます」
私たちはそれ以上聞かなかった。
借りた本を受け取り、入口のほうへ向かう。
雨はほとんど止んでいた。
ガラス屋根の下に出ると、湿ったアスファルトの匂いがした。空はまだ暗いけれど、雲の切れ間から少しだけ明るい色が見えている。
「バス、来るかな」
莉子が言った。
「時刻表見よう」
「うん」
バス停へ歩き出してから、莉子が小さく息を吐いた。
「私、名前呼ばれたの初めてかも」
「私も」
「返却口って、あんなに声通る?」
「人が入れる大きさじゃないし」
「言わないで」
「ごめん」
少し歩くと、莉子は急に言った。
「でも、朝にいたおばあさん」
「うん」
「本、返してたよね」
「返してた」
「その本、あの中にあるのかな」
私は答えなかった。
返却口の中に何があるか、考えたくなかった。
バス停には、濡れた制服の中学生が二人いた。傘を閉じて、スマホを見ながら笑っている。その普通の声を聞いていると、図書館の中のことまで少し遠くなった。
帰りのバスで、莉子は借りた料理本を開いた。
「これ、作れそう」
「何が?」
「レモンタルト」
「急に難しくない?」
「冷やすだけのやつ」
「オーブン使うんでしょ」
「うちのは使える」
「莉子が?」
「母が」
「じゃあ莉子は何をするの」
「食べる」
「正直でいいけど」
莉子は笑った。
「千紗も来る?」
「作る日に?」
「うん。夏休みっぽいし」
「宿題終わってたら」
「終わらせようよ」
「莉子が言う?」
「今日は図書館行ったから、もう課題やった気分」
「気分だけね」
駅前で別れる前、莉子は私に言った。
「図書館、しばらく行かない?」
「感想文は?」
「学校の図書室で借りる」
「夏休みなのに開いてる?」
「知らない」
「調べてから言って」
「じゃあ本屋」
「買うの?」
「立ち読み」
「感想文、進まないね」
「進まない」
莉子は少し笑って、それから真顔になった。
「返却口のこと、誰にも言わないでおこう」
「うん」
「説明しにくいし」
「そうだね」
私たちは、いつものようにそれだけで話を終えた。
家に着くと、母はまだ帰っていなかった。
冷房のついていない部屋は蒸していたけれど、雨上がりの風が窓から入ってくる。私は借りてきた本を机に置き、読書感想文のプリントを引き寄せた。
題名、作者名、あらすじ。
最初の欄を埋めるだけで、思ったより時間がかかった。
夕方、母が帰ってきた。
「図書館行ったの?」
「うん」
「雨、大丈夫だった?」
「少し降られた」
「折り畳み持ってた?」
「持ってた」
「よかった」
母は買い物袋を台所に置いた。
「そういえば、今日の帰りに図書館の前通ったら、返却口のところ工事してたよ」
「工事?」
「職員さんが何人かいた。大きい箱を運んでた」
私はペンを止めた。
「何の箱?」
「知らない。古い本でも片づけてたのかな」
母は冷蔵庫を開けた。
「夕飯、そうめんでいい?」
「うん」
その夜、莉子からメッセージが来た。
『感想文の本、読み終わった?』
『まだ最初のほう』
『私も』
『料理本じゃなくて?』
『料理本は読み終わった』
『感想書くの?』
『書けない』
私は少し笑ってから、返信を打った。
『図書館の返却口、工事してたらしい』
既読はすぐについた。
『やっぱり壊れてたんだね』
『うん』
『直ったら普通に使えるのかな』
その言葉を見て、私はしばらく返せなかった。
返却口の中から聞こえた声は、私たちの名前を呼んだだけだった。
何かを頼んだわけでも、出てきたわけでもない。
それでも、あの金属のふたが開く音を思い出すと、指先が少し冷たくなった。
『私はしばらくカウンターで返す』
そう送ると、莉子から丸い犬のスタンプが返ってきた。犬は本を抱えて、全力でうなずいている。
翌朝、図書館のサイトを見た。
トップページには、返却口の利用停止のお知らせが出ていた。
設備不具合のため、復旧まで館内カウンターをご利用ください。
その下に、利用停止期間中に返却された資料について、返却日が正しく記録されない場合があります、と書かれている。
私は何となく、昨日借りた本の貸出票を見た。
返却期限は八月七日。
そのすぐ下に、薄い灰色の文字がもう一行だけ印字されていた。
返却日 七月二十三日。
今日は、まだ七月二十二日だった。