長編
雨の予約棚
新しい図書室で雨の日ごとに現れる「予約のない本」を追ううち、私は学校からこぼれやすい生徒たちのために一度途切れた小さな仕組みと、忘れかけていた約束の続きを見つけていく。
第1章 予約のない本
十一月の半ば、雨は朝から細く降り続いていた。
本館二階の図書室は、旧北棟の図書室より明るい。机は新しく、床はきれいで、検索端末の起動も速い。便利になったと誰もが言うし、それはたしかに間違っていない。けれど雨の日だけは、どこか薄い。北棟のころは窓の近くで雨音が本のページにしみ込むみたいだったのに、ここではガラスが厚すぎて、音がひとつ膜を隔てて聞こえる。
私はカウンターで返却処理をしていた。昼休みの終わり際、濡れたスニーカーの跡を残しながら、一年生の女子がやって来た。胸元の名札に「高瀬」とある。少し困ったような顔で、でも怒っているほどではない声だった。
「あの、これ、私の予約ですか」
差し出されたのは文庫本だった。透明カバーの内側に、青と白の細いしおりが挟まっている。裏に鉛筆で小さく書かれていた。
返却は急がなくていいです
窓から遠い席でも読めます
私は思わず、その文字を二度見した。
「予約は入ってないはずだけど」
端末を確認しても、該当する本に予約履歴はない。貸出準備中の処理もされていない。
「でも、さっき棚に戻しに行ったら、これだけ机の上に置いてあって」
高瀬さんは窓際の席を振り返った。新しい図書室にも一番奥に大きな窓の席がある。旧北棟ほど特別ではないが、放課後はだいたい誰かが座る人気の場所だった。その席の端に、たしかに本を一冊だけ載せておくには不自然なくらい、きれいな空きがある。
「私、昨日この本のことを友達と話したんです。読むなら次それにしようかなって。でも予約とか、先生に言ったりはしてなくて」
本のタイトルは『曇天航路』。雨の場面が多い短編集だった。紙の角に、見覚えのある古い分類ラベルが貼ってある。北棟から移管された本だ。
「誰かのいたずらかな」
私がそう言うと、高瀬さんは少し考えてから首を振った。
「いたずらっていうより、親切です。なんか、読むなら今日みたいな日だと思って、置いてくれたみたいで」
その言い方が妙に引っかかった。私は本を開き、貸出票の名残を確かめる。今は電子化されているから使わないはずの紙ポケットが、古い本にはまだ残っている。そこに、半分に折られた小さな紙片が差し込まれていた。
無理に来なくていい日に、来る理由になる本。
インクではなく鉛筆で、細い字だった。字の輪郭だけが妙に静かで、書いた人の息遣いまで薄く残っている気がした。
「これも、もとから?」
「はい」
私は「少し預かってもいい?」と聞いた。高瀬さんは素直にうなずいた。
「あとで借りられるなら」
「うん。確認したら持っていく」
彼女が去ったあとも、しおりの青と白が目に残った。
青と白の縞。私が前に何度も切って作っていた、簡単なしおりの色だ。
その日の放課後、同じ図書委員の柳井蓮に事情を話すと、彼は返却済みの本を背表紙順に並べ替えながら言った。
「雨の日だけ?」
「高瀬さんが言うには、これで二回目。前は別の本で、同じしおりが入ってたらしい」
「本の趣味は」
「どっちも北棟から来た本。どっちも、ちょっと湿った感じの話」
蓮は手を止めずに聞いていたが、「しおり」という言葉のところで少しだけ顔を上げた。
「青と白って、前もあったよね」
「うん」
私たちの間に、言葉にしなくても同じ名前がよぎった。
篠宮澄。
旧北棟の図書室が閉まる直前、私はその名前をようやく思い出した。学校にはいたのに、本流の名簿からこぼれやすかったひとりの生徒。雨の日に図書室へ来て、本を返す約束に安心していた子。あれから私は、雨の日だけ窓際の席を何となく整える癖がついた。それはもう自分の中の決まりみたいなもので、誰にも説明していない。
