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長編

空欄の名札

放課後の教室で語られる、落とし物の名札の話。胸元から外れた名前は、受領印の鳴る箱の中で次の持ち主を待っている。

Genre
学園ホラー
Series
hutari
#名札#受領印#制服#点呼

「ねえ、なんかネタないの?」

その子は帰る支度を半分だけ済ませて、机の上に自分の名札を置いていた。透明なケースに白い紙が入った、制服につける安っぽいやつだ。安全ピンの針を爪で弾いて、かち、かち、と鳴らしている。

「あるよ。あんまり気持ちいい話じゃないけど」

「怖いやつ?」

「うん、多分」

「その多分、毎回逃げてるよね」

「私はそこまででもなかったから」

「聞く側にやさしくないんだって、それ」

窓の外は、部活の声がまだ残っている。教室の後ろでは黒板消しの粉が少しだけ光っていて、誰もいない列の机が、もう夜の形に近づいていた。放課後の教室は、明るいくせに、名前を呼ぶ声だけが減る。

私はその子の机の上の名札を見た。

「それ、外してるんだ」

「暑かったから。跡つくし」

「そう」

「なに。その言い方」

「別に」

私は鞄の紐を指に巻いたまま、続けた。

「この前、生徒会の手伝いしたんだ。三者面談前で、落とし物の整理」

「あー、職員室前の棚のやつ?」

「そう。水筒とか筆箱とか、持ち主不明のを一覧にするの。地味だし、埃っぽいし、あんまり面白くない」

「絶対やりたくない。名前書いてない人の気持ち、ほんとわかんない」

「わかる。なのに、その日いちばん気になったの、名前そのものだった」

「は?」

職員室前の落とし物棚には、忘れ物がだいたい同じ順番で並ぶ。水筒、タオル、文房具、上履き。季節で少し変わるけど、そんなものだ。その日はそのいちばん下の引き出しに、制服の名札だけまとめて入っていた。クリーニングのあとにつけ忘れたとか、部活で外してそのままとか、理由は色々あるらしい。

「透明なケースが何個も重なってて、裏のピンが絡まってたの。私はそれを一個ずつ外して、紙にクラスと名前が書いてあるか確認してた」

「うん」

「その中に、ひとつだけ空のがあった」

「紙抜けただけじゃなくて?」

「最初はそう思ったよ。でも、変だった」

「何が」

「触るとあったかいの」

その子は、机の上の自分の名札から指を離した。

「え」

「手のひらに乗せたら、ずっと胸につけてたみたいな温度だった。引き出しの中に入ってたのに」

「気持ち悪」

「うん。しかも、ケースは空なのに、裏返すとちゃんと重さがあった」

「何それ」

「紙一枚ぶん、誰かの名前だけ入ってるみたいだった」

その子は笑おうとしたけど、うまくいかなかったみたいだった。こういう時、この子は口より先に目が黙る。

「で、それどうしたの」

「一覧に書こうとした。持ち主不明って」

「普通」

「でも、書く前に一年の子が来た」

「落とし物取りに?」

「うん。すごい焦ってた。名札なくしたって。朝から先生に二回も注意されたのに、自分の席の周りにもロッカーにもなくて、職員室前まで見にきたって」

「まあ、ありそう」

「その子、来た時からちょっと変だった」

「変って?」

「自分のクラスと名字を、三回言い直した」

「緊張してたとか」

「かもね。でも、途中で自分でも変だって顔してた。『さっきから、みんな一回で覚えてくれないんです』って」

「え」

「担任にも、保健委員の先輩にも、その子の友達にも。呼びかけられて振り向いたのに、そのあと『で、何て名前だっけ』ってなるらしい」

「それは……ちょっと嫌だね」

「うん。で、私は引き出しの中の空の名札を見せた」

「返したの?」

「返そうとした。そしたらその子、『それです』ってすぐ言った」

「空なのに?」

「そう。自分のだって、迷わなかった」

廊下の向こうで、誰かが笑って、すぐ遠くなった。教室の中はそのぶん静かになる。机の上の名札が、小さな四角い顔みたいに見えた。

「でもさ、空なんでしょ」

「私にはね。その子にはちゃんと見えてたのかも」

「見えてたって、名前?」

「たぶん」

「返したの、それ」

「返した」

「よく返したね」

「気になるでしょ」

「その気になる、毎回よくないって」

私は少しだけ肩をすくめた。

「その子、その場で胸につけ直したの。そしたらすぐ、変な顔した」

「何それ」

「冷たかったって。金属の針じゃなくて、紙のところが冷たいって言ってた」

「紙のところが?」

「うん。で、そのあと、小さく『受け取った』って聞こえたらしい」

「誰が言ったの」

「わからないって」

その日はそれで終わると思ってた。名前が書いてあるように本人には見えて、私には見えないだけなら、ただの気味の悪い落とし物で済む。でも次の日、その一年の子はまた職員室前に来た。

