長編
靴箱の白線
昇降口の靴箱の前にだけ残る白い線と、そこへ何度も戻される私の靴。その意味に気づいた夜、待っていたものの位置が静かに入れ替わる。
第1章
「ねえ、上履きって勝手にそろうことある?」
そう言ったら、机に突っ伏してた子が顔だけ上げた。
「なにそれ。いい話? 怖い話?」
「たぶん、嫌な話」
「じゃあ怖い話じゃん」
「その分類ざっくりすぎ」
掃除のあとで、教室はちょっとだけワックスのにおいがした。窓の外はもう薄暗くて、部活帰りの声がたまに下から上がってくる。みんな帰るタイミングをなくしてだらだら残ってて、お菓子の袋を回しながら、どうでもいい話ばっかしてた流れで、私はそう聞いた。
「いや、だって今日さ、昇降口で見たの。あんたの上履き、めちゃくちゃきれいにそろってた」
「あー」
「自分でやったんじゃないの?」
「それがね、やってないんだよ」
そこで空気が少し変わる。
こういうとき、みんなだいたい静かになるふりだけはうまい。
「それ、前にもあった?」
「前どころじゃない。けっこう続いた」
「え、なにそれ。誰かの善意?」
「だったらもっと早く言ってよって感じ」
私は笑ったけど、笑いながら思い出したのは、あの白い線だった。
「一学期の終わりくらい。私、生活委員で、放課後に昇降口の掲示物貼り替える係やってたの」
「えら」
「ぜんぜんえらくない。じゃんけんで負けただけ」
「最悪」
ほんとに最悪だった。
七月の終わりって、ただでさえ帰りたいじゃん。暑いし、だるいし、教室も蒸すし。なのに私は何日か連続で先生に呼ばれて、昇降口の掲示板に夏休みの注意事項とか部活の連絡とか貼ってた。
で、その昇降口の靴箱の前に、白い線があった。
床に一本だけ、まっすぐ。
ワックス乾かすときに引くテープみたいな、細い線。
最初は気にしてなかった。
掃除の人がつけたんだろうなって、それだけ。
でも、その線の上に、毎回私の上履きだけ置かれるようになった。
第2章
一回目は、普通にいたずらだと思った。
作業を終えて靴箱に戻ったら、本来なら中に入ってるはずの私の上履きが、白い線の上にきっちりそろってた。つま先は出口のほう。
見た瞬間、「うわ、性格いい幽霊じゃん」って自分で思ったくらい、妙にちゃんとしてた。
「それはまあ、誰かふざけるかも」
「でしょ。私もそう思った」
だからその日は深く考えずに、上履きを靴箱に戻して帰った。
でも次の日も同じだった。
その次の日は、上履きだけじゃなくて、靴箱の中に入れてたビニール袋まで白い線のこっち側に出されてた。しかも折りたたんであるの。雑じゃないのが逆に嫌だった。
「え、親切」
「親切の距離感おかしいでしょ」
「たしかに」
私はそのへんからちょっと腹が立ってきて、同じ委員の子とか、たまたま近くにいたクラスの子に聞いたのね。
「ねえ、私の靴触った?」
でも、みんなふつうに「知らん」って顔だった。
その反応もリアルで、嘘ついてる感じじゃない。
それに、その頃の昇降口ってわりと人いたし、誰かが毎回こっそり私の靴だけ触るの、地味に面倒すぎるじゃん。悪ふざらけにしては持続力ありすぎるし。
だから気持ち悪さだけ残った。
しかも、変なのはそれだけじゃなかった。
白い線の向こう側、つまり靴箱に近いほうに立つと、たまに変なにおいがした。
ワックスというか、濡れた雑巾というか、掃除した直後みたいなにおい。なのに床は乾いてる。
あと、靴箱のすき間から、たまに小さい音がする。
かた、って。
中で誰かが爪を当てたみたいな、軽い音。
でも別に、それだけならまだ気のせいで済むじゃん。
昇降口なんて音が響くし、靴も多いし。
私がほんとに嫌だなって思ったのは、四日目だった。
掲示物を貼り終わって、いつも通り靴箱に向かったら、白い線の上に私のローファーまでそろってた。
「え?」
「それ、こわ」
