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長編

鍵盤の下のラ

放課後の教室で語られる、音楽室で一音だけ消える鍵盤の話。失われた「ラ」は歌った人の喉を抜け、次の口を探して歩き出す。

Genre
学園ホラー
Series
hutari
#鍵盤#合唱#欠音#指先

「ねえ、なんかネタないの?」

その子は窓際の席で、帰る支度を半分だけ済ませたまま、机に肘をついていた。廊下からは運動部の声が遠く聞こえる。教室の空気はもう授業のものじゃなくて、誰も急いでいない放課後の薄さになっていた。

「あるよ。あんまり気持ちいい話じゃないけど」

「怖いやつ?」

「うん、多分」

「その言い方さ、毎回ちょっと逃げてるよね。怖いなら怖い、でよくない?」

「私はそこまで怖くなかったから」

「聞く側に優しくないんだよ、それ」

そう言いながら、その子はさっきから小さく鼻歌を続けていた。最近よく流れてるアイドルの曲だったと思う。サビの上がるところで、なぜか一か所だけ息が抜けるみたいに薄くなる。

私はそれを聞いてから、話すことにした。

「今日、音楽室の前通ったでしょ」

「え?」

「昼休み」

「通ったけど。なんで」

「別に。じゃあ、その話する」

「なにそれ。怖い話の導入で今の確認、やめて」

私は鞄のファスナーを閉める手を止めた。

「この前、合唱コンクールの伴奏用の譜面、第二音楽室まで運ぶの手伝ったんだ」

「あー、先輩に押しつけられたやつ?」

「そう。うちのクラス、伴奏の子が昼休みに練習したいって言ってて、予備の譜面をまとめて持っていくことになったの」

「音楽室って夕方になると急に嫌な感じになるよね。なんか椅子多いし」

「わかる。誰も座ってないのに、見られてる感じする」

「そうそう。で?」

第二音楽室は、普段あまり使わない。合唱コンクール前だけ開く部屋で、古いアップライトピアノが一台ある。艶も落ちてるし、鍵盤も何本か色が変わってる。新しいほうの音楽室が使えない時だけ、臨時で使う場所だった。

「最初に変だと思ったのは、ピアノの音だった」

「調律ずれてたとか?」

「うん、みんな最初はそう思ってた。実際、一音だけ変だったし」

「一音だけ?」

「ラ」

「ラ?」

「ドレミのラ。そこだけ押しても、ほとんど鳴らないの。鍵盤は沈むのに、音が出ない」

「壊れてるじゃん」

「壊れてるなら、それで済んだんだけどね」

その子は顔をしかめた。

「嫌な言い方」

「昼休みに練習してた子たち、最初は笑ってたよ。『また死んでる』とか言って。ラのところだけ飛ばして弾けばいいし、合唱の伴奏ならなんとかなるから」

「まあ、ピアノ詳しくなきゃそんなもんかも」

「でも、その部屋で一人で残った子だけ、少し変になった」

「どう変に」

「歌いにくくなるの」

「それ、緊張とかじゃなくて?」

「最初はそう見えた。高い音が出ないとか、喉の調子悪いとか、よくあるし」

「うん」

「でも、みんな同じところでつまずいた。ラの音だけ、急にわからなくなる」

その子は笑おうとして、やめた。

「え、なにそれ。音感なくなるってこと?」

「なくなるっていうより、その音だけ喉を通らない感じ。耳ではわかるのに、自分の口から出ない」

「そんなことある?」

「一人目は一年の子だった。伴奏に合わせて歌ってたら、その音だけ息みたいになったって。二人目は先輩で、発声練習中に『ラ』だけ空気が抜けるみたいで気持ち悪いって言ってた」