「またなくしたの?」

「今度は、つけてるのに怒られた」

「は?」

「朝の点呼で、担任がその子の前で一回止まったんだって。顔も見てるし、返事も聞こえてるのに、出席簿のその行だけ見つからないみたいに」

「そんなことある?」

「その子もそう言ってた。なのに周りもだんだん変になって、友達が話しかける時に『ねえ、あの……』って毎回少し詰まるようになったらしい」

「それ、名前思い出せなくなってるってこと?」

「そう。完全じゃないけど、少しずつ滑る感じ」

その子は無意識に自分の胸元を押さえた。制服にはもう名札がついていない。机の上に置いたままだ。

「で、どうしたの」

「もう一回その子の名札を見せてもらった」

「うん」

「やっぱり私には空だった」

「その一年の子には?」

「ちゃんと見えてたみたい。でも、文字の端が薄くなってるって言ってた。消しゴムで軽くこすったあとみたいに」

「やだ」

「で、その子が言ったの。昼休みに一回だけ外して、机の中に入れてたって」

「なんで」

「体育があったから。邪魔だったんでしょ」

「まあ、わかる」

「戻した時、針がいつもより刺さりやすかったって」

「そこ細かくて嫌」

「その日の放課後、その子のクラスの子が二人、名前を言いよどんだ」

私はそこでいったん黙いた。その子が続きを待つみたいに、机のへりを指で押す。

「だから、その日のあと残った」

「ひとりで?」

「生徒会室に人はいたよ。でも、途中から私だけになった」

「途中から、って時点で嫌なんだけど」

職員室前は、先生たちがいなくなると急に長く見える。昼は狭いだけの廊下なのに、夕方になると、扉と扉の間が少し遠い。生徒会室の明かりを消して、私は落とし物棚の前にしゃがんだ。

「引き出し、少しだけ開いてた」

「誰かいた?」

「見えるところには誰も。でも中から音がした」

「どんな」

「判子」

「判子?」

「職員室で書類に押す受領印あるでしょ。あの、ぺたって鈍い音」

「なんで引き出しの中から」

「知らない。でも、一回だけじゃなかった。ぺた、ぺた、って、ゆっくり」

その子の顔から、さっきまでの軽さが少しずつ抜けていく。

「開けたの?」

「開けた」

「開けるんだ……」

「気になるでしょ」

「よくないって、それ」

引き出しの中の名札は、昼より減っていた。私は数を覚えていたから、たぶん間違いない。その代わり、いちばん上に空の名札が一個、きれいに置いてあった。まるで今さっき整えられたみたいに。

