長編
遅れて返る声
放課後の教室で語られる、少し遅れて返ってくる声の話。録音に残る違和感は、聞いた相手の足元まで追ってくる。
「ねえ、なんかネタないの?」
窓の外はもう暗くなりかけていて、グラウンドの端だけが鈍く光っていた。掃除当番のせいで帰りが遅くなった教室には、私たちしか残っていない。机を寄せたまま、片方は椅子を前脚だけ浮かせて揺らし、もう片方は鞄を膝に乗せてぼんやりしている。いつもの放課後だった。
「あるよ。あんまり気持ちいい話じゃないけど」
「怖いやつ?」
「うん、多分」
「その多分って何。怖くない可能性あんの?」
「私はそんなに怖くなかったから」
「それが一番やだって」
言いながら、向かいに座る子は笑った。笑ったけど、帰る支度の手は止まっていた。聞く気はあるらしい。
私は机の上のスマホを指でひっくり返した。黒い画面に教室の蛍光灯が細く映って、すぐ消える。
「この前、放送室の手伝いしたの覚えてる?」
「あー、昼の放送の録音? 先輩に捕まったってやつ」
「そう。文化部の紹介をまとめて録り直した日。放送室って、使ってる部屋の隣に小さい準備室あるでしょ」
「あるね。暗いとこ。マイクとかケーブルとか置いてあるやつ」
「そこ、扉がちょっと開いてたんだよ」
「もうやだ。扉ちょい開き、だいたい嫌なこと起きるじゃん」
「別にその時は何もなかったよ。埃っぽいなって思っただけ」
「前置きが完全に何かあるやつなんだけど」
私は肩をすくめた。
その日の放送室は、珍しく私ひとりだった。先輩は職員室に呼ばれて、すぐ戻るって言っていなくなった。録るのは部活紹介の差し替えで、同じ文章を何回も読むだけ。面倒だけど、特別おかしなことはない。
最初の二回は普通だった。
三回目で、自分の声のあとに、もうひとつ声が聞こえた。
「え、なにそれ」
「ほんの少し遅れて返ってくるの。やまびこみたいに」
「校内放送の機械ってそういうのあるの?」
「私も最初そう思った。ヘッドホンの返しとか、マイクの設定とか。だから別に気にしなかった」
「でも違ったんだ」
「違った」
私はそのときのことを思い出す。マイクの先についた丸いスポンジ、赤く点いた録音ランプ、閉め切った部屋の生ぬるさ。読み上げる原稿の紙を持つ指先だけが、少し乾いていた。
声は確かに私の声に似ていた。高さも、息の混ざり方も似ていた。でも、真似みたいに少しだけきれいだった。私が噛みそうなところを噛まない。息継ぎの位置まで、半拍先に知っているみたいだった。
「たとえば?」
「『次は美術部です』って読むでしょ。そうすると、私の声のあとに『……美術部です』って返る。で、次の行を読み始めると、またあとから重なる」
「録音ミスじゃん」
「うん。だから一回止めて、データを消して、最初から録ったの」
「それでも?」
「返ってきた」
向かいの子が椅子の前脚を床につけた。さっきまでわざと鳴らしていた軋みが止む。
「先輩には言った?」
「言ったよ。そしたら『古い部屋だからね』って笑ってた。機材の遅延じゃないかって。で、配線見てくれたんだけど、隣の準備室につながってるはずのモニター、電源入ってなかった」
「じゃあ、どこから聞こえたの」
「わかんない。でも、扉の隙間の向こうからって感じはした」
そこで初めて、向かいの子は教室の後ろを振り返った。もちろん誰もいない。カーテンが半分開いたままで、外の色だけがじわっと入っている。
「で?」
「その日は先輩が戻ってきて終わり。結局、普通に録音して帰った」
「え、終わり?」
「終わりだと思った」
私はスマホをまた裏返した。
「その夜、先輩から録音データが送られてきた。『これ使うね』って」
「うん」
「聞いたら、私の声のあとに、ちゃんともうひとつ入ってた」
「は?」
「しかも、教室で読む原稿じゃないところまで」
向かいの子の顔から、さっきまでの軽さが少しずつ抜けていくのが見えた。こういう時、この子は目だけ先に黙る。
「原稿じゃないところって?」
「録音止めたあとに、小さくため息ついたの。あと、『喉乾いた』って独り言。そしたら二秒くらい遅れて、同じ声で『喉乾いた』って入ってた」
