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長編

雨の図書室

取り壊しを控えた高校の旧図書室で、誰の記憶にも曖昧なひとりの生徒の痕跡を追ううち、私は置き去りにしていた小さな約束に触れていく。

Genre
学園ミステリ
Series
school
#学校#図書室#記憶#雨#約束

第1章 返却箱の音

六月の終わり、雨の降る日は北棟の廊下だけが少し古い時代に戻る。

コンクリートは湿って暗くなり、窓枠の錆が浮き、足音が妙に遠くへ響く。二学期から耐震工事が始まるせいで、北棟の三階にある旧図書室は夏休み前で閉めることになっていた。今は蔵書の整理期間で、放課後も開室しているけれど、本を借りに来る生徒はほとんどいない。

私は図書委員だった。立派な理由はない。教室にいると、会話の速さについていけなくなるときがあるからだ。図書室の静けさは、誰かを避けるためというより、自分の呼吸を取り戻すためにちょうどよかった。

その日も、最後の返却本を棚に戻して、カウンターの鍵を閉めようとしていた。雨脚は強く、窓の外のグラウンドは白く煙っている。照明の下で、岡野先生が廃棄候補の本に付箋を貼っていた。

不意に、金属の箱を内側から叩いたような音がした。

返却箱だった。

「誰か来たのかな」

私が言うと、岡野先生は顔を上げたまま首を傾げた。

「もう閉室の札、出してるけどね」

私は廊下に出て、扉の横に付いた返却箱を開けた。中に一冊だけ本が入っている。紺色の装丁が水気を含んで、少しだけ波打っていた。タイトルは『雨期の星図』。古い天文エッセイだった。

挟まっていた貸出票を見て、私は手を止めた。

借りた人の欄に、丸みのある字でこう書かれていた。

篠宮 澄

学年・組の欄は空白だった。返却期限は去年の十一月。ページのあいだから、薄いメモが一枚落ちた。

窓際の席、まだ空いてる?

ただそれだけ。

紙は新しく見えたのに、インクは少し滲んでいた。雨で濡れたのかもしれない。けれど、返却箱の投入口には屋根がある。ここまで濡れるのは変だった。

「どうしたの」

岡野先生がそばに来る。

私は貸出票を見せた。先生は目を細めて、名前を声に出さずに読んだ。

「篠宮さん……」

その言い方が、知っているようでもあり、思い出せないようでもあった。

「うちの生徒ですか」

「たぶん。だったと思うんだけど」

先生は珍しく曖昧な返事をした。司書教諭で、蔵書番号から卒業生の好みまで覚えていそうな人なのに、その日は言葉がうまく棚から出てこないみたいだった。

「北棟の利用者に、こういう名前の子がいた気はするのよ。よく雨の日に来てたような」

雨の日に来ていた。

それを聞いた瞬間、私は喉の奥に小さなひっかかりを覚えた。知っている。知っている気がする。けれど、その気配は手を伸ばすと逃げてしまう。

本を抱えたまま窓の外を見ると、中庭を横切る女子生徒の後ろ姿が見えた。紺のカーディガンに、少し長いスカート。今どき珍しい形だと思った。傘は差していないのに、髪も肩も濡れていないように見えた。

「あの」

私は思わず廊下に出た。

階段の踊り場まで追いかけたが、そこには誰もいなかった。雨音だけが、古い建物の隙間に細く流れ込んでいた。

その夜、家に帰ってからも、メモの文字が頭から離れなかった。

窓際の席、まだ空いてる?

何に対する返事を待っているような文だった。

机に向かって英単語帳を開いたまま、私はノートの端にその一文を書いてみた。似ている。私の字と、少しだけ癖が似ている。丸く書くところ、伸ばさないところ。でも、同じではない。

