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短編

赤信号の約束

赤信号を無視した夜の事故以来、私は交差点で見えない誰かに袖をつかまれるようになった。

Genre
ホラー
Series
単発
#信号無視#事故#交差点#約束#後悔

姪の芽衣は、横断歩道の前に立つと、いつも小さな声で確認した。

「あかは、とまる。あおで、わたる」

保育園で習ったらしい。得意げにそう言ってから、私の手を握り直す。
私はそのたびに「そうだね、ちゃんと待とうね」と答えた。

その約束を、先に破ったのは私だった。

事故があったのは、去年の十一月の終わり、雨上がりの夜だった。残業で終電ぎりぎりになり、駅までの近道を急いでいた。問題の交差点は、昼間なら人通りの多い場所だが、その時間は車もまばらで、濡れたアスファルトに信号の赤だけが無駄に鮮やかだった。

歩行者信号は赤だった。
でも、見渡すかぎり車は来ていないように見えた。

私は一度だけ左右を見て、そのまま足を出した。

たった数歩だった。
背後で、誰かの買い物袋が擦れる音がした。つられて振り返ると、白いエコバッグを提げた年配の女の人が、私の後ろから車道に降りるところだった。

その瞬間、左折してきた車のライトが、水たまりに弾けた。

悲鳴は、よく覚えていない。
覚えているのは、袋の口から転がり出たみかんが、横断歩道の白線の上をゆっくり転がっていったことだけだ。濡れた路面に、妙にきれいな橙色だった。

私は軽い事情聴取を受けた。
信号無視をしたことも話した。警察官は露骨に責めなかったが、「あなたにつられた可能性はありますね」とだけ言った。その言い方が、かえって長く残った。

亡くなったと聞かされたあと、私はその交差点を通れなくなった。
けれど通勤路を変えるにも限度があって、二週間ほどすると、遠回りの疲れに負けてまた使うようになった。

最初に見たのは、事故からひと月ほど経った夜だった。

赤信号で止まっていると、隣に人が立った気配がした。顔を向ける前に、スーパーの袋が服に触れるような、しゃら、と乾いた音がする。見れば、白っぽいコートを着た女の人が一人、まっすぐ前だけを見ていた。

私は息を止めた。
横顔ははっきり見えなかったが、手に提げている袋の口から、丸いものがのぞいていた。

信号が青に変わる。
その瞬間、私は反射的に隣を見たが、もう誰もいなかった。

気のせいだと思おうとした。
寝不足と後悔で、神経が過敏になっているのだと。

けれど、それからも何度か同じことがあった。

雨の日。風の強い日。終電を逃して歩いて帰る夜。
あの交差点で赤信号を待っていると、必ずではないが、ときどき隣に誰かが立つ。私が少しでも前に出ようとすると、コートの袖がきゅ、と引かれるような感触がある。

そして、耳元ではない、もう少し遠いところから、静かな声が聞こえる。

「まだ赤ですよ」

その声は責めるでもなく、怒るでもなく、ただ確認するような言い方だった。
だから余計に、私は何も言えなくなった。

妹には話していない。芽衣にももちろん言えなかった。
ただ、横断歩道の前で芽衣が「ほら、おじちゃん」と私の手を引くたび、胸のあたりに冷たいものがたまっていった。

春になっても、夏になっても、それは消えなかった。
むしろ季節が変わるほど、あの夜だけが取り残されて、交差点の空気の中に沈殿していくようだった。

九月の終わり、妹から夜に電話があった。
芽衣が発作を起こして、救急外来に連れてきているという。大したことはなさそうだが、心細がっているから来てほしい、と。

私は財布だけ掴んで部屋を飛び出した。
タクシーがつかまらず、最寄り駅まで走った。息が切れ、喉が痛く、額に汗がにじんだ。あの交差点に差しかかったとき、歩行者信号は赤だった。

深夜に近い時間で、道路は空いていた。
向こう側には病院へ続く大通りの灯りが見える。急げば一分は縮まる。たった一分だ。たった一分で、芽衣の不安が少し減るかもしれない。

私は、信号機を見上げた。
赤い人型が、何も知らない顔で立っている。

そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。妹からの追い打ちの連絡かもしれない。焦りで、視界が狭くなる。私は反射的に足を踏み出しかけた。

右の袖口が、強く引かれた。

驚くほどはっきりした感触だった。
冷えた指先が、生地をつまんでいる。

次の瞬間、音もなく一台の配送バイクが交差点を横切った。ライトだけが鋭く流れ、私の目の前を、風の塊みたいに抜けていく。赤信号を無視していた。もし一歩出ていたら、まともにぶつかっていたはずだった。

脚の力が抜け、その場に固まりかけた私の横で、袋の擦れる音がした。

見ると、ガラス張りのクリーニング店の窓に、私の隣に立つ女の人の姿が映っていた。白いコート。少しうつむいた顔。提げた袋の中の、丸い影。

けれど振り向くと、誰もいない。

青信号に変わる直前、確かに声がした。

「今度は、待てましたね」

私は病院へ向かった。
芽衣は吸入を終えて、眠そうな顔でベッドに座っていた。私を見るなり、「ちゃんと青で渡った?」と訊いた。

冗談のつもりではなかったのだろう。
私はうまく笑えず、「うん」とだけ答えた。

それから私は、どんなに急いでいても赤信号では止まるようになった。
止まる、というより、止まらせてもらっている感覚に近い。あの交差点だけではない。駅前でも、商店街の脇でも、住宅街の細い道でも、赤の前に立つときどき、右の袖口がほんのわずかに重くなる。

先月、会社の後輩が私の隣で舌打ちしながら身を乗り出したことがあった。車なんて来ていないっすよ、と笑って。
私は考えるより先に、その腕をつかんでいた。

「待て」

思った以上に強い声が出て、後輩は目を丸くした。
次の瞬間、無灯火の自転車が、かなりの速度で横切っていった。後輩は青ざめて、「うわ、危な」と小さく言った。

信号が青に変わる。
私のすぐ横で、しゃら、と袋のこすれる音がした。

それ以来、赤信号で止まるたび、私は一つだけ考える。
あの夜、私のせいで失われたものが、こんなことで返せるはずはない。けれど、それでも止まるしかないのだと。

昨夜も帰り道、交差点で一人で待っていた。
雨上がりで、白線がぬめるように光っていた。誰もいないはずなのに、足元に小さな影が増えた気がして、私はそっと横を見た。

そこには、やはり誰もいなかった。

ただ、信号機の押しボタンの下に、ひとつだけみかんが置かれていた。
濡れているのに不思議と傷はなく、信号が青になるまでのあいだ、ずっとこちらを見ているような色をしていた。