「それ……」
「気持ち悪いよね」
「いや、気持ち悪いとかの前に、先輩に送り返せって。こんなの使えないって」
「送ったよ。そしたら『何も入ってないけど』って返ってきた」
「は?」
「だからスクショして、そこって時間指定もした。でも『普通の録音にしか聞こえない』って」
「待って。じゃあそれ、あんたにしか」
「たぶん」
そこで沈黙ができた。教室の天井のスピーカーから、もう放送も鳴らない。遠くで運動部の掛け声がひとつ上がって、すぐ風に切られて消える。
「それでね」と私は続けた。「次の日、もう一回行ったの。放送室」
「ひとりで?」
「昼休みなら誰かいると思ったから」
「思ったから、って。行くんだ」
「気になるでしょ」
「まあ……ちょっとは」
「その日は誰もいなかった。扉だけ開いてて、中の機材に布かぶせてあって、電気も消えてた。で、隣の準備室の扉だけ、また少し開いてた」
「やめて」
「中を見た」
「見たの!?」
「そんなに大したものじゃなかったよ。ラックの上に古いCDラジカセがあって、その横に、録音用の小さいICレコーダーが置いてあっただけ」
「学校の備品?」
「だと思う。液晶がついてて、再生中の表示が出てた」
「勝手に?」
「うん」
私はそのとき見た細い液晶の青白さを思い出す。暗い部屋では、ああいうのが変に目立つ。
「止めようとして近づいたら、スピーカーから声が出た。私の声だった。でも、聞いたことのない話をしてた」
「どういうこと」
「『今、扉の前で立ち止まった』って」
向かいの子の喉が鳴ったのが聞こえた。
「『右手でドアノブを触ってる』って。『でも開けるのは左手』って。そんなふうに、私の動きを少し先に読んでた」
「嘘でしょ」
「嘘ならよかった」
「いや、待って。少し先にって、何秒くらい」
「一秒とか二秒とか。そのくらい」
「じゃあ、録音じゃなくない?」
「だから変だった」
私はその時、レコーダーに向かって「誰?」って聞いた。そうしたら一秒遅れて、同じ声で「誰?」って返ってきた。真似じゃなかった。口調が、私のものより少しだけやさしかった。
「で、どうしたの」
「電源抜いた」
「当然」
「でも止まらなかった」
「うわ」
「コンセントないから、電池抜けばよかったんだろうけど、その時はそこまで頭回らなかった。レコーダー持って放送室に出たら、そこで先輩が戻ってきて、何してるのって聞かれて」
「説明した?」
「した。でも先輩には何も聞こえてなかった」
「また?」
「うん。私が持ってるレコーダーから、私には声が流れてるのに、先輩には無音だった」
「それ、やばいって」
「先輩、ちょっと嫌な顔して『それ、前にも言ってた子がいた』って」
「前にも?」
「去年、放送委員だった三年の人。録音のあとに、自分の声が遅れてついてくるって。しかも、その子は最後のほう、『自分がまだ喋ってないことを先に言われる』ようになった」
「……その人、今どうしてるの」
「卒業したって聞いた。でも」
「でも?」
「その人の名前、卒業アルバムの放送委員の欄に載ってなかった」
向かいの子は何も言わなくなった。机の端を爪で押している。からかう余裕はもうない。
「そのあと、私、先輩に頼んでレコーダーの中身をパソコンで確認したの。ファイルがひとつだけ入ってて、日付が変だった。来週の日付」
「は?」
「再生したら、最初は無音。次に、教室の椅子の音。窓が鳴る音。で、女の子の声がした」
「……なんて?」
「『ねえ、なんかネタないの?』って」
向かいの子の肩がびくっと跳ねた。
私は少しだけ笑った。笑わせるつもりじゃなくて、あの時ほんとうにそうだったからだ。
「私はそこでやっと嫌になって、ファイルを消した。レコーダーごと先輩に押しつけて、もう関わらないって言った」
「賢い。遅いけど」
「うん。でも、その日の帰りにスマホのボイスメモ開いたら、知らないデータが増えてた」
「勝手に?」
「タイトルもなくて、時間だけ今さっきになってるやつ。再生したら、私が歩く音が入ってた。あと、隣を歩いてる誰かの靴の擦れる音」
「それ誰」