翌日、昼休みに私はクラスメイトの柳井蓮に聞いてみた。蓮は同じ図書委員で、静かな人だった。必要なことしか言わないけれど、必要なことはちゃんと聞いてくれる。

「篠宮澄って名前、知ってる?」

蓮は牛乳のストローを折りながら、しばらく考えた。

「聞いたことあるような、ないような」

「どっち」

「その曖昧さ込みで、聞いたことある」

ふざけているようで、真面目な顔だった。

「どこで?」

「図書室かも。北棟の方」

やっぱり、と私は思った。けれど、そこから先が続かない。

ホームルームのあと、担任の藤田先生にもそれとなく尋ねた。先生は出席簿をめくりながら眉を寄せた。

「篠宮……今の二年にはいないわね。一年にも三年にもいなかったと思うけど」

そう言ってから、少しだけ首を傾げる。

「でも、その名前、どこかで見た気もするのよね」

先生まで同じことを言う。

放課後、北棟へ向かう渡り廊下で、私はふと足を止めた。窓ガラスに雨粒が流れている。指でなぞったみたいに、まっすぐ一本だけ、速く落ちる水筋があった。

その向こうに、一瞬だけ人の影が映った。

振り返っても、誰もいない。

ただ、胸の奥で、忘れていた約束がゆっくりと目を覚ます気配がした。

第2章 窓際の席

北棟の旧図書室には、いくつかの決まりがある。

本棚の並びは年度が変わっても変えない。窓際の一番奥の席には、壊れた椅子があった時期を除いて、なるべく物を積まない。雨漏りの癖がある天井の下には、いつも銀色のバケツを置く。

そして、雨の日の最終下校時刻を過ぎたら、返却箱の音に気づいてもすぐには外を見ない。

最後の決まりは公式なものではない。けれど岡野先生は、私が返却箱の話をすると、少し困った顔でこう言った。

「前から、たまにあるのよ。誰もいないはずの時間に、返却だけされてること」

「防犯カメラは?」

「北棟にはついてないの。もうすぐ閉める建物だから」

先生は軽く笑ったけれど、その笑い方には安心よりも諦めが混じっていた。

私は昼休みと放課後を使って、図書室の利用者カードの束を確かめた。今は電子化されているけれど、北棟の古い本にはまだ紙の貸出票が残っている。去年の秋から冬にかけて、篠宮澄の名前は何度か出てきた。借りている本はばらばらだった。天文、詩集、短編集、植物図鑑。けれど共通点がひとつだけあった。

どれも、雨に関係する文章がどこかに入っている本だった。

蓮が隣でカードの束をめくりながら言う。

「この人、本の選び方が偏ってる」

「偏ってるっていうか、意図がある感じ」

「真帆、好きそうだよね、こういうの」

「どうして私が」

「気圧に弱い顔してるから」

少しむっとしたが、否定はしなかった。私は低気圧の日、たしかに静かな場所へ逃げたくなる。

カードの中に、一枚だけ私の名前がある本を見つけた。『海に沈む校舎』。借りたこと自体は覚えている。でも、その本をいつ返したのか思い出せなかった。貸出票の裏に、細い字で鉛筆の書き込みがあった。

次はわたしが返す。

ぞっとするほど、見覚えのある言い回しだった。

「どうした」

蓮が覗き込み、私は慌てて紙を伏せた。

「なんでもない」

「なんでもない顔じゃない」

「大げさ」

言いながら、私は指先の冷たさをごまかすように、カードを元の位置へ戻した。

その日の放課後、同じクラスの美柚に聞いてみた。美柚は交友関係が広くて、学年のことならだいたい把握している。

「篠宮澄? うーん……」

彼女は眉間に皺を寄せたあと、不思議そうに笑った。

「もしかして、保健室の近くにいた子じゃない? 前に消しゴム貸した気がする」

「いつ?」

「春……いや、去年の冬かな」

そこまで言ってから、急に自信をなくしたように首を横に振る。

「違うかも。私、人の顔覚えるの苦手だから」

私は苦笑した。でも内心では、その曖昧さが増えていくのを感じていた。誰に聞いても、いるともいないとも言い切れない。教室の空気に薄く溶けてしまった名前みたいだった。

岡野先生にもう一度尋ねると、先生は本棚の補修テープを切りながら言った。

「思い出しにくいのよね。たしかに来ていた気がするのに、いつ、どこで、どんな顔だったかが抜けていくの」

「そんなことありますか」

「あるのよ、学校って」

先生は少しだけ手を止めた。

「毎年、新しい名前が増えて、いなくなる子もいて、行事や成績や進路で上書きされていくでしょう。よほど近くにいないと、記憶って平らになっていくの。特に、最初から大勢の輪の外にいた子は」