けれど、今日の本は私が置いたものではない。
「岡野先生は?」
蓮が言う。
「まだ聞いてない。今日は選書会議で遅いって」
「じゃあ、その本、先に見よう」
私たちはカウンターの端で『曇天航路』を開いた。巻末近くのページに、鉛筆で細い線が引かれている箇所がある。
約束は守るためだけにあるんじゃない。そこへ戻ってくる目印にもなる。
私は線の上を指でなぞり、すぐに指を離した。引用として特別な文ではない。けれど、誰かがここを選んだことが、妙に胸に近かった。
「真帆の字じゃない」
蓮が言う。
「わかるの」
「少なくとも今の真帆の字じゃない」
「昔の私なら?」
「そこまでは知らない」
彼は淡々としていた。でも、それが助かる。変に怖がられるより、ずっといい。
そのとき、図書室の入口が開き、岡野先生が戻ってきた。濡れた傘をたたみながら、「やっぱり今日は利用者少なかったわね」と言って、私たちの手元の本に気づく。
「どうしたの、それ」
私は高瀬さんの話を最初から説明した。岡野先生は相槌を打ちながら聞いていたが、青と白のしおりを見たところで、ごく小さく息を止めた。
「それ、どこに」
「窓際の席に置いてあったって」
先生は少し黙った。
「……予約棚じゃないのね」
「予約棚?」
私が聞き返すと、先生は自分でも不用意に口にしたという顔になった。
「いえ、昔ちょっとね」
それ以上は続けなかった。その曖昧さに、かえって輪郭ができる。
雨は夕方になってもやまなかった。閉室後、窓際の席を片づけに行くと、机の隅に消しゴムかすほどの小さな紙片が落ちていた。拾って広げると、数字だけが書いてある。
11/21
明後日の日付だった。
第2章 余白の台帳
次の雨は、二日後に来た。
天気予報は当たって、朝から校庭が白くかすむような降り方になった。昼休み、高瀬さんはまた図書室に来た。今日は最初から窓際へ向かい、そこで何かを見つけたように振り返った。
「ありました」
小声なのに、うれしさが隠しきれていない声だった。
私と蓮も席へ行く。机の上には、新書が一冊。タイトルは『渡り廊下の気象学』。これも北棟から移ってきた本だ。青と白のしおり、鉛筆の走り書き。今日は一行だけだった。
今日は短い話から読んでください
高瀬さんは、いたずらの被害者というより贈り物を受け取った人みたいな顔をしていた。
「誰なんでしょうね」
「本当に予約はしてないんだよね」
「してません。昨日、友達にこの本おもしろそうって言っただけです」
「誰に?」
「同じクラスの宮下です。図書室じゃなくて、教室で」
図書室の中だけで起きていることではないのかもしれない。私は本を受け取り、貸出処理のついでに宮下さんのことも聞いてみた。高瀬さんは首を傾げる。
「でも宮下は、こういうのしないと思います。もっと雑です」
妙に説得力のある言い方だった。
放課後、岡野先生をつかまえて「予約棚って何ですか」と聞くと、先生は新刊台のカードを入れ替えながら、「その話、したかしら」と独り言みたいに呟いた。
「昔というほど昔でもないのよ。北棟のころ、正式な制度じゃないけど、窓際の近くに一段だけ、取り置きみたいな棚を作ってたことがあって」
「誰のためのですか」
「毎日は来られない子たちのため」
先生は手を動かしたまま答える。
「通院とか、体調とか、家庭の事情とか。予約システムって便利だけど、学校に来られない日は連絡そのものが切れやすいでしょう。だから『今度来られた日に取れるように、見つけやすい場所に置いておく』っていうだけの、すごく小さな仕組み」
私は黙って聞いた。蓮が横で「今はやってないんですか」と尋ねる。
「北棟が閉まるときに終わったの。場所もなくなったし、正式な運用でもなかったから」