「うわ」

「三人目で、ちょっとおかしくなった」

「もう三人いる時点で充分おかしいけど」

私は少しだけ笑った。あの時も、似たような反応だった。

「その子、練習終わりに廊下で私に聞いたの。『あのピアノの下、誰かいた?』って」

「下?」

「鍵盤の下。足を入れるところあるでしょ。ペダルの奥」

「見ないでほしい場所だね」

「『弾いてないのに、そこで指が動いた』って」

教室の外で、誰かが走っていく音がした。すぐ遠ざかって、また静かになる。その静けさのほうが長く残る。

「それで、見に行ったの?」

「その日は行ってない。気持ち悪いし、関わらないほうがいいと思ってたから」

「珍しいね」

「でも次の日、伴奏の子が泣いた」

「え」

「本番近いのに、サビの一か所だけどうしても歌えないって。耳元でピアノ鳴らしても、その音だけ自分の中から抜け落ちる感じがするって言ってた」

「そんな急に?」

「うん。で、その子が言ったの。昨日、最後にひとりで譜面閉じてた時、鍵盤の奥から小さい声で『それ、ちょうだい』って聞こえたって」

その子の肩がわずかに縮んだ。

「声?」

「女の子っぽかったって。でも、はっきりしなかったらしい。息の混じった音で、言葉だけ近い感じ」

「やだ」

「それで私、放課後に見に行った」

「行くんだ……」

「気になるでしょ」

「いや、その気になるが毎回よくない方向なんだよ」

第二音楽室は、西日が長く差し込む部屋だった。夕方だと床の木目ばかり明るくて、壁際は逆に暗く見える。譜面台が何本も並んでいて、その影がやたら細い。人がいないと、楽器のある部屋って呼吸を止めてるみたいに静かだ。

