短編
雨宿りの砂糖壺
雨の日だけ現れる喫茶店で、忘れたい記憶を砂糖に変えてきた女が、最後に残したいひとつを選び直す話。
私がその喫茶店を見つけたのは、駅前の再開発で古い通りが半分ほど消えた六月の夕方だった。
雨は、いかにも梅雨らしく、降るというより町全体をじっとり濡らしていた。傘を持っていたのに膝から下が冷たくて、逃げ込む場所を探して顔を上げたとき、見覚えのない木の看板が目に入った。
雨宿り喫茶 ひとさじ
そんな店名だった。
昨日までここには、シャッターの閉まった時計店があったはずだ。そう思いながらも、私は吸い寄せられるみたいに扉を押した。からん、と澄んだ鈴が鳴る。店の中は狭く、古い柱時計と丸テーブルが三つ。カウンターの向こうには、白髪をきれいにまとめた女主人がいて、棚には珈琲豆の瓶よりも、いろいろな形の砂糖壺が目立っていた。
「いらっしゃい。ひどい降りねえ」
女主人はそう言って、湯気の立つタオルを出してくれた。手を拭くと、それだけで少し、生き返った気がした。
「この店、前からありましたか」
「雨の日だけよ」
あまりに自然に言うので、私は聞き返せなかった。
すすめられるまま席につくと、水ではなく、小さなガラス皿に角砂糖が一粒のってきた。白ではない。薄い琥珀色で、光にかざすと中に細かな泡が閉じ込められている。
「うちの砂糖は、少し特別なの」と女主人は言った。
「甘いだけじゃない。記憶をやわらげるの」
冗談にしては、声が静かすぎた。
私はその日、三年つきあった恋人に、もう会わないと言われたばかりだった。理由はいくつも並べられた気がするのに、帰りの電車を降りたころには、最後の「ごめん」しか思い出せなかった。思い出すたび胸の内側が硬くなる。だから私は、笑って受け流すかわりに、皿の砂糖を見つめた。
「忘れたい記憶がある人はね、それをひとさじだけ砂糖に移して帰るの」
「そんなこと、できるんですか」
「やってみる?」
断る理由がなかった。
女主人はカウンターの奥から小ぶりの砂糖壺を持ってきた。真鍮のふたに雨粒みたいな模様が浮いている。
「壺にふれて、いちばんつらい場面を思い浮かべて。言葉にしなくていいわ」
私は両手で壺を包んだ。ひやりとして、少しだけ脈打つような感触があった。駅の改札前、濡れたアスファルト、彼の目が私をまっすぐ見なかったこと、傘の先から落ちつづける雫。胸の奥がきゅっと縮む。すると壺の底で、かすかな音がした。さら、という、乾いた雪の崩れるような音だった。
女主人がふたを開けると、中には琥珀色の砂糖が一粒増えていた。
「はい、できあがり」
その瞬間、私は自分でも驚くほど、さっきの痛みの輪郭を失っていた。別れた事実はわかる。悲しいこともわかる。けれど、胸を刺していた鋭さだけが、きれいに抜け落ちていた。
「……すごい」
「便利でしょう。でも、入れすぎると味気ない人になるから気をつけて」
女主人はいたずらっぽく笑った。
それから私は、雨の日ごとにその店へ通うようになった。仕事で言われたきつい一言。母と喧嘩した夜の自己嫌悪。友人の結婚を素直に祝えなかった狭い心。小さな棘が胸に刺さるたび、私はひとさじずつ砂糖に変えた。
そうすると、日々はたしかに楽になった。眠れない夜は減り、会社でも以前より穏やかだと言われた。私はきっと、ちゃんと大人になっているのだと思った。
ただ、その年の終わりごろから、ときどき妙なことが起きた。
好きだったはずの曲を聴いても、どこが好きだったのか思い出せない。母の作るコロッケを食べても、懐かしいのに、その懐かしさの中身が空っぽだ。友人と笑っていても、笑い声だけが先にあって、心が少し遅れてついてくる。
ある雨の夜、私は喫茶店でいつもの席につき、珈琲の表面に揺れる灯りを見ながら言った。
「私、最近、軽すぎる気がするんです」
女主人は、珍しくすぐに返事をしなかった。白いカップを磨きながら、ぽつりと言う。