「誰が始めたんですか」
その質問に、先生は少し笑った。
「誰だったかしらね。私だった気もするし、図書委員の子が先に言い出した気もする」
忘れているのか、言葉を選んでいるのか、判断がつかない。
「その棚に、青と白のしおり使ってました?」
先生はそこで初めて手を止めた。
「……使ってたかもしれないわね」
「誰が作ったか、覚えてますか」
「真帆」
先生はあまりにも自然にそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「あなた、前にも作ってたでしょう。北棟・窓側席って」
私は返事ができなかった。
作った。たしかに私は昔から、形にしないと忘れそうなものに札をつけたがる。席札、しおり、返却日のメモ。そうやってようやく、自分の中で場所を決める。
「でも、今この本を置いているのは私じゃないです」
そう言うと、岡野先生は小さくうなずいた。
「そうね。あなたなら、もう少し字が急いでる」
蓮がわずかに笑った。
そのあと、先生は準備室の鍵を持ってきた。
「台帳が残ってるかもしれない。移管のとき、捨てるに捨てられなくて箱に入れたのがあったから」
準備室は新しい図書室の奥にあるが、中には北棟から運び込んだ古い段ボールがまだ残っている。私たちは「保管庫」「旧カード」「広報」などと書かれた箱を順に開けた。古い図書だより、貸出票の束、文化祭の展示写真。紙の匂いが乾いているのに、どれも少し湿気を含んだ記憶みたいだった。
三箱目の底で、蓮が薄いノートを見つけた。大学ノートに「仮置き」とだけ書いてある。中を開くと、日付と本のタイトル、簡単な名字、置き場所が並んでいた。
10/3 『夜の標本箱』 篠宮 窓際
10/17 『小さな気圧計』 分教室 窓側下段
11/2 『雨期の星図』 篠宮 席に置く
11/21 『曇天航路』 高瀬 見える場所
最後の一行に、私は目を奪われた。
今日の日付だ。
「これ、最近書かれてる」
私が言うと、蓮はノートの紙端を触った。
「筆圧が新しい」
「先生、これ」
岡野先生も覗き込み、眉を寄せた。
「おかしいわね。このノート、箱に入れっぱなしだったはずなのに」
ページをめくる。後ろの方には、もっと古い記録が続いていた。名字だけ、あるいは「保健室」「北棟学習室」「二年女子」みたいな曖昧な書き方が多い。その余白に、青鉛筆で小さく補足がある。
返却日は柔らかく
無理な日は次の雨
私はその字を見た瞬間、喉の奥がつまった。誰の字か、言い切れるほど鮮明ではない。けれど知っている。窓の外を見ながら、返却日という言葉に必要以上に安心していた人の字だと思った。
「篠宮さん」
口に出すと、準備室の空気が少しだけ動いた気がした。
蓮は否定しない。ただ、ノートの最後のページを開いて言った。
「こっち、別の字」
そこには私の文字に似た、でも今の私より少し丸い字で書かれていた。
見つけやすい場所に置く
来た日に借りられるようにする
来られない日を責めない
私は思い出した。北棟の窓際で、誰かと一緒にこんなことを決めた。制度でも奉仕でもなく、ただその方がいいと思って作った、小さな約束。誰かが来られる日だけでも本の続きを待たせないための棚。正式ではないから目立たず、目立たないから真っ先に消えてしまった棚。
「私、忘れてた」
言葉が漏れる。
岡野先生が静かに言う。
「学校は、正式じゃないものから先に失くすのよ」
それは責める声ではなかった。ただ事実に近い響きだった。
私はノートの最後の一行を見る。
11/21 『曇天航路』 高瀬 見える場所
高瀬さんの名前は、誰が書いたのだろう。
第3章 見つけやすい場所
高瀬さんにもう少し話を聞くことにしたのは、その日の掃除後だった。