その言葉は、説明というより、先生自身への言い聞かせに聞こえた。

私は窓際の一番奥の席を見た。そこは今も空いている。木の机の端が、長い時間に擦れて白くなっていた。誰かが爪で小さくひっかいたような跡がある。

私の胸の中に、確かに知っている場所がひとつあった。ここだ。ここで誰かと話した。雨を聞きながら、本をめくった。けれど肝心の相手の輪郭だけが、濡れた紙みたいに滲んでしまう。

その夜、家の机の引き出しを探していたら、しおりが一枚出てきた。青と白の細い縞模様で、ラミネートもしていない簡単なものだ。裏に小さく書かれている。

北棟・窓側席

私の字だった。

どうしてそんな札を作ったのか、思い出せないまま、しおりの角だけが指先に引っかかった。

第3章 いない名簿

思い出せないことが続くと、人は調べものを始める。

週末の土曜登校のあと、私は蓮と一緒に北棟の準備室へ入った。岡野先生から、古い図書委員の引き継ぎノートを見る許可をもらったのだ。段ボール箱の底に、年度ごとに色の違うノートが積まれていた。

去年のノートを開くと、最初の方は蔵書整理や文化祭展示の話ばかりだった。けれど十月のページで、蓮が指を止めた。

「これ」

そこには、図書委員の連絡事項として、こんなメモが残っていた。

・北棟学習室を利用する篠宮さんは返却期限を厳密にしなくてよい
・窓際の席は本人が使うことがあるので、荷物置き場にしない
・真帆が作った席札はそのまま使用

私はノートを持つ手に力が入った。

「私、作ってる」

「作ってるね」

「覚えてない」

蓮は驚かなかった。ただノートの横に置いていた鉛筆を転がしながら言った。

「記録の方を信じた方がいいときもある」

次のページには、別の字で短い書き込みがあった。図書委員の誰かのメモだろう。

雨の日は北棟が落ち着くらしい
本を返しに来ると言っていた

また次のページには、私の字にそっくりな走り書きがある。

『海に沈む校舎』貸した。次は『雨期の星図』すすめる。返してもらう約束。

返してもらう約束。

その言葉に触れた瞬間、記憶がほんの少しだけ戻った。

窓を叩く雨。湿った制服の匂い。机に置かれた紙コップのぬるいココア。向かいに座る、顔色の白い女の子。前髪が目にかかるたび、指で払う癖。静かな声。

――この席、好きなんだね。

――うん。外を見たいわけじゃなくて、雨の音が近いから。

私は息を呑んだ。

篠宮澄。

やっと、その名前がひとりの気配として立ち上がる。けれどまだ、顔の中心だけがぼやけている。

「思い出した?」

蓮が低く聞く。

「少しだけ」

「どんな子だった」

「たぶん、同い年くらい。あまり教室には来ない子で……でも、北棟にはいた」

「学習室って書いてある」

準備室の奥には、今は使われていない小部屋がある。以前は病気や怪我で通常の授業に出にくい生徒が、一時的に教材を使っていたことがあるらしい。私はその部屋の存在を知っていたのに、自分がそこへ出入りしていたことは忘れていた。

ノートをさらに遡ると、十一月の終わりに挟まれた付箋が出てきた。

篠宮さん、しばらく来校停止
借りている本は急がなくてよい

誰が書いたのか分からない。ただ、その付箋に触れた途端、胸の中に鈍い後悔がひろがった。

私はその頃、家のことばかり考えていた。父の転勤の話が出て、結局引っ越しはなかったけれど、母と父の会話はずっと低い声になっていた。家に帰ると食卓の空気が張っていて、私はなるべく遅くまで学校に残るか、逆に何もかも投げるようにまっすぐ帰るか、どちらかだった。