「悲しみを捨てつづけるとね、同じ場所にいた喜びも薄くなるのよ」
「でも、つらいのは嫌です」
「ええ、誰だってそう」
女主人は棚のいちばん上の砂糖壺を見上げた。ほかの壺より古く、曇ったガラスで中身が見えない。
「記憶は、痛みだけでできているわけじゃないの。痛かった場所には、たいてい大事なものも一緒に刺さってる」
その言葉を、私はうまく飲み込めなかった。
店を出るとき、女主人が初めて引き留めた。
「今度来るときは、何かひとつ、忘れたくない記憶を決めてきて」
次の雨まで、二週間あった。
私は考えた。恋人と行った水族館。父がまだ元気だったころ、ベランダで一緒に干した洗濯物。高校の文化祭で、友人と夜まで残って作った張りぼて。どれも輪郭がぼやけている。砂糖に変えたせいで、痛みと一緒に色も少しずつ抜けてしまっていた。
そのとき、ふと思い出したのは、去年の秋の些細な場面だった。
風邪をひいて寝込んだ夜、母が台所で梨をむいてくれていた。私は大人なのにと思って、少しむっとしていた。それでも、台所から聞こえる包丁の乾いた音が妙に安心できて、薬の苦さも熱のつらさも、その音の向こうに遠ざかっていった。母は皿を持ってきて、「食べられるぶんだけでいいよ」と言った。その声のかすれ具合まで、なぜかはっきり思い出せた。
たぶんあの夜、私は守られていた。
次の雨の日、私は店へ行き、女主人の前で言った。
「忘れたくないのは、母が梨をむいてくれた夜です」
「いい記憶ね」
「でも、あれだけ残して、ほかを消したままでいいのか、わからなくて」
女主人は静かにうなずき、あの真鍮の砂糖壺を持ってきた。
「今日は逆をしましょう。ひとさじだけ、戻すの」
「戻す?」
「あなたが預けたものの中から、ひとつ選ぶ。痛みごと返ってくるわ。でも、輪郭も戻る」
私は少し怖かった。けれど、空っぽのまま穏やかでいることに、もう疲れていた。
女主人が並べた小皿には、私が置いていった琥珀色の砂糖がいくつもあった。そのどれが何なのか、見分けはつかない。なのに、ひとつだけ、見た瞬間にわかる粒があった。他のものより少しだけ不格好で、角が欠けている。
「これです」
珈琲に落とすと、砂糖はすぐには溶けなかった。ゆっくり沈み、黒い液面の奥で、雨上がりの信号みたいに鈍く光った。
一口飲んだ瞬間、改札前の湿った空気が戻ってきた。
彼の言えなかった言葉。私の言いすぎた沈黙。好きだったからこそ噛み合わなくなっていた日々。胸はちゃんと痛んだ。でも、その痛みのまわりに、確かにあったはずのものも一緒に帰ってきた。春の川沿いを歩いたこと、コンビニで新作のアイスを半分こしたこと、くだらない誤字で笑い転げた夜のこと。
私は、喫茶店の真ん中で、少しだけ泣いた。
「失くしたくなかったのは、こっちだったんですね」
「たいてい、そうなのよ」
女主人はハンカチを差し出した。
「つらさを消すより、抱え方を覚えるほうが、時間はかかるけどね」
帰るころには、雨が弱くなっていた。店の前で傘を開こうとして、私は振り返った。
「この店、どうして雨の日だけなんですか」
女主人は扉の内側で、柔らかく笑った。
「人はね、晴れの日には、なくしたものを忘れたふりが上手だから」
その言葉を最後に、店の鈴が鳴った。
春になって、私は母に梨を買って帰るようになった。季節外れだと笑われても、たまにはいいでしょうと返す。仕事でへこむ日もあるし、思い出して痛む夜もある。でも、痛むからこそ、何が大切だったのか見失わずにいられる気がした。
梅雨がまた来て、私はあの通りへ行ってみた。
そこにはもう、雨宿り喫茶はなかった。代わりに閉まった時計店のシャッターが、しずかな雨を受けていた。夢でも見ていたのだろうかと思いかけて、私は鞄の内ポケットに小さな硬さを見つけた。
取り出すと、角の少し欠けた琥珀色の砂糖が一粒。
私はそれを口に入れなかった。濡れた空を見上げて、そっと掌に包んだ。
甘さはまだ、溶かさないで持っていたかった。