教室前の廊下で待っていると、彼女は雑巾を絞った手をハンカチで拭きながら出てきた。雨はまだ降っていて、廊下の窓が曇っている。
「この前の本のこと、少しだけいい?」
「はい」
彼女は素直だった。私は図書室の外では声を低くしたくなる。壁や床に話が吸い込まれて、必要な分だけ残る気がするからだ。
「本のこと、誰かに相談した?」
「相談っていうか、宮下に見せました。あと、お母さんにも」
「お母さんは何て」
「いい学校ねって」
思わず少し笑ってしまう。高瀬さんもつられた。
「でも、お母さん、病院に長くいたことがあって、そういうときに本が手に届く場所にあるの大事だって。学校って、来られない人の分はすぐ後回しになるからって」
私は足を止めた。その言葉の方が、雨音より先に胸へ入ってくる。
「高瀬さん自身、毎日来るのしんどいときある?」
彼女は少しだけ肩をすくめた。
「あります。別に不登校とかじゃないですけど、朝、どうしても間に合わない日とか、保健室からじゃないと教室入れない日とか。今は大丈夫な方ですけど」
大丈夫な方。そういう言い方をする子は、だいたい自分の大丈夫をあまり信用していない。
「だから、あの本、うれしかったです。予約してなくても、今日は読めるって先に決まってる感じがして」
返却日は柔らかく。無理な日は次の雨。
ノートの青鉛筆が頭に浮かぶ。
私はそのまま職員室へ向かい、岡野先生と蓮に高瀬さんの話を伝えた。蓮は「じゃあ、今必要なんだ」と短く言った。岡野先生は、しばらく黙って窓の外を見ていたが、やがて決めたように振り返る。
「正式に作りましょうか」
「何を」
「予約棚。名前は変えるとしても」
私は驚いて先生を見る。
「いいんですか」
「いいも悪いも、困ってる子がいて、やる理由があるなら十分でしょう。むしろ今まで曖昧にしてた方がよくなかったのかも」
先生の言葉は軽く聞こえるのに、その奥に悔しさみたいなものが混じっていた。きっと先生にも、こぼした名前がある。
「ただし、今度は個人の善意だけで動かさない。ルールを決める。誰でも使えるようにする」
蓮が頷く。
「見えない親切って、見えないまま消えるから」
私はその言い方に少しだけ胸が熱くなった。
その日のうちに、私たちは簡単な運用案を作った。利用者が読みたい本を図書室に伝えたら、来られた日に見つけやすい棚へ取り置く。貸出期限は通常通りだが、事情がある場合は延長を柔らかくする。棚の場所はカウンター近くの低い一段。窓際ではなくても、入口からすぐ見える位置にする。
見つけやすい場所。
私はノートの文を心の中で繰り返した。
「名前、どうします?」
私が聞くと、岡野先生は少し考える。
「ただの予約棚じゃ硬いわね」
蓮が言った。
「雨の日じゃなくても使える方がいい」
「でも雨の日に始まった感じは残したい」
三人でいくつか出した末に、最終的に「天気待ちの棚」になった。天気がよければそれでいいし、よくなくても待てる、という意味を岡野先生が後づけした。
手書きの案内札は私が作ることになった。放課後、カウンターの端で厚紙を切りながら、私は青と白の紙片も一緒に並べた。
「また作るの」
蓮が聞く。
「しおり。棚の本に挟もうと思って」
「目印」
「うん。戻ってくる目印」
蓮はそれ以上言わなかった。代わりに定規を寄越してくれた。昔の私はこういうものをいつも目分量で切って端を曲げていた。でも今日は、少しだけまっすぐにしたかった。
棚の設置は翌週に決まった。けれど準備を進めるほど、私の中には別の引っかかりが残った。
11/21の記録を書いたのは誰か。
ノートは箱の底にあった。高瀬さんはその存在を知らない。先生も私も蓮も、最近は触っていない。偶然とは思いにくかった。