北棟の図書室に行かなくなったのも、その頃だ。

「私、待たせたんだ」

思わず声が出た。

「誰を」

「篠宮さんを。たぶん、本を返してもらう約束をしてた。席も、空けておくって」

蓮は否定も慰めもせず、静かに次のノートを開いた。そこに、一枚の紙片が挟まっていた。病院の検査票の裏を切ったような小さなメモだった。

真帆へ
先に借りていていいよ
戻れたら、雨の日に返す

署名はない。けれど、この字は、返却箱のメモと同じだった。

私の中で何かが決定的につながった。

篠宮澄は、いた。

少なくとも私は、その子と話し、本を貸し、席を空けておく約束をした。なのに、そのことごと春まで忘れていた。忘れたというより、忘れても大丈夫なものとして学校の時間に埋めてしまっていたのだ。

準備室を出ると、北棟の廊下に雨の匂いが満ちていた。窓の外で紫陽花が暗く光っている。

私は思い切って、職員室の古い生徒名簿も見せてもらった。現行のデータベースには篠宮澄の名前はなかった。だが、紙の綴じ込み資料の中に、昨年の「校内学習支援利用者一覧」という一枚があり、その端に小さく手書きでこうあった。

篠宮 澄
所属:市立医療センター分教室
北高単位連携

それは正規のクラス名簿とは別の場所に綴じられていた。だから、担任も、教務も、とっさに思い出せなかったのだろう。学校にいたのに、学校の本流にはいなかった名前。

「こんなの、普通の名簿に載らないんだ」

私が呟くと、職員室の隅で資料を返していた藤田先生が聞こえたらしく、申し訳なさそうに言った。

「制度上はね。でも、ちゃんと在籍していたことに変わりはないのよ」

先生の声は少し掠れていた。

「ただ、分教室の運用が春で変わって、医療センター側に一本化されたの。記録の移し替えも慌ただしくて……」

そこで言葉を切る。

「忘れてたんですか」

自分でも意地の悪い聞き方だと思った。先生は怒らなかった。

「忘れたくて忘れるわけじゃないの。気を抜くと、学校は誰かを端からこぼしてしまうのよ」

その言葉が、雨より静かに胸に落ちた。

第4章 約束のしおり

その日から、私は毎日北棟へ通った。

閉室まで残り二週間。廃棄本の選別、移管する蔵書の箱詰め、利用記録の整理。やることは山ほどあったが、私が本当に探していたのは作業ではなく、失った時間の継ぎ目だった。

篠宮澄の痕跡は、思ったよりあちこちに残っていた。

たとえば詩集の見返しに挟まった細い付箋。「この行、雨の匂いがする」。たとえば古い雑誌の目次に引かれた薄い線。たとえば窓際の机の裏に貼られた小さなテープ。そこには消えかけた字で、「すみ」と書いてあった。

そして、私の方にも痕跡があった。

ロッカーの底から、紺色の折り畳み傘が出てきた。持ち手に白いマスキングテープが巻いてあり、油性ペンで名字だけ書かれている。

篠宮

私はその傘を見た瞬間、去年の秋の会話をはっきり思い出した。

雨の日の昇降口。私は傘を一本多く持っていた。母がコンビニでもらってきた安物で、自分では使わないと思っていたものだ。澄は帰る時間になるといつも少し困った顔をした。病院の送迎が遅れるときがあり、北棟の軒下で待つあいだに風が吹き込むからだった。

――使う?

――でも、借りたままになるかもしれない。

――返すのはいつでもいいよ。

――ほんとに?

――うん。じゃあ、その代わり、本返して。

澄は笑って、傘を抱えるように持った。

――じゃあ、雨の日に返す。

その約束だった。

傘と本。席と待ち時間。どれも小さいのに、いまの私には重かった。

蓮は何も急かさず、放課後になると自然に北棟へ来た。本の箱詰めを手伝いながら、たまに現実的なことを言う。

「もし篠宮さんが今も来られるなら、閉まる前にここへ来るはずだよね」

「来ると思う?」

「来たいと思ってるなら」

「それ、同じ?」

「学校ではわりと違う」

彼の言い方は飾りがなくて助かった。期待だけで動くと、足元を見失う。

岡野先生は、私たちが篠宮澄のことを調べていると知っても止めなかった。ただ、ある日、移管リストを作りながらぽつりと言った。

「彼女、本が好きというより、返却日が好きな子だったのかもしれない」

「返却日?」

「返さなくていいものより、返す約束があるものの方が安心するって言ってた気がするの。次があるからって」

私はその言葉を、そのまま胸にしまった。

返却日は、終わりではなく次の約束だ。

六月最後の金曜日、激しい夕立が校舎を叩いた。私は閉室後の図書室で作業していたが、またあの音がした。返却箱が、小さく鳴る音。

今度はすぐには飛び出さなかった。岡野先生の決まりを守ったわけではない。たぶん、怖かったのだ。自分が何を忘れていたのか、どこまで忘れてしまえる人間なのかを、はっきり見せられるのが。

