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短編

雨の預かりもの

子どもの頃に見知らぬ誰かから借りた一本の傘を返せなかった男が、長い雨の季節に小さな返礼のかたちを見つけていく。

Genre
現代文学
Series
単発
#雨#傘#港町#記憶#継承

港町の雨は、降り始めると辛抱強かった。空が一度灰色になると、半日でも一日でも、海のほうから湿った風を送り込みながら、町の輪郭をやわらかく曖昧にしてしまう。

古川湊は駅前でクリーニング店を継いでいた。看板には「古川クリーニング」とあるが、実際には衣類よりも、観光客が濡らした薄いコートや、漁師町の人間が持ち込む厚手の雨合羽のほうがよくぶら下がっていた。店の軒先には、いつからか「ご自由にお使いください」と書いた傘立てが置かれている。透明なビニール傘、黒い折りたたみ傘、骨の一本曲がった紺の傘。湊が勝手に修理したものも混じっていた。

その傘立てができた理由を、町の人はだいたい知っていたが、正確には誰も知らなかった。

湊が小学三年生の帰り道、大雨に降られて駅の小さな待合室に閉じこめられたことがある。母は熱を出して寝込み、迎えは来ないと分かっていた。待合室には古びた時刻表と、曇ったガラスと、床に染みこんだ古い湿気の匂いだけがあった。夕方になっても雨脚は弱まらず、心細さに喉がひりついたころ、見知らぬ女の人が一本の傘を差し出した。

「返さなくていいよ」と、その人は言った。
「でも」
「ほんとうは、返せたらきれいなんだけどね。返せないこともあるから」

深緑の布の傘だった。持ち手が木で、手に吸いつくようになめらかだった。女の人は顔をよく覚えられない。ただ、声だけが不思議と残った。低くも高くもなく、雨の音にちゃんと届く声だった。

湊はその傘で家まで帰った。けれど翌日、返しに駅へ行っても、その人はいなかった。次の日も、その次の日もいなかった。駅員に聞いても心当たりはなく、忘れ物として届けるには、その傘はもう誰かの親切の形をしていて、無造作に窓口へ出すことがためらわれた。そうしているうちに、母がその傘を使い、風の強い日に骨を折り、修理し、やがて布が擦り切れて、とうとう処分した。

返せなかった、という事実だけが残った。

そのことを、湊はときどき思い出した。たいていは雨の日だった。店先でしずくを払う客の背中を見ていると、自分はまだ一本の傘を借りたまま歳をとってしまった気がした。

三十五になった春の終わり、店の前で女子高生が空を見上げて立ち尽くしていた。制服の袖口がもう濡れている。信号を渡れば駅だが、そのあいだにずぶ濡れになる強さの雨だった。

「傘、使う?」と湊が声をかけると、彼女は少し身構え、それから軒先の傘立てを見た。
「借りてもいいんですか」
「うん。返しに来られたら返して。無理なら、まあ」
「まあ、ですか」
「困ってる人に渡してくれたら」

女子高生は透明な傘を一本抜き取り、ありがとうございます、と小さく頭を下げて走っていった。三日後、その傘は戻ってこなかった。だが一週間後、見たことのない青い傘が傘立てに増えていた。持ち手に白いラベルが巻かれ、丸い字で「ありがとうございました」とだけ書かれていた。

それが最初だった。

次に増えたのは、赤い子ども用の傘だった。ランドセルを背負った男の子が、少し照れた顔で置いていった。さらにその次は、近所の美容室の女店主が、骨の丈夫な灰色の傘を一本差し入れた。「うちにも忘れ物が溜まるから」と笑っていた。いつの間にか、町の何人かが、不要になった傘や、置き場所に困る予備の傘を、湊の店先へ持ってくるようになった。

湊は受け取った傘を洗い、壊れていれば直した。細い針金とペンチと糸で、骨を起こし、ほつれを縫う。乾いた傘布を撫でる時間は、アイロンをかけるのと似ていた。人の生活の皺を、完全ではなくても、少しましな形に戻していく。

梅雨入りしてからは、傘立ての減りも増えも激しくなった。朝には八本あったのに、昼には空になり、夕方にはまた五本に戻っている。誰が借りて誰が置いていくのか、湊には分からない。ただ、流れだけが見えた。見知らぬ人の手から手へ、濡れないための小さな道具が渡っていく。その移動の途中に、自分の店先がある。