その夜、家に帰ってから私は古いしおりの束を机に出した。北棟のころに作ったもの、新しい図書室に移ってから切ったもの、試し書きに失敗したもの。紙質も太さも少しずつ違う。今日の本に挟まっていたしおりは、そのどれとも完全には同じではなかった。でも、たぶん同じ人の癖を一度知っている。紙の角をほんの少し丸くするところ、線を真っ直ぐ引きすぎないところ。
翌日、学校に行く前、私はしおりを一枚だけ鞄に入れた。青と白の縞で、裏は白紙のまま。
何のためか、自分でもよく分からなかった。
第4章 天気待ちの棚
棚の設置日も雨だった。
朝礼で文化祭の反省や進路調査の話が流れ、教室では試験範囲の愚痴が飛び交っていた。そういう日常の速さの中で、図書室の小さな取り決めなんて誰にも気づかれない気がした。でも、気づかれなくても残るものがあることを、私は前に一度だけ知っている。
昼休み、カウンター横の低い棚に「天気待ちの棚」の札を置いた。説明は簡単にした。
読みたい本を、来られた日に見つけやすくします。
気になる方は図書室まで。
細かい事情は書かなかった。書きすぎると、必要な人ほど手を伸ばしにくくなる。
最初に興味を示したのは高瀬さんだった。
「これ、使っていいんですか」
「もちろん。誰でも」
「じゃあ、次は詩集がいいです」
「どんなの」
「晴れてないやつ」
その注文の仕方が、少しだけ誰かに似ていた。
私は書名を一緒に探し、棚の上段に薄い詩集を置いた。青と白のしおりを挟む。高瀬さんはそれを見て、嬉しそうに笑った。
「なんか、ここだけ時間が遅いですね」
「遅い?」
「急がなくていい感じがします」
図書室の奥で蓮が本の受け入れ作業をしていた。私と目が合うと、小さくうなずく。たぶん同じことを思っていた。こういう仕組みは、誰かのためというより、急ぎ続ける学校の中に一か所だけ歩幅を変える場所を作ることなのだ。
放課後になると、予想外に利用があった。保健室帰りの二年生が漫画以外の読みやすい本を頼み、欠席の多い三年生が進路本を一冊取り置いてほしいと言った。誰も深い説明はしない。ただ、「来られた日に見つかるなら助かる」とか、「予約システムだと期限が気になって」とか、そういう言い方をした。
岡野先生はカウンターの向こうで、淡々と受け付けながら、時々すごく小さく微笑んだ。
「もっと早くやればよかったわね」
私が言うと、先生は「ほんとに」とだけ答えた。
その日の閉室間際、私は準備室のノートをもう一度見に行った。箱から出したまま鍵付きの棚へ移してあったが、ページの並びは変わっていない。最後に書かれていた高瀬さんの一行も、そのままだ。
けれどノートに、新しい紙片が挟まっていた。
白紙のメモ用紙を半分に折っただけの小さなものだ。開くと、そこに一行だけあった。
窓際じゃなくてよかった
私はしばらく、その意味を測りかねた。
北棟にはもう戻れない。新しい図書室には別の明るさがあって、たぶんそこにしか届かない人もいる。窓際の席に象徴みたいな意味を持たせすぎない方がいい、と言われているようでもあった。見つけやすい場所は、入口の近くでもいいのだと。
「真帆」
背後から蓮に呼ばれ、私は振り返った。彼は準備室の扉のところで立っている。
「何かあった?」
私は紙片を見せた。蓮は読んで、少しだけ眉を寄せる。
「字、似てる」
「うん」
「でも、断定したくないやつ」
「うん」
それから彼は、私の手元ではなくノートの方を見た。
「たぶん、誰か一人のためだけじゃないんだと思う」
「何が」
「この仕組み。篠宮さんがいたから始まったとしても、今は別の誰かにも要る」
彼らしい言い方だと思った。慰めではなく、位置の確認みたいな言葉だ。
私は紙片をノートの最後に挟み直した。
その夜、帰り際に昇降口で高瀬さんが私を呼び止めた。
「あの、今日の詩集、まだ借りてないんですけど」