数秒遅れて外に出ると、箱の中には一冊の文庫が入っていた。『坂道の天気』。貸出票の名前はやはり篠宮澄。栞代わりに、細い紙が挟まっている。

急がなくていいよ
でも、なくさないで

私はその場でしゃがみ込んだ。なくしたのは本ではない。約束の方だった。

その夜、私は家でしおりを作り直した。去年と同じ青と白の縞で、少しだけ丈夫な紙を使った。裏には、前より丁寧な字で書く。

北棟・窓側席
雨の日用

自分でも意味のわからない追記だったが、そう書かずにはいられなかった。

翌日、窓際の席にそのしおりを置いた。誰も座っていない机の上に、小さな札だけがある。馬鹿みたいだと思った。でも、北棟の静けさはそういう小さな行為を笑わなかった。

蓮がしばらくそれを見て、言った。

「残り三日だね」

「うん」

「最終日、俺も残ろうか」

私は首を振った。

「たぶん、一人の方がいい」

「了解」

彼はそれ以上聞かなかった。ただ帰り際に、カウンターへ一本のボールペンを置いていった。

「濡れても書けるやつ。返事が必要なら使って」

私は笑って、それを受け取った。

第5章 雨の最終日

北棟の図書室の最終日は、朝からずっと雨だった。

校内放送で「旧図書室は本日で閉室します」と告げられたとき、教室の何人かが「まだ使ってたんだ」と笑った。悪意ではない。使っていない場所は、すぐになかったことにされる。

放課後、最後の引き継ぎを終えると、岡野先生は私に鍵を預けた。

「三十分だけよ」

「ありがとうございます」

先生は少し迷ってから、私の肩を軽く叩いた。

「会えなくても、無駄じゃないから」

その言葉は、たぶん先生自身にも向けられていた。

図書室には私ひとりになった。照明は半分落としてある。棚のいくつかはもう空で、窓の外の灰色がよく見えた。雨粒がガラスに斜めの線を描いている。

私は窓際の席に、『海に沈む校舎』と紺色の折り畳み傘、青白のしおりを置いた。机の上には、蓮にもらったペンでメモを一枚。

返さなくてごめん
待たせてごめん
まだ遅くなければ、ここにいます

書いてから、言い訳みたいだと思った。けれどこれ以上うまい文章は出てこなかった。

時計の針が五分進むたびに、廊下の静けさが深くなる。体育館から響いていた運動部の声もやみ、北棟は雨の音だけの建物になった。私は窓際の席の向かいに座って、本を開くふりをした。ページはほとんど頭に入らない。

やがて、返却箱の音がした。

こん、と控えめな音だった。

私は立ち上がらなかった。扉の外で、濡れていない足音が二つ、三つ、こちらへ近づく。古い扉の前で一度止まり、ノックもなく開いた。

入ってきたのは、記憶の中より少し背の高い女の子だった。

紺のカーディガン。淡い顔色。前髪を指で払う癖。その仕草だけで、胸の奥の曇りが一気に晴れる。

「久しぶり」

篠宮澄は、そう言って笑った。

私は椅子の背に手をかけたまま動けなかった。怖さはなかった。ただ、遅すぎたことが苦しかった。

「ごめん」

最初に出たのはそれだった。

澄は肩をすくめる。

「真帆、すぐ謝る」

「だって私、忘れてた」

「うん」

否定しない声が、かえって優しかった。

「でも、完全には忘れてなかったから、ここにいるんでしょ」

彼女は窓際の席へ歩いていき、置かれた傘に触れた。持ち手のテープの文字を見て、少しだけ目を細める。

「ちゃんと取ってあったんだ」

「ロッカーの底に入れたままにしてただけ」

「それでも、なくならなかった」

澄は向かいに座らず、窓の方を向いたまま立っていた。雨の気配が彼女の輪郭だけを少し薄くする。けれど幽霊のようには見えなかった。むしろ、学校の方が彼女をうまく覚えていられなかったのだと思えた。

