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長編

三十七度二分の空席

放課後の教室で語られる、保健室のベッドに残り続ける三十七度二分の話。空いているはずの場所は、次に横になる相手を静かに選んでいる。

Genre
学園ホラー
Series
hutari
#保健室#微熱#カーテン#体温

「ねえ、なんかネタないの?」

日直の黒板消しだけがまだ終わってなくて、教室の後ろが白っぽく霞んでいた。窓は半分だけ開いていて、春でもないのに妙にぬるい風が入ってくる。帰る気はあるのに、すぐには立ち上がらない。そういう時間だった。

「あるよ。あんまり気持ちいい話じゃないけど」

「怖いやつ?」

「うん、多分」

「その言い方さ、毎回ちょっと腹立つんだよね。怖いなら怖いって言いなよ」

「私はそこまででもなかったから」

「それ、聞く側に全然優しくないやつ」

向かいの子は文句を言いながら、鞄の口を閉める手を止めた。やっぱり聞く気はあるらしい。机に頬杖をついて、こっちを見る。

「この前、保健室の手伝いしたんだ」

「なんで急に。ケガしたの?」

「してない。先生に頼まれた。ほら、先月けっこう風邪流行ったでしょ。記録の整理と、使った毛布を畳むの、人手ほしかったみたいで」

「あー。絶対やりたくない。あそこ薬っぽい匂いするし」

「するね」

「で、何? 保健室の先生が実は二人いた、とか?」

「そんな親切な話じゃない」

「親切?」

「二人いたら仕事が早いでしょ」

「そっちの意味か。やだなあ」

私は窓の外を見た。校舎のガラスに夕方の色が薄くついていて、でもまだ明るさは残っている。こういう時間の学校は、別に怖くない。人が減るだけで、建物は普通のままだ。少なくとも、見える範囲では。

「最初に変だと思ったの、体温の記録だった」

「検温のやつ?」

「うん。保健室に来た子、名前とクラスと体温を書くノートあるでしょ。あれを月ごとにまとめてたら、同じ数字が何回も出てきた」

「何度?」

「三十七度二分」

「微妙」

「でしょ。高熱じゃない。帰らされるほどじゃない。ちょっとだるいから休みたいです、って言うにはちょうどいい温度」

「サボりラインっぽいね」

「私も最初そう思った。ずるいやつ何人かいるんだろうなって」

「いるでしょ、絶対」

「でもね、その三十七度二分だけ、書き方が変だった」

「書き方?」

「他の欄はみんな普通なの。名前があって、クラスがあって、体温があって。なのに、その数字の行だけ、名前のところが空白だった」

「え、先生が書き忘れたとかじゃなくて?」

「一日だけならそう思う。でも何日もあった」

向かいの子が頬杖を外した。

「何日も?」

「うん。週に二回とか三回とか。名前はないのに、三十七度二分だけ記録されてるの。しかも毎回、放課後に近い時間」

「誰が測ったの、それ」

「わからない。ノートを見た先生に聞いたら、『そんな欄あった?』って言われた」

「見えてないの?」

「少なくとも、気にしてなかった」

「え、それもう嫌なんだけど」

「まだこの時は、ただの気持ち悪いノートって感じだったよ」

保健室はその日、珍しく静かだった。ベッドのカーテンも全部開いていて、日当たりの悪い床だけが少し冷えていた。消毒液と柔軟剤の混ざった匂いがして、白い棚の中に包帯がきっちり並んでいた。何もおかしくない。そういう場所ほど、細い違和感が残る。