「わからない。まだその時は、誰もいなかったから」
「……まだ?」
「少しして、後ろから同じ足音がついてきた」
教室の空気が静まりすぎて、外の風で窓枠が鳴るだけでも大きく聞こえた。
「振り返った?」
「振り返った。誰もいなかった。でもボイスメモのほうでは、すぐ耳元で声がした」
「何て」
私は向かいの子の顔を見た。薄暗くなった教室では、表情が半分しかわからない。
「『今、振り返った』って」
「……」
「『今、怖がった』って」
「もうやめて」
「で、最後に」
私はそこで言葉を切った。言いたくないふりではなく、思い出すのに少しだけ時間がかかったからだ。
「『次は、隣の子に聞かせればいい』って入ってた」
向かいの子が椅子を引いた。床を擦る音がやけに乾いている。
「それ、冗談だよね」
「冗談ならいいけど」
「いや、だって今の話、最初からそれ前提みたいじゃん」
「そうかも」
「そうかも、じゃなくてさ」
その子は立ち上がりかけて、でも完全には立たなかった。逃げるか、座るか、迷っているみたいだった。
「ちょっと聞いて」と私は言って、スマホを表に返した。「残してあるから」
「は?」
「最後のやつ。消してない」
「なんで!?」
「気になったから」
「その気になる、絶対おかしいって!」
私は再生ボタンを押した。
最初は、ただのノイズだった。教室の空調みたいな、薄いざらつき。次に、机に指が触れる小さな音。向かいの子が息を止める気配。そこまでは、今この教室で鳴っているのと同じだった。
そして、少し遅れて、声がした。
『ねえ、なんかネタないの?』
向かいの子が口元を押さえた。録音の中では、さっきの軽い声がそのまま流れている。次に、落ち着いた声。あんまり気持ちいい話じゃないけど。怖いやつ? うん、多分。
全部、今ここで交わした会話だった。
「ね……ねえ、止めて」
「まだ」
「まだって何」
「最後まで聞いたほうがいい」
「よくない!」
けれど私は止めなかった。音声の中の会話は、現実より少しだけ先を走り始めていた。向かいの子がまだ言っていないはずの台詞が、先にスピーカーから流れる。
『それ、冗談だよね』
向かいの子の顔色が変わる。現実のその子はまだ何も言っていない。けれど、数秒後、同じ声で、本当に同じ言葉を吐いた。
「それ、冗談だよね」
私は画面を見たまま答えた。
「ね?」
「やだ……なにこれ、やだ」
録音の中で椅子が倒れる音がした。現実の教室では、まだ倒れていない。
『帰る』
先にそう流れて、次の瞬間、向かいの子が鞄を掴んで立ち上がった。
「帰る!」
がたん、と本物の椅子が倒れた。録音と同じ音だった。
私はそこでやっと停止した。
教室の奥で、息が乱れる音だけがする。向かいの子は泣きそうな顔で扉のほうを見ていたけど、すぐには走らなかった。走ったら、次に何が起こるか、もう聞いてしまった人の顔だった。
「……このあと、どうなるの」
「最後までは聞いてない」
「なんでそんな平気なの」
「平気じゃないよ」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「ただ、私には最初から、少しわかってたから」
「何が」
「遅れて返ってくるんじゃないってこと」
向かいの子がゆっくり首を振る。
「それ、どういう意味」
私はスマホを机に置いた。黒い画面に、私たちの姿は映らない。光が足りないからじゃなく、最初からそういうものみたいに。
「返ってきてたんじゃなくて、向こうが先に喋ってただけ」
「向こうって、誰」
「さあ」
私は立ち上がった。向かいの子が一歩ぶん後ずさる。
「でも、たぶん」
教室の扉の外、廊下のほうで、誰かが私たちの会話を一秒遅れでなぞるような気配がした。音というほどはっきりしない、薄い口の動きだけのようなもの。
「今は、もう一人じゃない」
向かいの子はそれ以上しゃべらなかった。
机の上のスマホが、小さく震えた。新しいボイスメモが保存された通知だった。再生時間は、まだ増え続けている。
私は見ないまま鞄にしまった。
たぶん次は、あの子の声が、少しだけきれいに入る。