そう。ローファーは下校用だから、朝に靴箱へ入れたはずのやつ。
それが外に出てて、上履きの隣にきれいに並んでる。
つま先は、やっぱり出口のほう。
そのとき、すぐ近くで声がした。
『そこ、置かないで』
ちっちゃい声。
聞き間違いかなってくらい小さいのに、やけにはっきり聞こえた。
私は反射で振り向いたけど、誰もいなかった。
昇降口は半分暗くて、ガラスの向こうがもう紺色で、遠くで運動部のかけ声がするだけ。
その日、私はローファーを履くのが妙に嫌で、結局いったんしゃがんだまま動けなかった。
第3章
「それ、先生には?」
「言ったよ。“誰かが整頓してくれてるんじゃない?”で終わった」
「雑」
「でしょ」
先生にとっては、靴がそろってるなんていいことだからね。
私も、口で説明するとそうなるのはわかる。靴箱が荒らされてるより百倍ましに聞こえるし。
だからそのあと、私は自分で確かめることにした。
ある日わざと、上履きをぐちゃっと靴箱に突っ込んでおいた。
左右も逆、かかとも踏んだまま、ぜったいそろえようがない入れ方。
で、放課後に見に行ったら、白い線の上にきっちり並んでた。
「うわ」
「ね。うわ、なの」
しかもその日は、靴箱の扉が少しだけ開いてた。
私の段だけじゃなくて、上下の段も、すこしずつ。
金属の扉って、暗いと中が見えない。
ただ黒い穴みたいになるじゃん。
それが並んで半開きになってるの、地味にかなり嫌だった。
私はその場で閉めようとした。
でも手を伸ばしかけた瞬間、ガラス扉のほうが目に入った。
昇降口の外はもうかなり暗くて、ガラスには中の様子がぼんやり映ってた。
私。
白い線。
靴箱。
そこまでは普通。
でも、映り込みの中でだけ、靴箱の前にもうひとりいた。
しゃがんでる子。
私のローファーに手を伸ばしてる。
その姿勢のまま、ゆっくり顔を上げた。
私は反射で現実のほうを見た。
もちろん、そこには誰もいない。
もう一回ガラスを見たら、そいつもいなかった。
「無理無理無理」
「でしょ」
その日はローファーをひったくるみたいに取って、友だちと一緒に帰った。
でも、誰かといれば平気って感じでもなかった。
むしろ次の日から、白い線が前よりくっきり見えるようになった。
昇降口の床って、ふつうは少し汚れてるのに、その線だけ妙に白いの。
さわったわけじゃないけど、濡れてるみたいにも見えた。
そのくせ、掃除の人に聞いたら「そんなテープ貼ってないですよ」って言われた。
そこからは、もう完全に帰りたくなかった。
でも靴箱は使うしかないし、学校ってそういう場所じゃん。嫌でも毎日同じところ通るし、避けたくても避けきれない。
だから私は、なるべく誰かと一緒に昇降口へ行くようにした。
それで少しはましだった。
少なくとも、あの声はひとりのときにしか聞こえなかったから。
第4章
で、いちばんやばかったのが、終業式の前日。
私は掲示物の貼り替えが長引いて、昇降口に行ったのがほぼ七時だった。
先生も用務員さんも見当たらなくて、校舎の電気も何本か落ちてた。
その時点で帰ればよかったんだけど、荷物は靴箱にあるし、そうもいかない。
階段を降りて、昇降口の角を曲がった瞬間、もう空気が違った。
涼しいとかじゃなくて、つるっとしてた。
床が磨きたてみたいなにおいで、音が妙に響く。
白い線は、その日だけやけに長く見えた。
私の靴箱の前だけじゃなくて、端から端まで一本に伸びてるみたいに。
そして、その線の手前に、私の荷物が全部そろってた。
上履き。
ローファー。
サブバッグ。
今日提出するはずだったプリントの入った透明ファイルまで。
ぜんぶ白い線のこっち側。
出口へ向けて、きれいに。
「待って、それ助けてくれてるやつでは」
「うん。そのときやっと、そうかもって思った」
でも、そのときの私はまだ半信半疑だった。