「ノートを閉じて、次はベッドのシーツ替えしてたの。窓側のいちばん奥、カーテンレールが少し曲がってるとこ」

「奥って、なんか地味に嫌な位置」

「人気なかったよ、そのベッド。日が当たりすぎるし、外から部活の声も聞こえるから、落ち着かないんだと思う」

「じゃあ空いてたんだ」

「その日はね。でも、シーツを剥がしたら、そこだけあったかかった」

「え」

「今まで誰も寝てなかったのに」

向かいの子は、笑おうとしてやめたみたいな顔をした。

「それ、さ。日が当たってたとかじゃないの?」

「夕方だったし、カーテン閉まってた」

「湯たんぽ入ってたとか」

「六月に?」

「じゃあ知らない」

私は少しだけ笑った。あの時も、似たようなことを考えた。理由があるならそっちで済ませたい。だいたいの人はそうする。

「枕も少し沈んでた。誰かがさっきまで頭を乗せてたみたいに」

「先生に言った?」

「言った。そしたら『今日はそこ使ってないよ』って。記録にもないって」

「記録にはない、ねえ」

「で、その時ちょうど、別の子が来たの。頭痛いって」

「うわ、タイミング」

「一年の子。顔色は普通で、熱もない。でもふらつくって言うから、先生が『少し寝ていきなさい』って言って」

「まさかそのベッド?」

「そう」

「嫌すぎる」

「でも他は洗ったシーツ広げてる途中だったし、空いてたのそこだけだったから」

私はそこでいったん黙いた。向かいの子が、続きを急かすみたいに机を軽く叩く。

「その子、寝たの?」

「寝た。十分くらい。起きた時は普通だったよ。ありがとうございますって言って帰っていった」

「じゃあ別に」

「次の日、その子また来た」

「え」

「熱が三十七度二分あるって」

教室の奥で、風に押された掲示物がかすかに揺れた。紙の端が壁を擦る音が、やけに近く聞こえる。

「偶然じゃない?」

「私もそう思った。たまたまその子が風邪ひいただけかもしれないし」

「うん」

「でも、その次の週も同じことがあった」

「また別の子?」

「別の子。今度は体育のあとで気分悪いって来た。やっぱり窓側の奥で寝かされて、次の日に三十七度二分」

「……固定?」

「ぴったりだった」

「それはやばい」

「高くならないの。三十七度三分にも、一度にもならない。二分だけ」

「細かくて気持ち悪……」

向かいの子は自分の腕をさすった。寒いわけじゃないのに、そうしたくなる時がある。

「でね。三人目で、ちょっと変わったことがあった」

「もう三人もいるんだ」

「その子、帰る前に私に言ったの。『あのベッド、誰か先に寝てました?』って」

「なにそれ」

「『カーテンの向こうで、息する音したから』って」

「先生は?」

「先生は職員室。私しかいなかった」

「やめてよ」

「私はその時、冗談かなと思って、『隣じゃない?』って返したんだけど」

「違った?」

「保健室、その時間ベッド一つしか使ってなかった」

向かいの子が目を逸らした。教室の後ろ、誰もいない掃除用具入れのほうに。見たって何もないのに、こういう話を聞くと、視線の置き場がなくなる。

「その日の帰り、なんとなくノートを開いたの。そしたら、その日付のいちばん下にまた空白の行が増えてた。名前なし。三十七度二分」

「もう先生に全部言いなよ」

「言ったよ。でも『見間違いじゃない?』って感じだった。実際、先生が見ると薄くなるみたいで」

「薄くなる?」

「鉛筆で軽く書いた字みたいになるの。私が一人で見ると、ちゃんと黒いのに」

「最悪」

「それで気になって、その次の日、放課後に一人で残った」

「一人で行くんだ……」

「気になるでしょ」

「いや、それ毎回言うけど、その気になるがもう普通じゃないから」

私は否定しなかった。あの時の私は、たぶんもう少しだけ、普通からずれていたのかもしれない。

「保健室、電気つけないで入ったの。まだ外が明るかったから」

「なんでわざわざ」

「暗いほうが見えるものあるから」

「それホラー映画で最初に消える人の理屈じゃん」

「でもその日は、ちょっと正しかった」

窓側の奥のベッドだけ、カーテンが半分閉じていた。先生は几帳面だから、使ってない時は全部開ける。だからそれを見た瞬間に、ああ、いるんだと思った。

「誰か入ってたの?」

「見た目には誰も。靴もないし、鞄もない。でもカーテンの下、床との隙間に影があった」

「影」

「足の形じゃなかった。もっと平たくて、寝てる体の横幅だけ落ちてるみたいな」

「見に行ったの?」

「行った」

「本当にさあ……」

「カーテンに手をかけたら、中から体温計の音がした」

「ピッ、てやつ?」

「そう。一回だけ」

「誰もいないのに?」

「うん」

私はその時のことを今でも細かく覚えている。カーテンの布が指にざらっと引っかかったこと。消毒液の匂いの奥に、少しだけ湿った髪みたいな匂いがあったこと。自分の手のひらがやけに冷たかったこと。

