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長編

返しそこねの傘

保健室前の傘立てにいつも戻ってくる透明な傘を借りた夜、私の隣には最初からもうひとり入っていたことに気づく。

Genre
学園ホラー
Series
jk
#傘立て#水たまり#ガラス戸#借り物

第1章

「ねえ、ビニール傘ってさ、勝手に戻ってくることある?」

そう言ったら、机に頬杖ついてた子がすぐ笑った。

「やだ、雑に怖い」
「それただの置き傘じゃない?」
「いや、そういう便利な話じゃないのよ」
「じゃあ聞く聞く。帰れなくなるやつ?」
「たぶん、若干」

放課後の教室って、なんでああいう話を始めるのにちょうどいいんだろ。
窓の外はもう暗くなりかけてて、部活の声も遠いし、みんな帰る気あるのかないのかわかんない感じでだらだら残ってる。お菓子の袋が机の上に散ってて、スマホの充電コードが誰のかわからなくなってて、そういう、いつもの空気。

「これ、先月の委員会の日の話なんだけど」

私はそう前置きして、机の上のペットボトルを回した。

「資料まとめる係で、終わったのがけっこう遅かったの。六時半くらい。しかもその日、朝は晴れてたから傘持ってなくて」
「あるある」
「帰るタイミングで外見たら、ふつうに終わってたんだよね」
「終わってた?」
「天気が」

みんなが笑った。

「廊下の窓に水が張りついてて、グラウンドも白く見えないくらい降ってた。で、どうしよって思って、昇降口じゃなくて保健室の前にある忘れ物の棚、あるじゃん」
「あー、たまにジャージとか積まれてるとこ」
「そう。そこに傘立てあるの」

私はそのとき、ほんとにただ借りるだけのつもりだった。
あとで返せばいいし、先生だってたまに“急ぎなら共有の使っていいよ”みたいなこと言うから。

「で、一本だけ残ってたの。透明ので、持ち手に銀色の星のシール貼ってあるやつ」

その見た目だけ、妙に覚えてる。

古いシールで、端がめくれてた。
ビニールの一部も少しだけ曇ってて、新品じゃないのはすぐわかった。でも壊れてはいないし、むしろほかの忘れ物よりちゃんとして見えた。

「それ借りたの?」
「借りた。そこまでは普通」

第2章

最初に変だなって思ったのは、差した瞬間だった。

傘って、ひとりで入るとわりと余裕あるじゃん。
肩も濡れないし、荷物持ってても平気だし。でもその傘、なんか狭かった。

別に骨が曲がってるわけでもない。
ちゃんと開くし、大きさも普通。
なのに、右肩だけずっと冷たかった。外側からじゃなくて、内側からしずくが落ちてくるみたいな濡れ方。

「穴あいてたとか?」
「見たけどなかった」
「じゃあ最悪じゃん」
「そう、地味に最悪」

しかも、歩いてると上から落ちるしずくの音が、二回ずつするの。

ぽた。
ぽた。

片方は私の歩幅と合ってる気がする。
でももう片方は、ちょっと遅い。
半歩ぶんくらい、ずれてる。

そのときは、風かなって思った。
道路って車通るし、水も跳ねるし、音なんか乱れるじゃん。そういうのかなって。

でも、駅前のガラス戸のところで、ちょっと嫌な感じになった。

夜のガラスって、外より中のほうが明るいと、こっち側が映るでしょ。
そこに、傘差した私が映ってた。
髪ぺたぺたで、制服の裾ちょっと濡れてて、まあ普通。

ただ、足元の水たまりの跡が、ふたつ並んでた。

ひとつは、私のローファーの跡。
もうひとつは、その少し右。傘の内側ぎりぎりの場所に、同じテンポで続いてる細いしずくの列。

「え」
「でしょ。え、なの」

でもさ、その程度だとまだ、自分で説明しようと思えばできるんだよね。
傘から落ちた水だとか、持ってた鞄から垂れたんだとか。
人って、ほんとに嫌なことほど先にごまかす。

だから私はそのまま帰った。
玄関で傘を閉じたとき、一回だけ内側から冷たい水が手首に流れてきて、ぞわっとしたけど、それも“うわ最悪”で済ませた。

次の日、ちゃんと返しに行った。

保健室の前の傘立てに、昨日と同じ場所で立てた。
それで終わりのはずだった。

なのに、放課後また見たら、いちばん手前にその傘があった。

持ち手の銀の星。めくれた端。
間違えようがない。

「いや、別の同じ傘じゃなくて?」
「私もそう思って、持ち手見たの。そしたらテープ貼ってあった」

「なんて?」
「“ひとりまで”」

白いマスキングテープに、細い字でそう書いてあった。

昨日はなかった。
少なくとも、私は見てない。

誰かのいたずらかなって思ったけど、あんまり面白い方向のいたずらじゃないじゃん。
だからむしろ、じわっと嫌だった。

第3章

それから、その傘を見かける回数が増えた。

天気の悪い日だけじゃない。
朝、教室の後ろのロッカーの横に立てかけてあったり、階段の踊り場に置かれてたり、保健室の前を通るときだけいちばん目につくところにあったり。