ある日の夕方、ひどく風の強い雨が来た。店のガラス戸がかたかた鳴り、外ののぼり旗が脚を折られたみたいにしなっていた。湊が傘立てを店内に入れようとしたとき、向かいの停留所に年配の女の人が立っているのが見えた。買い物袋を抱え、濡れた前髪を押さえながら、来るはずのバスのほうを見ている。

湊は紺の長傘を一本持って、横断歩道を渡った。

「使いますか」

女の人は少し驚いた顔をした。目尻に細い皺があり、その皺の入り方に、湊は理由もなく懐かしさを覚えた。

「でも、すぐそこまでだから」
「そのすぐそこが、いちばん濡れます」
「たしかに」

女の人は傘を受け取り、ぱちりと開いた。しっかりした布の音がした。深緑ではなく、ありふれた紺色だったが、その開き方に妙な丁寧さがあった。

「返しに行けばいいの?」
と女の人が言う。

湊は、昔の自分の声を聞いた気がした。待合室の湿った空気、木の持ち手の感触、返せなかった傘。いくつもの雨が、その一言に折り重なる。

「返せたら、うれしいです」と湊は言った。
それから少し考えて、
「でも、返せなかったら、別の誰かに渡してください」

女の人は湊の顔を見た。目が静かだった。なにかを思い出そうとしているようにも、ただ相手の言葉をまっすぐ受け取っているだけのようにも見えた。

「そういうの、いいね」と彼女は言った。
「返せないことって、あるものね」

その言い方に、湊の胸が小さく鳴った。はっきりと確信したわけではない。けれど、確かめても意味がないことは、この世にいくつもある。たとえば、あのとき傘をくれた人がこの人かどうか。もし違っていても、この言葉が自分に届いたことは本当だった。

バスが来た。女の人は会釈をして乗り込み、曇った窓越しにもう一度だけ傘を持ち上げて見せた。紺の傘の先から、細いしずくがこぼれた。

その傘は戻ってこなかった。

けれど数日後、店先の傘立てに、一本の古い傘が増えていた。布は深緑で、持ち手は木だった。布の縁は少し擦り切れ、一本の骨に修理の跡があった。新品ではない。むしろ長く使われてきたものの顔をしている。だが、雨を防ぐには充分だった。

持ち手に紙片が結ばれていた。

「預かっていたものを、次の人へ」

湊はしばらく、その場で動けなかった。紙片の字は見覚えがあるともないとも言えない、どこにでもあるような字だった。海風が吹きこみ、傘布がかすかに鳴った。

その日の午後、制服姿の中学生がずぶ濡れで駆け込んできた。財布を落としてしまい、母親に連絡もつかず、家まで歩くしかないのだと言う。湊は店の奥からタオルを持ってきて、彼の肩にかけた。

「傘、選びな」

少年は並んだ傘を見比べ、いちばん端の深緑の傘に手を伸ばしかけて、遠慮するように引っこめた。
「これ、高そうだから」
「じゃあ、なおさら使ったほうがいい」
「え」
「いい傘は、雨の日に使われるのがいちばんいい」

少年は戸惑いながらも受け取り、両手で持ち手を握った。木の手元が、彼の濡れた指によく馴染んで見えた。

「返します」と少年は言った。

湊は笑った。
「返せたらでいいよ」
「でも」
「返せなかったら、困ってる人に渡して」

少年はうなずき、傘を開いて雨の中へ出ていった。深緑の円が、灰色の町並みの中をゆっくり遠ざかる。風にあおられながらも、たしかな重みで前へ進んでいく。

店先には、雨宿りの人がまた一人立ち止まっていた。傘立てには、まだ何本か余りがある。透明なもの、赤いもの、黒いもの、名前のない親切の集まり。

返せなかった一本の傘は、いつの間にか、町のあちこちへ枝分かれしていたのかもしれない。そう思うと、自分の中で長く濡れたままだった場所が、ようやく乾きはじめるのを感じた。

雨はまだやまない。港のほうから白く煙るように降り続いている。

湊は傘立ての向きを少し整え、新しい紙を貼った。

「ご自由にお使いください。
返せたら、ここへ。
返せなかったら、次の人へ」

文字は雨の湿気で少しだけ滲んだが、その滲み方さえ、この町には似合っていた。