だって、じゃあ何から助けられてるのかがわからないから。
私は動けなくなって、白い線の前で立ったままだった。
そうしたら、靴箱の中から、声がした。
『履いて帰って』
小さい声。
でも今度ははっきり、私の声だった。
ぞわっとした。
喉の奥が冷たくなる感じ。
『開けないで』
それも、私の声。
私は靴箱を見た。
私の段の扉だけ、すこし開いてる。暗くて中は見えない。
そのとき、背後のガラス扉が、かすかに鳴った。
見るつもりなかったのに、見ちゃった。
ガラスの映り込みの中で、外にひとり立ってた。
上履きのままの女の子。
顔はこっちを向いてない。髪も、肩も、制服も、全部見覚えがある。
私だった。
ただひとつ違ったのは、そいつが白い線の向こう側に立ってたこと。
現実の昇降口には誰もいない。
でもガラスの中の私は、ゆっくり靴箱のほうへ歩いてきた。
かつ、かつ、と音はしない。
なのに歩幅だけ進む。
『早く』
靴箱の中の私が言った。
私は反射でしゃがみこんで、白い線の手前に置かれたローファーをつかんだ。上履きを脱いで履き替える手がめちゃくちゃ震えて、かかとが何回も引っかかった。
そのあいだも、ガラスの中の私は近づいてくる。
口だけが先に笑ってるのが見えた。
白い線のところで、そいつは止まった。
それ以上は来なかった。
そこでやっと気づいた。
あれ、線の向こうにいるんじゃなくて、向こうからこっちへ入ってこようとしてたんだって。
『見ないで、帰って』
靴箱の中の声が、ほとんど泣きそうに言った。
私はバッグをひったくって、そのまま出口へ走った。
ガラス扉を押し開ける瞬間、映り込みの中のそいつが同じタイミングで腕を上げたのが見えたけど、もう見ないふりした。
外に出たら、ふつうの夜だった。
自転車の音がして、遠くで犬が鳴いて、コンビニの光が見えた。
なのに後ろの昇降口だけ、ずっと暗かった。
第5章
「え、じゃあ靴箱の中にいたのは何」
「知らない」
「いやそこ大事でしょ」
「知らんって。知りたくもないし」
私はそこで、机の端を軽く叩いた。
「あのあとね、次の日に見たら白い線、なかったの。ほんとに最初からなかったみたいに」
「うわ」
「でも私の靴箱の中だけ、上履きの底のあとみたいな白い粉がついてた」
先生には何も言わなかった。
言ってもたぶん、掃除の粉とかチョークとか、そういう説明で終わるから。
それで十分だったのかもしれない。
あの日以降、私の靴が勝手にそろうことはなくなった。
少なくとも、昇降口では。
「少なくとも、ってなに」
「そのまま」
教室が静かになる。
窓の外はもう完全に暗い。誰かのスマホが一回だけ震えて、すぐ止まった。
「今日、最初に“上履きって勝手にそろうことある?”って聞いたじゃん」
私はそう言って、机の下を見た。
みんなもつられて見る。
私のローファーが、きれいにそろってた。
まだ帰る支度なんかしてないのに、机の下で、扉のほうを向いて。
「さっきまでこんなんじゃなかった」
「やめて」
「うるさい、帰れなくなる」
「私も帰りたくないんだけど」
冗談っぽく言ったけど、喉は全然笑ってなかった。
あのとき、靴箱の中で私の声をしてたものが何だったのか、今でもわからない。
ほんとに助けてくれたのかもしれないし、たまたまあっちじゃないほうだっただけかもしれない。
ただ、ひとつだけわかる。
靴が勝手にそろってる日は、急いで帰ったほうがいい。
たぶんあれは、「ちゃんとしててえらいね」じゃない。
たぶん、「こっちに置いておくから、余計な場所を開けないで」って意味だ。
だから私は今も、靴が出口のほうを向いていたら、誰より先に教室を出る。
机の中も、ロッカーも、靴箱も、なるべく最後まで見ない。
だってもし、そろえられてるんじゃなくて、迎えに来られてるほうだったら。
今度は白い線がない場所でも、間に合わない気がするから。