もちろん、学校って透明な傘だらけだし、気にしすぎって言われたらそうなんだけど、持ち手の星のシールがあるからわかる。
あれだった。

しかも、近くを通るときだけ、床が少し濡れてる。
そこだけ今持ってきたみたいに。

「誰かずっと使ってるんじゃない?」
「それならそうでいいんだけど、たまに乾いてる日の朝から濡れてるの」

私は一回、保健室の先生にも聞いた。

「この傘、持ち主わかります?」

そしたら先生、ちょっと見てから首かしげてた。

「見覚えないね。共有用にしてもいいけど、長いこと残るなら処分かなあ」

軽い感じだった。
先生にとっては、ただの忘れ物だよね。わかる。
でも私は、その頃にはもう借りたくなかった。

なのに、そういう日に限って傘がいる。

委員会が長引いた日とか、駅まで走りたくない量で降ってる日とか、自分の折りたたみを家に忘れた日とか。
ちょうどいやなタイミングで、あれだけ残ってる。

「使ったの、また」
「一回だけ」

その一回が、いちばんやばかった。

その日は校内点検かなんかで、廊下の電気が何本か落ちてた。
人も少なくて、すれ違ったのは先生ひとりだけ。保健室ももう閉まってて、傘立てのところだけ窓の外の明かりでぼんやり白かった。

私はほんとに迷った。
でも外、見たら無理なやつだった。走ってどうにかなる感じじゃない。

で、傘立てを見たら、あれしかなかった。

しかもテープの字が増えてた。

“ひとりまで”
その下に、小さく。

“閉じるまで”

意味わかんないじゃん。
でもそれ見た瞬間、冗談っぽさが消えた。

第4章

差して歩き出してすぐ、また右肩が濡れた。

前と同じ。
それで、しずくの音も二回ずつ。

ぽた。
ぽた。

でもその日は、音だけじゃなかった。
ビニール越しに、右側の膜がたまに内側から押されるの。

風でへこむみたいな感じじゃない。
誰かが肩を入れて、少しだけつめるみたいな、あの押され方。

私はもう半分泣きそうで、でも走るとよけい怖いから早歩きだけしてた。
途中にある渡り廊下のガラス壁が近づいたとき、見ないほうがいいってわかってたのに、見ちゃった。

映ってたのは、傘の下の私。

それと、もうひとり。

同じ制服。
髪が濡れすぎて顔に張りついてて、目元が見えない。
でも背格好も、鞄の形も、ほとんど私だった。

その子は傘の右半分に立ってた。
ぎりぎり入ってるのに、肩だけずっと外に出てるみたいに濡れてて、唇だけが動いた。

『つめて』

声は聞こえなかった。
でも、そう読めた。

私は思わず左に寄った。
そしたらガラスの中のその子も、同じぶんだけ中へ入ってきた。
その瞬間、右肩の冷たさが首まで上がってきて、本気で息が止まりそうになった。

逃げるみたいに昇降口のガラス戸まで来て、そこでやっと、テープの文字の意味が急にわかった。

“ひとりまで”
“閉じるまで”

あれ、私への注意じゃなくて、内側の定員だったんだって。

傘を閉じたら、どっちかひとりしか残れない。

そう思った瞬間、ガラス戸に映ったもうひとりの私が、初めて顔を上げた。
顔はやっぱりよく見えないのに、口だけはっきり動く。

『閉じないで』

その動きと同時に、私の右手首に、冷たい指が触れた。

私はもう無理で、そのまま傘を差したまま校門の屋根のあるところまで走った。外に出ても閉じられない。コンビニに入るのも、駅に入るのも、自動ドアの前で一回閉じなきゃいけないのに、それができなかった。

結局、校門の脇にある古い傘立てまで戻った。

屋根の下で、息整えながら、私はあの傘をそこに立てた。
閉じないまま、開いたまま。
そして一歩下がった。

その瞬間、傘の内側から、ばしゃっと大量の水が落ちた。
ひとり分じゃない量だった。

誰も見えない。
でも、持ち手が少しだけ回って、誰かが受け取ったみたいに向きが変わった。

次の瞬間には、右肩の冷たさが消えてた。

私はそのまま、制服のまま少し濡れながら走って帰った。
もう傘なんかどうでもよかった。

第5章

「え、それで終わり?」
「一応ね」

机の向こうで、みんな微妙な顔した。
終わりって言われても、終わってない感じがするやつ。

「次の日、傘あった?」
「なかった。保健室の前にも、校門のとこにも」

私はそう言って肩をすくめた。

「だからたぶん、返せたんだと思う」
「何を」
「知らん。場所?」

自分で言ってて意味不明だなと思う。
でもほんとに、そのくらいしか言えない。

あの傘が誰のものだったのか。
ガラスに映ってたのが、なんで私みたいな形してたのか。
“閉じないで”って、助けてだったのか、入れ替わりたくないって意味だったのか。

何もわからない。

ただ、あれ以来、学校の共有傘は使ってない。
どれだけ降ってても、多少濡れるほうを選ぶ。
借り物って、返せば済むものばっかじゃないんだなって思ったから。

「じゃあ今日も傘ないの?」
「ない」
「外、やばくない?」
「だから早く小降りになってほしい」

そう言って鞄を持ち上げたとき、ひとりが変な声を出した。

「え、待って。それなに」

みんなの視線が、私の机の横に集まる。

椅子の背に、透明なビニール傘が掛かってた。
さっきまでなかったはずなのに、ちゃんとそこにある。

持ち手には、端のめくれた銀色の星のシール。

教室は一瞬しんとした。
私は近づけなくて、そのまま見てた。

白いテープが巻かれてる。
そこに今度は、前より少し濃い字で書いてあった。

“ひとりまで”

その下に、もう一行。

“今度はそっちで”

誰も何も言えなかった。

その傘の先から、床に小さい水たまりがふたつ、並んでできていたから。