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短編

帰る場所の留守番電話

古い留守番電話の声を整理する仕事をする女が、他人の残した呼びかけを通して、自分の父に電話をかけ直すまでの一日。

Genre
現代文学
Series
単発
#喪失#家族#春#声#仕事

四月のはじめ、会社の窓から見える街路樹だけが、こちらの都合を待たずに春になっていた。

佳奈の仕事は、古い留守番電話の録音を新しい形式に移し替えることだった。電話会社が回線の整理を進めるようになってから、使われなくなった機械や、解約された番号に残っていた音声データが、段ボール箱に詰められて部署へ届く。佳奈はヘッドホンをつけ、再生ボタンを押し、用件の切れ目ごとに区切って、日付と宛名を打ち込む。必要があれば依頼主へ送付し、保存期限を過ぎたものは削除する。

人の声には、文字より先に季節が入っていると、佳奈は思っていた。咳払いの乾き方や、窓を閉め切った部屋の響きで、冬や梅雨がわかることがある。受話器越しの沈黙にも、その家で過ぎた時間の癖が残る。

その日、灰色の機械と一緒に届いた伝票には、「雨宮洋服店 閉店整理」とだけ記されていた。依頼主は雨宮淳。続柄の欄は空白だった。

再生すると、最初に古い電子音が鳴り、それから女の声がした。

「淳、母さんです。留守みたいね。店の前の沈丁花、今年は遅いです」

落ち着いた、少しかすれた声だった。次のメッセージでは「預かった上着、ボタン付け替えておいたから」。その次では「お父さんの七回忌、来られなくても気にしなくていい」。さらに次では「牛乳、切れそうなら帰りに買ってきて、ってもう帰り道じゃないわね」。自分で言って、少しだけ笑う。

録音は何年分もあった。用件はどれも小さかった。裾上げの相談、店のシャッターの具合、町内会の回覧板、春になって店先の鉢植えを並べ替えたこと。淳という相手が折り返したのかは、佳奈にはわからない。わからないまま、声だけが一方通行に積み重なっていた。

昼休みになっても、佳奈は席を立たなかった。コンビニのサンドイッチを開ける気になれず、包装の角だけを指でつぶしていた。

母が亡くなってから、父とは月に一度ほどしか話していない。仲が悪いわけではなかった。ただ、二人で話すたびに、会話の真ん中に母の不在が置かれてしまうのが苦しかった。父は庭のことを話し、佳奈は仕事のことをぼかして話し、どちらも肝心なところに触れないまま電話を切る。それが何度も続くうちに、用事がなければかけない相手になっていた。

午後、続きを再生した。

「淳。店のストーブ、もう片づけました。今日はあったかいから」

「淳。あんたの学生の頃のコート、まだある。袖口が少し擦れてるけど、いい生地だから」

「淳。別に帰ってきなさいって言いたいんじゃないのよ」

そこまで言って、テープの中で声が一度途切れた。息を吸い直す小さな音がした。

「ただね、帰る場所だったってことまで、なくさなくていいと思っただけ」

佳奈はキーボードに置いていた手を離した。隣の席では誰かがコピー機の紙詰まりに舌打ちをしていて、給湯室の方では電気ポットの沸く音がしていた。いつもの午後だった。けれどヘッドホンの内側だけ、雨の前みたいに静かだった。

最後のメッセージは、店を閉める少し前のものらしかった。

「淳、母さんです。シャッター、今日で最後にします。鍵は管理会社に預けます。あんたのコートは、捨てませんでした。捨ててもよかったんだけど、吊るしてあると、店の形が崩れない気がして。変ね。じゃあ、これで留守番電話に話すの、たぶんおしまい」

数秒の沈黙があり、それから、用件ではない声が落ちた。

「元気でいなさい」

電子音が鳴って切れた。

佳奈はしばらく画面を見ていた。送付用のファイル名を入力する欄が、白く開いている。規定では日付順の連番にするだけでいい。必要以上のことはしない。感想も添えない。仕事としては、それで正しい。

彼女は立ち上がって給湯室へ行き、ぬるい紙コップのコーヒーを捨てた。スマートフォンをポケットから出し、父の名前を開いた。親指は発信の上で止まった。

何を話すのか決めていない。決めていないことを話すための電話など、ずいぶんかけていなかった。切ろうかと思ったとき、向こうで呼び出し音が鳴りはじめた。

三回目で父が出た。

「もしもし」

聞き慣れているはずの声が、思ったより年を取っていた。

「あ、佳奈。どうした」

「ううん。別に、用事ってほどじゃないんだけど」

父は少し黙ってから、「そうか」と言った。その「そうか」が、佳奈の中でやわらかく着地した。責めるでも、探るでもない、ただ受け取るための相づちだった。

「そっちは、どう」

「庭のチューリップが咲いたよ。赤だけ先に」
「そっか」
「そっちは忙しいのか」
「うん、まあ。古いものを片づける仕事が多くて」

父が小さく笑った。「佳奈に向いてるな。おまえ、子どもの頃から、何でも取っておくのうまかったから」

言われて、佳奈も笑った。母のレシート、海で拾った丸いガラス、修学旅行の乗車券。大事だったからではなく、捨てる理由が見つからなかったから持っていたものがたくさんあった。

「今度、そっち行こうかな」と佳奈は言った。
「今度じゃなくてもいいぞ」
「じゃあ、今月の終わり」
「チューリップ、まだ持つかな」
「持たなくてもいいよ」

言ってから、自分でその言葉の意味を考えた。花は終わってもよかった。見に行く理由は、それだけではないのだ。

電話を切ったあと、佳奈は席に戻り、送付データの欄に必要事項を打ち込んだ。連番のファイル名を並べ、保存先を確認し、依頼主への送信予約を設定する。最後のメッセージだけ、再生位置を少し戻してから、もう一度聞いた。

元気でいなさい。

命令ではなく、祈りに近い声だった。帰ってこいでも、忘れるなでもなく、生き延びてほしいという、それだけの形をした言葉。留守番電話は不在のための機械なのに、ときどきこうして、誰かがこれから先もいない場所へ向けて声を置いていく。

窓の外では、夕方の光が街路樹の若葉を薄く透かしていた。佳奈はヘッドホンを外し、端末を閉じた。仕事は終わっていない。明日もまた別の声が届く。知らない家の知らない沈黙が、箱に詰められてやってくる。

それでも今日は、ひとつだけ片づかなかったものがある。その片づかなさを、佳奈は前より少しだけ嫌わずにいられた。

帰る場所というのは、そこに残っている家具や鍵のことではなく、たぶん、かけてもいいと思える電話番号のことなのだろう。

会社を出ると、春の風がまだ少し冷たかった。佳奈はコートの前を合わせ、それから思い直して、ひとつだけボタンを外した。