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短編

雨の交差点の、もうひとり

雨の夕方、事故のあった交差点で、私は渡るたびに見えない誰かのぶんだけ道を空けるようになる。

Genre
ホラー
Series
単発
#信号無視#事故#交差点#記憶

その交差点を通るたび、私は無意識に左側へ寄る。

駅前の大きな通りと、古い商店街へ抜ける細い道がぶつかる、ありふれた四差路だ。角にクリーニング店があり、向かいにドラッグストアがあり、夕方になると学習塾の送迎の車が並ぶ。春も夏も、信号が変われば人が流れ、変わらなければ止まる。それだけの場所だった。

二年前の事故までは。

事故そのものを見たわけではない。私はその少しあと、野次馬の輪の外側から、濡れたアスファルトに散った買い物袋と、転がったオレンジを見ただけだ。救急車のサイレンと、誰かの「信号無視だって」という声も聞いた。

被害者は若い女性で、加害者はバイクの大学生だったらしい。赤信号を見落とした、と翌日の地方欄には小さく載っていた。どちらが無視したのか、記事は曖昧だった。私は記事を切り抜きもしなかったし、特別に気に留めたわけでもない。通勤経路の途中で起きた、他人の事故だった。

それなのに、半年ほどしてから妙なことが起きはじめた。

最初は、渡っている途中で肩が触れた気がしただけだった。

雨の夜だった。傘を差した人が多く、交差点はいつもより窮屈だった。青信号に変わり、私は人波にまぎれて横断歩道に出た。ちょうど中央あたりで、誰かが右肩をすり抜けた感触があった。振り返っても誰もいない。後ろの会社員は私よりかなり離れていて、前には女子高生がふたり、笑いながら歩いていた。

傘の骨が当たったのだろうと思った。

だが、その次の週も、またその次も、雨の日だけ同じことがあった。横断歩道の中央で、誰かが私を追い抜く。急ぎ足でもない、ぶつかりもしない、ただ確かに「ひとり分」が私の右を通る。

気のせいだと片づけるには、感触がはっきりしすぎていた。

やがて私は、渡るとき無意識に少し左へ寄るようになった。右側を空けると、肩の違和感は起きない。それに気づいたのは梅雨の終わりだった。

変な癖がついたものだと思う。

同僚の三浦にその話をしたら、笑いながら「事故の人じゃないですか」と言った。昼休みの定食屋で、味噌汁をすすりながらの軽口だったが、その晩から私は交差点のことを前より意識するようになった。

雨の日の夕方、信号待ちの列に並んでいると、ときどき足元に水滴ではない音が混じることがある。

ぽつ、ぽつ、ではなく、ぺたり、ぺたり、という濡れた靴底の音だ。

私のすぐ右後ろから聞こえるのに、そこには誰も立っていない。

青になって歩き出すと、その音は私の半歩後ろをついてきて、横断歩道の真ん中で一度だけ前へ出る。それから、渡りきるころには消える。

私は確かめたくなって、ある日わざと信号が青に変わってもすぐには歩かなかった。周りの人がどっと動き出し、私の脇を抜けていく。迷惑そうに舌打ちした男がいた。そのとき、右隣に気配が立った。

白っぽいブラウスの袖だけが見えた気がした。

次の瞬間にはもうなかったが、私の前の水たまりに、私のものではない足跡がひとつだけついていた。細い靴の跡だった。ヒールのない、平たい靴底。水はまだ降りつづいているのに、その跡はしばらく消えなかった。

その日から、私はその交差点で信号を守るようになった。もともと守っていたが、もっと厳密に守るようになった。点滅になったら決して渡らない。車が切れていても赤なら待つ。どれだけ急いでいても待つ。

そうしないと、右側の「ひとり」が近くなる気がしたからだ。

九月の終わり、残業で遅くなった帰り道だった。昼の暑さが嘘みたいに引いて、細い雨が斜めに落ちていた。交差点には私のほか、学生らしい男がひとりいた。イヤホンをして、スマホを見ている。信号は赤。車は途切れなく流れていた。

歩行者用信号の白い人型が点く前に、男がふっと前へ出た。

ほんの一歩だったが、タイヤが水を切る音が鋭く近づいた。私は思わず男の腕をつかんで引き戻した。ワゴン車が目の前をすべり抜け、運転手がクラクションを鳴らした。

男はイヤホンを片耳だけ外し、「あ、すみません」と笑った。たいして悪びれていない顔だった。信号無視になりかけたことより、突然腕をつかまれたことに驚いているようだった。