ピアノの蓋は閉まっていた。鍵盤の上に、誰かの消しゴムのかすみたいな白い粉が少しだけ散っていた。私は適当にハ長調の音階を弾いてみた。

「ド、レ、ミ、ファ、ソ、」

そこでひとつ、音が痩せた。

「ラだけ、やっぱり鳴らない」

「やめて、口で言わないで」

「で、止めたあとに、もう一回だけその音がした」

「は?」

「私、押してないのに。遅れて、ラだけ」

その子が椅子を引き寄せた。近くなったというより、無意識に離れたくなくなった感じだった。

「ペダルか何かじゃないの?」

「私もそう思って下を見た」

「見たんだ」

「暗くて、最初は何も見えなかった。でも、目が慣れたら、ペダルの奥に爪みたいなのが並んでた」

「……は?」

「指だった。五本。床からじゃなくて、ピアノの中から、少しだけ出てた」

「やめて」

「白かったよ。鍵盤の色に似てた。で、その指が、机を叩くみたいに順番に動いてた。とん、とん、とん、って」

「なにそれ……」

「音階をなぞってた。ラのところだけ、少し強く」

私はその時のことを思い出す。喉が渇いたというより、口の中の水分だけ急に引いたみたいだった。逃げればよかったのに、私はしゃがんで、その奥を覗きこんでしまった。

「そしたら、声がしたの」

「どこから」

「鍵盤の裏」

「何て」

「『まだある?』って」

その子が顔をしかめたまま、何も言わなくなる。こういう時、この子は口より先に目が黙る。

「私は意味わかんなくて、『何が』って聞いた」

「聞いたの?」

「そしたら少しだけ笑ったみたいな音がして、『ラ』って言った」

「……」

「『歌う子のラ。ひとつでいいから』って」

教室の時計が、そこでひとつ進んだ。べつに大きくもない音なのに、妙に近く聞こえた。

「で、どうしたの」

「立ち上がろうとした。帰ろうと思った」

「うん」

「でも、立つ前にピアノの表面に私の顔が映ってるのが見えた」

「それが?」

「口が、私より先に開いてた」

「え」

「映ってるほうの私が先に『もうあげたでしょ』って言った」

「無理」

「現実の私はまだ何も言ってないのに」

「無理無理」

「そのあと一拍遅れて、ほんとに同じ言葉を言った」

私は机の上に指を置いた。木の表面はもう少しで夜になる冷たさだった。

「そしたら中の声、急に静かになった。で、すごく残念そうに『そっか』って言ったの」

「意味わかんない……あんた、何をあげたの」

「わからない。でも、その時ちょっとだけ思った。私、昔から合唱でラをちゃんと歌えた記憶ないなって」

「今そこ気づく?」

「たぶん、もともと持ってなかったのかも」

「そんなことある?」

「ないと思う。でも、その日以降、ピアノは他の子からラを取らなくなった」

「じゃあ解決したんじゃん」

「音楽室のほうはね」

「ほうは、って何」

私はさっきから気になっていたことを、その子の鼻歌の続きを思い出しながら言った。

「そのかわり、時々こっちで鳴くようになった」

「こっち?」

私は自分の喉を軽く指で押した。

「静かな場所で誰かが歌うと、足りないラがどこにあるかわかるようになった」

「……気持ち悪」

「そうだね」

「それ、今も?」

「うん」

その子が冗談めかして笑おうとした。けど失敗した。

「じゃあ、今この教室にもあるわけ?」

「あるよ」

「どこ」

私はすぐには答えなかった。その子の口元を見ていた。さっきから少し乾いていて、無意識に下唇を舐めている。

「ねえ、さっきからその曲、サビをちゃんと歌えてない」

「え?」

「上がるところ。そこだけ薄い」

「そんなことないし。鼻歌だよ?」

「じゃあ、ラって言ってみて」

「は?」

「一回だけでいいから」

「やだよ、急に」

「怖くないなら言えるでしょ」

「その煽り方ずる」

その子は嫌そうに笑って、それから軽く息を吸った。

「……ら」

音は出た。

でも、口の形のわりに、短すぎた。

いま確かに一音足りなかった、と言葉にする前に、その子自身が気づいた顔をした。目が丸くなって、すぐ喉に手がいく。

「え、ちょっと待って」

「もう一回」

「やだ」

「いいから」

「なんでそんな落ち着いてんの」

「確認したいだけ」

その子は首を振ったけど、振りながらもう一度だけ口を開いた。

「ら」

今度は、完全に消えた。

声が出なかったわけじゃない。前後の息はあるのに、その一音だけ床に落ちたみたいに見えなくなった。

そして、私たちの間の机の裏側から、小さく鳴った。

乾いたピアノのラ。

その子が立ち上がった拍子に椅子が鳴る。私は動かなかった。

「なに今」

「たぶん、ここにいる」

「ここってどこ!?」

「下」

「やめて!」

その子は反射的に机から離れた。けど、もう遅いんだと思った。こういうのは、気づかれた時点で半分入ってる。

「昼休み、音楽室の前で止まったでしょ」

「止まったけど、それだけだし!」

「中、誰か弾いてた?」

「聞こえた。下手な音階」

「ラは?」

その子はそこで黙った。思い出したらしい。サビだけじゃない。さっきからずっと、その音だけ自分の鼻歌から抜けていたことを。

「……鳴ってなかった」

「うん」

「なんでわかるの」

私は少し考えてから、肩をすくめた。

「前から、足りない音には気づくから」

「前からって、いつから」

「たぶん、あの部屋に行くより前から」

その子の顔が、怖がっているのにまだ半分だけ疑っていた。全部信じたくない時の顔だった。

「戻るの、それ」

「明日には戻るかも」

「かも、って何」

「ひとりで歌わなければ」

「歌うわけないじゃん!」

「そう」

私は机の裏にそっと指先を当てた。木の下から、ほんのわずかに震えが返る。人の喉じゃない場所に、ちゃんと一音ぶんいる感じがした。

「もし戻らなかったら」と私は言った。

「なに」

「預かってあげる」

「は?」

「そのほうが楽でしょ。ひとつくらいなくても、普通に喋れるし」

「よくないって!」

「大丈夫。慣れるから」

その子は何も言えなくなった。さっきまで机の上で転がしていたペンを、落としたことにも気づいていない。

私は鞄を肩にかけて立ち上がる。机の裏ではもう震えは止まっていた。たぶん今は静かにしてるだけで、完全に消えたわけじゃない。

教室の扉まで歩いてから、一度だけ振り返った。

「ねえ」

その子はびくっとした。

「帰り道、歌わないほうがいいよ」

「……なんで」

「口を開けると、どこに隠れてるかわかるから」

その子はもう返事をしなかった。

私は教室を出た。廊下は少し暗くて、階段の踊り場のあたりから誰かの下手な音階が聞こえた。

ド、レ、ミ、ファ、ソ。

そこで一拍あいて、それでも次はちゃんと続く。

ラは、もう見つけたらしい。