短編
雨の返却日
貸出カードの廃止作業をしていた図書館員が、一冊の本に残された小さな記録から、読まれ続けた時間のかたちを知る話。
市立北町図書館では、その月の終わりに貸出カードをやめることになっていた。
本の見返しに貼られた紙の袋からカードを抜き取り、書庫の奥で箱に分けていくのが、臨時職員の奈央に任された仕事だった。利用者番号も返却日も、もう端末の中にしか残らない。紙のカードは、保存分を除いて処分される。
奈央は、返却印の青や赤の薄れ方を見るのが好きだった。昭和の角ばった数字、平成の丸い数字、インクがにじんだ梅雨の日、乾いた冬の日。誰に話しても理解されない趣味だと思っていたが、カードを抜くたびに、誰かの手から別の誰かの手へ渡っていった時間が、紙一枚の上で静かに重なっているのを感じた。
その日、奈央は詩集や全集の棚が並ぶ書庫で、一冊の随筆集を手に取った。薄い灰色の布表紙で、題名は『雨の庭』。いかにも長く読まれてきた本で、角は丸く擦れていた。
見返しの袋からカードを抜くと、同じ苗字が何度も並んでいた。
三田。
三田。
三田。
少し間が空いて、また三田。
返却日は不思議なくらい六月に偏っていた。六月七日、六月十二日、六月二十日、六月九日。十年以上のあいだ、雨の季節にだけ、この本は決まって借りられていた。
さらによく見ると、返却印の横に、ごく小さな鉛筆の文字があった。
くもり。
小雨。
強い雨。
夕方だけ晴れ。
職員がそんなことを書くはずがない。奈央はカードを窓際に持っていった。紙の上に細い筆圧が残っていて、どれも同じ癖の字だった。最後の欄だけが空白で、その下に返却印だけが押されている。三年前の六月だった。
「それ、まだ残ってたの」
声をかけたのは、退職後も週に一度だけ整理作業を手伝いに来る里見だった。八十に近いのに背筋が伸びていて、本を棚に戻す動作がいまでも正確だった。
奈央がカードを見せると、里見は目を細めた。
「三田さんね。ご夫婦でよく来てたわ」
「この小さい天気、利用者さんが書いたんですか」
「たぶん、ご主人。奥さんのために」
里見は、空いたワゴンに手を置いたまま話した。
奥さんはだんだん目が見えなくなって、それでも本が好きで、朗読してもらうのを楽しみにしていたこと。ご主人は仕事帰りにこの本を借りて、家で少しずつ読んで聞かせたこと。奥さんが毎回きくのは、物語の続きより先に、「きょうの雨はどんな雨だった?」ということだったこと。
「窓の外が見えなくなってから、天気を聞く癖がついたみたいでね」と里見は言った。「だからあの人、返しに来るたびに書いてたのよ。忘れないように」
奈央はカードをもう一度見た。小雨。強い雨。夕方だけ晴れ。
本の感想でも、貸出記録でもなく、その日そこにあった空の様子だけが、律儀に残されていた。
「最後の空白は」
「その年の秋に、奥さんが亡くなったの」
里見はそれだけ言って、次の棚へ向かった。説明の続きを足さないところが、里見らしかった。
その日の午後、奈央は保存対象のカードを選別しながら、何度も『雨の庭』のカードを見返した。規定では、著名人の献本や、戦前から残る資料のカードは保存する。個人の小さな書き込みがあるだけでは理由にならない。
閉館一時間前、カウンターの前にひとりの老人が立った。夏なのに薄い雨合羽を腕にかけ、両手で本を持っている。奈央はすぐに灰色の布表紙に気づいた。
『雨の庭』だった。
「すみません」と老人は言った。「ずいぶん前に借りたままで」
奈央は本と顔を見比べた。どこかで見たことがある気がしたが、利用者情報はもう検索できないほど古い。
「カードの時代の本でね」と老人は続けた。「片づけをしていたら出てきたんです。返しそびれていたらしい」
返しそびれた、という言い方が奇妙にやわらかかった。責任の所在より、時間のほうを気にしている口調だった。
バーコードを読み取ると、案の定、貸出情報は残っていなかった。奈央は「受け取りました」とだけ言えば済むはずだったのに、気づくと口にしていた。
「もしかして、以前この本をよく借りていませんでしたか。六月に」
老人は少し驚き、それから困ったように笑った。
「そんなことまで残っていますか」
「カードに」
奈央は言ってから、慌てて奥の箱を見た。まだ処分箱には入れていない。紙片を取り出して差し出すと、老人は眼鏡をかけ直し、しばらく黙って見ていた。
「これ、まだあったんですね」
指先が、空白の欄の手前で止まった。
「妻がね、雨の日の本はよく覚える人だったんです。見えなくなってからは、なおさら」
「里見さんから少し聞きました」
老人はうなずいた。
「読んだことは忘れても、雨の音は覚えていると言っていました。だから、返す日に天気を書いておくと、次に借りたとき、前に読んだ日のことを思い出せるんです。小雨なら台所、強い雨なら寝室、夕方だけ晴れなら病院の帰り道、というふうに」
奈央には、その言葉がよくわかった。人は出来事そのものより、手触りや匂いや空気の色で時間を思い出すことがある。
「最後の年は、書けなかったんです」と老人が言った。「返しに来た日は、たしか晴れていました。でも、もう家に帰って読んで聞かせる相手がいなかったから、何も書く意味がわからなくなって」
老人はカードをそっと裏返した。薄い紙は、何度も指に触れられたせいか、端が少し起毛していた。
「それで本だけ返して、カードのことも忘れてしまった」
「本はどうして今まで」
「処分できなかったんでしょうね」
他人事のように言ってから、老人は小さく笑った。その笑いは言い訳ではなく、長く持ち続けてしまったものへの挨拶のようだった。
閉館を告げる音楽が流れ始めた。窓の外では、昼の熱を冷ますような細い雨が降り出していた。
奈央はカウンターの下から鉛筆を一本取り出し、老人に差し出した。
「もしよければ、最後の欄、埋めますか」
規定にないことだった。けれど、規定はたいてい、必要なことを少しだけ取りこぼす。
老人はすぐには受け取らなかった。窓のほうを見て、雨脚を確かめるように目を細め、それから鉛筆を持った。紙に触れるまでに少し時間がかかったのは、何を書くか決めるためではなく、書いてよいのか確かめるためだったのかもしれない。
さらさらと、小さな字がひとつ加わった。
静かな雨。
それだけだった。
奈央はその四文字を見て、なぜか深く息をついた。強い雨でも小雨でもなく、静かな雨。たぶんその日、老人はようやく、誰にも読んでもらわなくていい天気を書けたのだ。
「ありがとうございます」と老人は言った。
「こちらこそ」
老人が帰ったあと、奈央は保存対象の箱に『雨の庭』のカードを入れた。理由欄には、少し考えてから「読書履歴に付随する手書き記録あり」と書いた。行政の言葉に直すと、ずいぶん味気ない。
けれど、その紙片に残っているのは、記録というより、誰かが誰かのために毎回同じ本を開いた時間そのものだった。そういうものまで、きれいに処分してしまう必要はないのだと思った。
閉館後、書庫の電気を落とす前に、奈央は灰色の布表紙を一度だけ撫でた。外ではまだ雨が続いていた。
図書館には、返される本と、返しきれない時間がある。
そのどちらも、黙って棚に並んでいるのだと、奈央はその夜、はじめて知った。