「その横に、落とし物の一覧表が入ってた」

「うん」

「私が昼に書いたはずの『持ち主不明』の欄、その名札のところだけ消えてた」

「誰か消したとか」

「職員室、もう鍵かかってた」

「じゃあ先生が帰る前に」

「それならいいんだけどね」

「違ったの?」

「一覧表の余白に、新しく一行増えてた」

「何て」

「受領済」

その子はそこで、はっきり息を止めた。

「誰が?」

「そこが空白だった」

「最悪」

「しかも、インクじゃなくて、赤い判子の跡だけだった」

「うわ……」

「それで、横のガラスに目がいった」

「ガラス?」

「職員室前の掲示ケース。表彰状とか飾ってあるやつ。暗いと鏡みたいになるでしょ」

「なるね」

「そこに映った私が、まだ引き出しに手を伸ばしてる途中なのに、もう名札を自分の胸につけてた」

「え」

「しかも、こっち見て口だけ動かした」

「何て」

「『ここ、空いてる』って」

その子が椅子を引いた。床に脚が擦れて、やけに乾いた音がした。

「無理」

「私もそう思った」

「で、どうしたの」

「振り返ったら、背後のハンガーラックに予備の制服がかかってた」

「予備?」

「忘れた子用とか、汚した時用。生徒指導室から持ってきたんだと思う。ブレザーだけ、ひとつ」

「……やだな」

「その胸元が、ちょうど空いてた」

私はあの時のことを思い出す。誰も着ていない制服は、布なのに妙に人の形をしている。袖が少し折れているだけで、腕を下ろして立っているみたいに見える。

「引き出しの中の空の名札、持ったらまたあったかかった。今度は、さっきよりちゃんと。ほんとに誰かの胸から外したばかりみたいに」

「やめて」

「それで、わかった気がした」

「何が」

「名前そのものが欲しいんじゃないんだよ、あれ。名前がついてる場所が欲しいの」

「場所……」

「胸の、その四角い席。そこが空くと、入ってくる」

その子は自分の机の上の名札を見た。さっきからずっと、そこにある。

「だから私は、その予備の制服につけた」

「それで終わったの?」

「つけた瞬間、引き出しの中の判子の音が止んだ。掲示ケースに映ってた私も、普通に戻った」

「ほんとに?」

「次の日から、その一年の子はちゃんと呼ばれるようになった。点呼でも止まらなくなったし、友達も一回で名前を言えたって」

「じゃあ、解決じゃん」

「うん。あの時はね」

「その言い方やめて」

私は苦笑した。

「別に脅かしたいわけじゃないよ」

「充分脅かしてる」

「ただ、最近また似た感じがする」

「え」

「昼休みから、何回かあったでしょ」

「何が」

「みんながあなたのこと、呼びかける前に一瞬迷うやつ」

その子の眉が寄った。否定しかけて、やめる。

「……それは、気のせいじゃない?」

「かもね」

「そのかも、嫌なんだけど」

「今日の英語の先生も、廊下の先輩も、一回止まってた」

「それは……」

「あと、私は最初から一度も呼んでない」

教室が静かになる。外ではまだボールの跳ねる音がするのに、その間だけ、ここだけ音が遠くなったみたいだった。

「何で」

その子の声が、少しだけ乾いていた。

「呼べないから」

「は?」

「外れかけてる名前って、きれいに見えないんだよ。輪郭だけになる」

「ちょっと待って」

その子はあわてて机の上の名札を掴んだ。透明なケースを表にして、夕方の光にかざす。

「……え」

白い紙は入っている。なのに、真ん中だけが妙に薄い。さっきまで何か書いてあったはずの幅で、そこだけ空に近い色をしていた。

「嘘」

「昼から外したままだったでしょ」

「だって暑くて」

「うん」

「これ、あんた、わざと……?」

「してないよ」

「じゃあ何でそんな落ち着いてるの」

私は少しだけ考えてから、答えた。

「前にも見たから。何回か」

「何回か?」

「それに、私にはもう入る場所がないし」

「何それ」

私は制服の胸元に指をやった。ブレザーのそこには、名札の針穴だけが小さくいくつも残っている。

「前に空けたままにしたことあるから」

「……戻ったの?」

「どうだろう」

「どうだろうって」

「たぶん、全部は」

その子はもう何も言えなかった。机の上の名札を握ったまま、指先だけ白くなっている。

私は立ち上がって鞄を肩にかけた。教室の扉のところで、一度だけ振り返る。

「今日はもう、つけて帰ったほうがいいよ」

「……書いてないのに?」

「書いてなくても、空よりはいい」

「そんなの」

「大丈夫。読めなくても、席が埋まってれば少しはましだから」

その子は震える指で、安全ピンを開いた。うまく留められなくて、一回失敗する。私は見ているだけにした。手伝うと、たぶん近すぎる。

やっと胸元につけ終えたあと、その子は小さく息を吐いた。

「これで平気?」

「今夜は」

「今夜“は”?」

私は扉を開けた。廊下の薄暗いガラスに、私たちの姿がぼんやり映る。その向こうで、その子の胸元の四角だけが、少し遅れて白く見えた。

「明日の点呼で、ちゃんと返事して」

「それで戻るの?」

「呼ばれたらね」

「呼ばれなかったら」

私は少しだけ笑った。安心させるためじゃない。たぶん、もうその顔しかできなかった。

「その時は、私がわかる」

その子はまた、名前を言おうとしたみたいだった。でも、口を開いて、閉じた。

私はそれを聞かないまま教室を出た。背中のほうで、安全ピンの小さな金属音がした。ちゃんと留まった音じゃなくて、何かをかろうじて引き止めたみたいな音だった。

たぶん明日の朝、あの子はまだ返事ができる。

ただ、最初に呼ぶ人が、少しだけ迷わなければいいと思う。