「うん」
「先に中だけ見ました。しおり挟んでくれたページ、よかったです」
私は一瞬、言葉を失った。
「私、しおりは挟んだけど、ページは指定してないよ」
高瀬さんはきょとんとした。
「え。でも、線が引いてあって」
見せてもらうと、詩集の一篇に鉛筆で細い括弧がついている。
待っていてくれる場所は、広くなくていい。
見つけたときに、まだそこにあると分かればいい。
私はゆっくり本を閉じた。高瀬さんは不安そうではなく、どちらかというと大事なものを扱う顔になっていた。
「なんか、いいですね。誰かがここを使ってた感じがして」
そう言って、彼女は本を抱え直す。
「明日、ちゃんと借ります」
昇降口の外では、雨がアスファルトを静かに黒くしていた。
第5章 返却日の向こう
十二月に入る前、図書室に一度だけ大きな雨の日があった。
朝から空が低く、昼を過ぎても校舎の蛍光灯が白く浮いて見えた。こういう日は図書室の利用が極端に減る代わりに、来る生徒は少しだけ長く居つく。窓際の席も、天気待ちの棚も、どちらも静かに使われていた。
高瀬さんは最近よく来るようになった。友達と騒ぐでも、一人で沈み込むでもなく、棚から借りた本を読み、気圧の悪い日は保健室へ行き、その帰りにまた寄る。そういう使い方が図書室に馴染むのを見ていると、学校の中にもまだ遅い場所を増やせる気がした。
その日の放課後、岡野先生は会議で先に職員室へ戻り、図書室には私と蓮だけが残った。返却台の上には、天気待ちの棚から戻ってきた本が三冊ある。しおりを抜き、状態を確認し、また必要なら次の誰かのために挟み直す。
『曇天航路』を開くと、前に入っていた紙片はなくなっていた。代わりに貸出票のポケットに、新しいメモがある。
返せる日に返せばいい、は甘いでしょうか
でも、そうじゃないと来られない人がいる
私はそれを蓮に見せた。彼は「質問みたいだね」と言う。
「返事、書く?」
「図書室として?」
「真帆として」
私はすぐにはうなずけなかった。何かに応じることは、認めることに近い。けれど、認めなくても起きることがあるのを、もう知っている。
「書くなら、棚の方かな」
私は天気待ちの棚へ歩いた。空きは二段分。そこに、進路本と詩集と、薄いエッセイが並んでいる。棚板の端に、今朝までなかった小さな水滴の跡がひとつある。窓からは遠いのに、ここだけ少し湿って見えた。
私は鞄から、あの青と白のしおりを取り出した。裏はまだ白紙だ。カウンターへ戻り、蓮が置いていった油性ペンを借りる。
なんとか読める字で、短く書いた。
甘くていい
来られる日があるなら、その日のために置いておけばいい
書いてから、答えとして足りているのか分からなかった。でも、それ以上うまい言葉は出てこない。
私はそのしおりを、棚のいちばん端に置いた一冊へ挟んだ。本は『雨期の星図』だった。北棟から来た、何度も返却日の記憶を運んできた本。最初の事件の始まりみたいに思っていたけれど、たぶん始まりはもっと前から細く続いていたのだろう。
閉室ベルの少し前、入口の自動ドアが一度だけ開いた。
私は反射的に顔を上げたが、入ってきたのは誰もいない。風もない。けれど湿った空気だけが、廊下から一枚ぶん流れ込んだ。古い校舎の隙間風に似た冷たさだった。
「今の」
私が言うと、蓮は返却印を押す手を止めた。
「聞こえた」
それだけだった。
閉室作業を終えて、棚の本を確認する。『雨期の星図』のしおりはそのままだった。私は少し笑って、笑いきれなかった。返事を書くなんて、誰に向けてだろうと改めて思う。
電気を落とす前、天気待ちの棚の下段に一冊増えているのに気づいた。
薄い古い文庫。タイトルは『坂道の天気』。貸出処理はされていない。誰かが棚に戻し忘れたのかと思ったが、背に貼られた古いラベルで北棟の蔵書だと分かる。私は本を開く。青と白のしおりが挟まっていた。私が今使っているものより紙が薄く、角が少しだけ曲がっている。