「体、どうしてたの」

私が聞くと、澄は少し考えてから答えた。

「良くなったり、戻ったり。学校に来られる日もあったけど、そのたびに置いていかれた感じがした。授業も行事も、人間関係も、ぜんぶ進むのが速いから」

彼女の言い方は淡々としていた。恨みがないわけではないのだろう。ただ、それをもう何度も飲み込んできた声だった。

「春に分教室の運用が変わって、こっちの記録も向こうに移ったの。だから余計に、北高にいたことが薄くなった」

「先生たちも思い出せてなかった」

「先生たちだけじゃないよ」

私は目を伏せた。

「私も」

「うん」

また、短く肯定される。

「でもね、真帆だけは最後まで忘れないと思ってた」

その言葉は責めるようでいて、不思議と責めていなかった。信じていたことを、静かに訂正しているだけだった。

私は机の上の本を押さえた。

「約束したよね。席、空けておくって。雨の日に返すって」

「した」

「私、待てなかった」

澄はそこで初めて私の方を見た。

「真帆は待てなかったんじゃなくて、毎日をこなすのでいっぱいだったんだと思う」

「それでも」

「それでも、今日ここに来た」

彼女は机の上のしおりを手に取った。青と白の縞を眺めて、小さく笑う。

「前よりきれい」

「作り直したから」

「前のも好きだったよ。曲がってて」

その瞬間、去年の秋の一場面が鮮明に戻った。私が定規も使わずに切ったせいで、しおりの端は少し波打っていた。澄はそれを本に挟みながら、「雨みたい」と言ったのだ。

私は喉が熱くなった。

「本、返しに来たの?」

「うん。それと、傘も」

「それ、もういいよ」

「でも返す約束だったから」

返却日は次の約束だ。

岡野先生の言葉が浮かぶ。私はようやく少しだけ分かった気がした。返すことは終わらせるためじゃない。そこで切れないようにするためだ。

澄は『海に沈む校舎』を開き、途中に挟まれていた古い貸出票を抜き取った。そこには私の名前と、去年の貸出日が書かれている。澄はポケットから新しい紙片を出して、その間に差し込んだ。

「それ、なに」

「返事」

「見てもいい?」

「あとで」

答え方まで前と同じだった。

遠くで雷が鳴った。照明が一度だけ明滅する。私は思わず目を閉じた。次に開いたとき、澄は窓際の席の横に立っていた。来たときより輪郭が薄いというより、図書室の方へ馴染んで見えた。

「ここ、なくなるんだね」

「うん」

「でも、新しい図書室にも窓はある?」

「あると思う。北棟ほど古くないけど」

「じゃあ、だいじょうぶかも」

「何が」

澄は答えず、傘を机に置いた。

「真帆」

「なに」

「忘れないで、じゃなくて、思い出せるようにしておいて」

私はその言葉をうまく理解できなかった。ただ、うなずくしかなかった。

「どういう意味」

「決まりみたいにしておくの。席を空けるとか、しおりを挟むとか、返却日を守るとか。人って、その方が覚えていられるから」

雨が少し弱くなった。窓ガラスを打つ音の密度が変わる。

「また会える?」

聞いてから、子どもみたいな質問だと思った。

澄は笑った。困ったときの笑い方ではなく、私が知っている、雨の日だけ少し柔らかくなる笑い方だった。

「雨の日なら、たぶん」

そこで廊下の方から岡野先生の呼ぶ声がした。もう時間だった。私は振り返って返事をし、すぐに窓際へ向き直る。

けれどそこには、傘と本と、しおりしか残っていなかった。

扉が開き、岡野先生が顔を出す。

「もう閉めるわよ」

先生は私の表情を見て、何か言いかけてやめた。机の上の傘に目をとめる。

「返ってきたのね」

私はゆっくりとうなずいた。

先生はそれ以上聞かなかった。

施錠の前、私は本を開いて、澄が挟んだ紙片を見た。

角の整った字で、こう書いてある。

窓際の席、ありがとう
次は真帆が、誰かの分も空けておいて

第6章 新しい図書室

北棟は夏休みのあいだに囲いができて、秋には半分なくなっていた。

渡り廊下の先にあったはずの重たい静けさは消え、工事車両の音だけが残る。新しい図書室は本館の二階に移った。明るくて、床も机も新しく、検索端末も増えた。便利になったとみんなが言った。たしかにその通りだった。