私は何も言えなかった。

そのとき、右側で、ぺたり、と音がした。

見なくてもわかった。誰かが、男のいた位置まで来て、止まったのだ。

青信号に変わっても、私はすぐには歩けなかった。隣の男は気にも留めず先に渡り、向こう側でまたスマホを見はじめた。私は一拍遅れて横断歩道に出た。いつものように左へ寄る。

中央まで来たところで、右側を通る気配がした。

ぺたり、ぺたり。

今日は追い越す速度が少しだけ速い。雨粒が傘を叩く音の下で、誰かが息をひそめて急いでいるようだった。思わず顔を向けると、視界の端にだけ白いものが映った。肩口までの濡れた髪。買い物袋の薄いビニールが指にからむような揺れ方。

そして、信号の向こうへ抜ける直前、その人影は振り向いた気がした。

顔は見えなかった。

ただ、私ではなく、さっきの男の背中を見ているのだとわかった。

次の瞬間、信号が変わりかけを告げる電子音が鳴った。男は赤になりかけた車道へ、また一歩はみ出した。今度は自分が青だと思ったのかもしれない。右折車がブレーキを踏み、タイヤが甲高く軋んだ。

事故にはならなかった。

ほんの少しで済んだ。男は運転手に怒鳴られ、ようやく青ざめた顔で歩道へ戻った。私は向こう側からそれを見ていた。右隣に立つ気配は、もうなかった。

その晩から、交差点の空気が少し変わった。

雨の日だけではなく、曇りの日でも、信号待ちをしていると右肩の先に誰かが並ぶのを感じることがある。以前より距離は遠い。責めるような気配でもない。ただ、私が赤信号の前で立ち止まるたび、その存在は静かにそこにいる。

私は勝手に、あの人は信号無視をする誰かを待っているのだと思うようになった。

誰かを守っているのか、連れていこうとしているのかはわからない。

あるいは、そのどちらでもないのかもしれない。ただ、自分が置いていかれた瞬間を、何度でもやり直しているだけなのかもしれない。

昨日の帰りも雨だった。

交差点に着くと、小学生の女の子が母親の手を振りほどいて車道へ出ようとしていた。向こうのコンビニに、期間限定のキャラクターくじの旗が見えていたからだろう。母親が慌てて抱き寄せ、女の子はむくれた顔で信号を見上げた。

その横で、誰もいないはずの場所のアスファルトだけが濡れて黒く光っていた。

青になり、人が動き出す。

私はいつものように左へ寄った。女の子と母親も前へ進む。中央まで来たところで、右側を誰かが通る気配がした。ぺたり、ぺたり。女の子はふいにそちらを見上げ、母親の手を握りなおした。

「お母さん」

小さな声が、雨の中でもはっきり聞こえた。

「いま、濡れた人いたよ」

母親は聞き取れなかったのか、早く渡りなさいと急かしただけだった。

私は振り向かなかった。

振り向いたら、今度こそ顔が見えてしまう気がしたからだ。

それでも渡りきる寸前、耳のすぐそばで、女の人の声がした。

ありがとう、ではなかった。
たすけて、でもなかった。

ごく普通の、疲れた声で、こう言った。

「今日は、まだ渡らないほうがいい」

私は反射的に立ち止まり、白線の内側へ半歩下がった。直後、後ろから自転車が猛スピードで突っ込み、私の肩先をかすめて赤信号の車道へ飛び出した。ブレーキ音と悲鳴が重なり、金属の倒れる音が遅れて響いた。

大きな事故にはならなかったようだった。人が集まり、怒鳴り声がして、誰かが救急車を呼ぶと言った。私は動けず、雨の中で立ち尽くしていた。

右隣には、もう気配がなかった。

家に帰って濡れたシャツを脱いだとき、右肩のあたりに薄い手形のような跡がついているのに気づいた。泥ではない。灰色の水染みが、指を開いた形で布に残っていた。

洗っても落ちなかった。

今朝、晴れているのに、その跡はまだそこにある。

会社へ向かう道すがら、私は例の交差点の前で立ち止まった。青信号だった。人が次々に渡っていく。急げば間に合う距離だったが、私は待った。

ふと、右の足元に、乾いたアスファルトの上には似つかわしくない、小さな湿った靴跡がひとつあるのを見つけた。

それは横断歩道のほうではなく、私の行き先と同じ方向――駅とは反対の、住宅街へ向かう細い道へ続いていた。

ぺたり。

ひとつ先で、音がした。

私はまだ、青信号の前に立っている。