裏には何も書かれていない。代わりに、挟まったページに鉛筆で短い線がある。
返却日があると、また来ていい気がした。
私は本を閉じ、蓮を見る。彼は私の表情だけで何となく察したらしく、近づいて本を受け取った。
「貸出記録は?」
「ない」
「誰かの置き忘れかも」
「うん」
「でも、それでもいいんじゃない」
蓮は本を棚へ戻した。乱暴ではなく、かといって神聖視するでもない手つきだった。
「棚は、そういう本のためにもあるんでしょ」
私はその言葉で、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
そうだった。誰が置いたかをひとつずつ確かめるためではなく、置いても消えない場所を作るために始めたのだ。
「明日、利用案内に一文足そうか」
私は言った。
「どんな」
「返却が遅れても、先に相談してください、って」
蓮は頷く。
「いいと思う。相談できるだけで違うから」
図書室の照明を落とし、最後に棚を見る。雨の日のせいか、背表紙の色がどれも少し深い。ここは北棟の窓際ではない。でも見つけやすい。遅れて来た人にも、途中でいなくなった人にも、本の続きがあると分かる場所だ。
私は『坂道の天気』を棚の中央へ少しだけ寄せた。その横に『雨期の星図』を並べる。しおりは抜かなかった。
翌週から、天気待ちの棚は当たり前のように使われるようになった。保健室の先生が本を取りに来ることもあれば、欠席しがちな生徒の家族が放課後に立ち寄ることもある。利用記録には名前が残る場合も、残らない場合もある。けれど、来られない日を責めない棚が一つあるだけで、図書室の空気はほんの少し変わった。
岡野先生は何も大げさに言わない。ただ新しい台帳を一冊用意し、表紙にこう書いた。
見つけやすい場所
私はその文字を見て、少しだけ笑った。先生は「何?」と聞いたが、私は首を振った。
雨の帰り道、昇降口で高瀬さんに会った。彼女は詩集を抱えたまま、「最近、図書室に行きやすいです」と言った。
「どうして」
「待ってる本があるからです。私の名前がちゃんとそこにある感じがして」
その言葉は、聞いたことのない新しい表現なのに、ずっと前から知っていた気もした。
家に帰ってから、私は鞄のポケットを探った。使い損ねたしおりの切れ端が一枚出てくる。青と白の細い縞で、端が少しだけ曲がっていた。昔の私なら雑だと思ったはずの歪みが、今は雨筋みたいで嫌いじゃなかった。
翌日の放課後、図書室へ行くと、天気待ちの棚の『雨期の星図』に挟んだ私の返事の下へ、見覚えのない細い文字が一行だけ増えていた。
それなら、次も来られます
私はしおりを抜かず、そのまま本を棚へ戻した。
窓の外では、冬の手前の雨が静かに降っている。強くはないけれど、長く残る雨だった。学校は相変わらず急ぎ足で、名前は毎日増えて、毎日どこかからこぼれる。それでも、見つけやすい場所が一つあれば、全部ではなくても、いくつかは次の雨まで持ちこたえられるのかもしれない。
私はカウンターに新しい案内札を置いた。
返却が遅れても、先に来られたらそれで大丈夫です。
それは規則というより、これからも使い続けるための約束だった。誰に向けたものかは、もうひとつに決めなくていいのだと思う。高瀬さんのように今日必要な人にも、名前だけが薄く残る誰かにも、たぶん同じ文で届く。
閉室ベルが鳴る少し前、図書室のどこかでごく小さな紙の擦れる音がした。
私は振り向かなかった。
振り向かなくても、そこに本があり、棚があり、来た日に見つけられる場所があると分かっていたからだ。雨の日だけは、その確かさを少し信じていい気がした。