けれど雨の日の音だけは、少し遠くなった。

私は三年生になり、図書委員も続けていた。蓮は相変わらず無口で、でも返却本の山を見ると黙って仕分けを手伝う。岡野先生は定年の話を笑って流しながら、新しい図書室の癖を少しずつ覚えていった。

窓際の一番奥の席には、誰も何も言わないのに、あまり荷物が置かれなくなった。

最初に誰がそうし始めたのか、はっきり知っているのはたぶん私だけだ。けれど数か月も経つと、その決まりは最初からあったように馴染んでいく。学校とはそういう場所だ。忘れるのも早いが、形にしたことは案外残る。

私はその席の引き出しに、青と白のしおりを一枚入れている。去年のものではなく、新しく作ったものだ。裏には何も書いていない。

時々、北棟から移ってきた本のあいだに、古い貸出票が混じっていることがある。篠宮澄の名前は、その後一度も正式な資料には現れなかった。医療センター側の記録に移ったのかもしれないし、もう別の学校にいるのかもしれない。確かめようと思えば方法はあったかもしれないが、私はしなかった。

雨の日なら、たぶん。

その言い方を、壊したくなかった。

十月のある放課後、窓の外が急に暗くなった。季節の変わり目の冷たい雨だった。生徒はみんな足早に帰り、図書室には私と蓮だけが残っていた。

「返却箱、ないと静かだね」

私が言うと、蓮は端末から目を離さずに答えた。

「本館のやつ、昇降口だから遠いし」

「うん」

「でも、今日みたいな日は聞こえそう」

「何が」

そこで初めて彼が顔を上げた。

「金属の音」

私は笑いそうになって、笑えなかった。蓮は覚えているのだ。全部ではないにせよ、少しは。

「篠宮さんのこと、どれくらい覚えてる?」

聞くと、彼は考え込んだ。

「名前と、真帆がずっと気にしてたこと。あと、雨の日に関係あるってこと」

「顔は」

「最初から知らない」

「そっか」

「でも、知らなくても席は空けられる」

それだけ言って、彼はまた端末に向き直った。

閉室作業を終え、私は窓際の一番奥の席へ行った。机の上には何もない。ガラス越しの雨が細く流れている。そのとき、棚の陰に一冊だけ置き忘れられた本があるのに気づいた。

『雨期の星図』だった。

北棟の閉室日に、確かに書庫箱へ入れたはずの本だ。誰かが持ち出して、戻し忘れたのかもしれない。そう考えるのが自然だった。けれど、本を開く手は少し震えた。

貸出票の欄には、古い名前の下に、新しい日付が一行だけ増えていた。

返却日 十月三日

借り手の欄は空白だった。

そのページに、青と白の細いしおりが挟まっていた。私のものとは紙質が違う。裏に、ごく小さな字がある。

まだ空いてるね

私は本を閉じ、しばらく窓の外の雨を見ていた。

怖くはなかった。むしろ、少しだけ背筋が伸びる気持ちだった。忘れないことは難しい。だから人は、席をひとつ空けたり、しおりを挟んだり、返却日を書いたりするのだろう。そうやってようやく、誰かがいたことを、次の季節へ渡していく。

閉室のベルが鳴る直前、図書室のどこかで、小さな金属音がした。

返却箱なんて、この部屋にはもうないのに。

私は窓際の席へ『雨期の星図』を置いた。しおりは抜かず、そのままにする。

明日になれば、ただの置き忘れだと説明できるかもしれない。別の誰かの悪戯かもしれない。そういう理屈はいくつも作れる。

それでも私は、席を片づけなかった。

雨の日だけは、そこを空けておこうと思った。誰のため、と問われたらうまく答えられない。ただ、そうしておけば、思い出せる気がした。

窓の外で、秋の雨が静かに降り続いていた。