「開けたら、ベッドは空だった。でも枕の横に体温計が置いてあった。電源入ったままで、表示が三十七・二」

「うわ」

「誰も触ってないのに、まだあったかかった」

「もう捨てて」

「学校の備品だから無理」

「そういう問題じゃなくて」

「わかってる」

私はその体温計を持った。そしたら、奥の壁に立てかけてある姿見みたいな細い鏡に、私じゃない動きが映った。

向かいの子が息を止める。

「え」

「私の手はまだ体温計を持ち上げてる途中なのに、鏡の中の私はもうベッドの端に座ってた」

「は?」

「顔はよく見えなかった。カーテンの影がかかってたから。でも、首の傾き方が私だった」

「それ……」

「その時、声がしたの」

「どこから」

「ベッドのほう」

私は低く言った。あまりはっきり思い出したくない時、人は声量を落とす。

「『それ、冷たいね』って」

「……誰が?」

「私の声で」

向かいの子の肩が小さく跳ねた。私は続けた。

「振り向いたら誰もいない。でも鏡の中では、ベッドに座った私がこっちを見てた。で、もう一回言った。『だから、少し分けて』って」

「何を」

「体温」

教室の空気が少し変わった気がした。実際には何も変わってない。窓は同じだけ開いていて、外からは運動部の笛も聞こえる。ただ、話を聞いてるほうの呼吸が浅くなっただけだ。

「逃げた?」

「その時はまだ逃げなかった」

「いや逃げて」

「逃げればよかったかもね。でも、その前に気づいたの。ノートが開いてて、最後の行に字が増えてた」

「何て?」

「名前は空白のまま。体温は三十七度二分。その横に、小さく『次』って」

「無理無理無理」

「それで、たぶんわかった。あのベッド、熱が欲しいんだよ」

「欲しい、って」

「寝た子から少しずつ取るの。だから高熱にはならない。倒れるほどでもない。ちょっとだけ、毎回同じぶんだけ減る」

「そんなの……」

「説明つかないよ。つかないけど、そう考えると変なことが合った」

「例えば?」

「三十七度二分になった子、みんな似たこと言ってた。『寒いわけじゃないのに、誰かに毛布取られた感じがする』って」

向かいの子はとうとう笑わなくなった。話を半分疑う顔ですらない。ただ、聞いたらもう戻れないものを聞いてしまった人の顔だった。

「で、どうしたの」

「横になった」

「は?」

「そのベッドに」

「なんで!?」

「次を増やしたくなかったから」

「意味わかんない!」

「一回で済むなら、そのほうが早いでしょ」

「早いとかそういう話じゃないって!」

私はあの時の保健室の白さを思い出す。カーテンを閉めると、外の音が急に遠くなる。ベッドは見た目より硬くて、シーツは新しいのに少し古い匂いがした。天井の染みを数えるには近すぎる距離で見上げながら、体温計を脇に挟んだ。

「数字、どうだったと思う?」

向かいの子は答えなかった。答えたくないんだと思った。

「三十四度台」

「え」

「壊れてるかと思って測り直した。でも同じ」

「そんなの生きてないじゃん」

「そうだね。私もそう思った」

私はそこで少し笑った。おかしいからじゃない。ただ、その感想がいちばんまともだったから。

「そしたら、カーテンの向こうから手が伸びてきた」

「……」

「見た目は私の手。爪の形も同じ。で、指先だけ少し赤かった。たぶん、まだ誰かから取ったばかりだったんだと思う」

「やめて」

「その手が、私の手首を触って」

「やめてって」

「すごくがっかりした声で言ったの。『もうないんだ』って」

向かいの子は完全に黙った。私は机の上に置いていた自分の指先を見る。今もあまり色がない。

「次の瞬間、カーテンの向こうの重みが消えた。ベッドのあったかさもなくなった。ノートを見たら、『次』の字だけ消えてた」

「それで終わり?」

「一応ね」

「一応って何」

「その日から、空白の三十七度二分は出なくなった」

「じゃあ解決したじゃん」

「うん。保健室のほうは」

「ほうは?」

私は視線を上げた。向かいの子が、自分でも気づかないまま喉元に手を当てていた。暑いのか寒いのか確かめるみたいに。

「代わりに、私があんまり熱を持たなくなった」

「……それ、病院行った?」

「行ってない。困ってないし」

「困ってるでしょ。三十四度台とか」

「でも普通に歩けるし、授業も出られる」

「それ普通じゃないから」

「たぶんね」

向かいの子は何か言い返そうとして、でも口を閉じた。冗談じゃないとわかると、人は案外うまく怒れない。

「で、最近気づいたんだけど」と私は言った。「私、近くにいる子の体温、少しわかるみたい」

「は?」

「高いとか低いとか、触らなくてもなんとなく」

「気味悪……」

「さっきから少し熱いよ」

その子の顔が固まる。

「え」

「右のこめかみあたり、重いでしょ」

「……まあ、ちょっと」

「喉も乾いてる」

「それは普通に喋ってたからでしょ」

「そうかも」

私は鞄の横に置いていた小さな体温計を指先で押した。電源を入れると、見慣れた電子音が鳴る。

「持ち歩いてんの?」

「癖になってるから」

「ちょっと待って。え、まさか測る気?」

「嫌ならいいよ」

「嫌っていうか、その話のあとに勧められるの最悪なんだけど」

「でも気になるでしょ」

向かいの子は露骨に顔をしかめた。でも、少し迷ってから、しぶしぶ腕を出した。そういうところがよくない。聞くのも、試すのも、半分だけ嫌がる人がいちばん危ない。

私はその手首に指を置いた。柔らかくて、ちゃんと生きてる温度だった。少しだけ、うらやましいと思った。

「ねえ」と向かいの子が言う。「あんたの手、ほんと冷たい」

「そうだね」

「……どれくらいなの、今」

私は体温計の表示を見る前に、だいたいわかっていた。

「三十七度二分」

「は?」

「今のあなた」

その子が反射的に手を引こうとした。でも私は強く掴んでいたわけじゃない。離せるはずなのに、少し遅れた。ほんの一秒にも満たない、変な間があった。

電子音が鳴る。

画面には、きれいに三十七・二と出ていた。

「うそ……」

「ね?」

「ちょ、待って。私べつにだるくないし」

「まだね」

「まだって何」

「大丈夫。そんなにひどくならないから」

「全然大丈夫じゃないんだけど」

私は手を離した。向かいの子はすぐ自分の手首を押さえて、そこに何か跡が残っていないか見るみたいに指先をすべらせた。

「これ、あんたがやったの?」

「わからない」

「わからないじゃなくて」

「でも、保健室のベッドはもう空いてるよ」

「そういう問題じゃないって!」

声が少し裏返った。教室の壁に当たって、小さく返る。

私は鞄を持ち上げた。もう帰る時間だった。窓の外も、さっきよりちゃんと暗い。

「安心して」と私は言った。「明日には下がるかもしれない」

「かも、って何」

「もし下がらなかったら、保健室に行けばいい」

「行きたくない!」

「大丈夫。もうあそこには何もいないから」

「じゃあなんで私がこんな……」

私は少しだけ考えて、それから肩をすくめた。

「空席って、なくなると困るんじゃない?」

向かいの子は、それ以上何も言えなかった。

机の上の体温計が、私の手を離れたあとも少しのあいだ温かかった。誰の熱が残っているのか、確かめる気にはならなかった。私はそれを電源も切らずに鞄へ入れた。

たぶん明日、保健室のノートにまた数字が戻る。

名前のない三十七度二分じゃない。
今度は、ちゃんと書ける気がしている。