短編
雨の留守電話
雨の夜だけ鳴る空き室の留守番電話を消していた女は、録音の中にまだ話していない自分の言葉を聞く。
市営団地の管理事務所で働きはじめて三年、雨の匂いだけはどうしても好きになれなかった。
古いコンクリートは、濡れると人の気配を溜めこむ。昼間は洗濯物や煮物の匂いに紛れているものが、夕方から急に輪郭を持ちはじめるのだ。廊下の隅、郵便受けの口、階段の踊り場。誰もいない場所に、いま誰かが立っていたあとのような濃さが残る。
私は管理人代理として、退去済みの部屋の見回りやポストの整理を任されていた。正式な管理人だった佐原さんは腰を悪くして、最近はほとんど事務所から出ない。だから雨の日の四号棟三〇七号室も、いつのまにか私の役目になっていた。
そこは半年前に空いた部屋だった。もともと独居老人が住んでいて、病院で亡くなったと聞いている。遺族は遠方で、荷物の整理だけ済ませると、部屋の契約を切ってしまった。畳は上げられ、カーテンもなく、電気も最低限しか通っていない。ほとんど空っぽの部屋だ。
なのに、雨の夜だけ留守番電話が点滅する。
最初に気づいたのは五月だった。見回りの最中、玄関脇の小さな電話機の赤いランプが、暗い室内でまばたきのように瞬いていた。外線は止めてあるはずなのにおかしい、と佐原さんに言うと、古い機種は誤作動することがある、消去しておいてくれと言われた。
再生すると、ざあざあという雨音の向こうで、誰かが低い声で言った。
「もしもし」
それだけだった。
いたずらにしては妙で、雑音も多かった。切れていない回線からどこかの音が紛れこんだのだろう、と自分を納得させた。消去ボタンを押すと、機械は短く電子音を鳴らし、赤い光を消した。
けれど次の雨の日、また点滅していた。
「もしもし。いるんでしょう」
声は前より少しはっきりしていた。女の声だった。年齢はわからない。ただ、責めるでも甘えるでもない、妙に静かな言い方だった。呼びかける相手が出ないことを、最初から知っている声だった。
私は黙って消去した。
三度目の雨の日には、再生する前から嫌な予感があった。部屋の中が湿って、生ぬるく、誰かがさっきまで窓を閉め忘れていたみたいな空気になっていた。音声は短かった。
「電気、つけて」
その瞬間、玄関の天井灯がぱちりと点いた。私は悲鳴をこらえ、壁のスイッチを見た。さっき消えていたはずのものだ。反射的に廊下へ飛び出し、ドアを開け放したまましばらく立ち尽くした。
あとで佐原さんに話すと、古い配線は雨でおかしくなる、そういうこともあるよ、と目を合わせずに言った。そして湯のみを持った手を少し震わせながら、「三〇七は、長く空けておいた方がいい部屋なんだ」と付け足した。
詳しく聞いても、教えてはくれなかった。
それでも仕事は仕事だ。雨が降るたび私は三〇七へ行き、点滅している留守電を消した。録音は少しずつ長くなっていった。
「ねえ」
「ポスト見た?」
「鍵、閉めないで」
「まだ帰ってないの」
そのうち、私にはその声が誰かに似ている気がしはじめた。けれど思い出しかけるたびに、濡れた布を頭からかぶせられたみたいに記憶が鈍る。
七月の終わり、台風が来た夜だった。事務所の窓を打つ雨がうるさくて、佐原さんは早めに帰れと言った。だが四号棟の見回りだけは済ませておきたくて、私は懐中電灯を持って廊下へ出た。
三〇七の前まで行くと、ドアが少しだけ開いていた。
風で開いたにしては、隙間は狭く、ちょうど人が中をうかがえる程度だった。私は胸の奥が冷えていくのを感じながら、名札のない表札を見た。半年前にはずされたままの、薄い日焼けの跡だけがある。
「失礼します」
自分でもなぜそんなことを言ったのかわからない。返事はない。ただ、部屋の奥で留守番電話の赤い点滅だけが続いていた。懐中電灯の光を向けると、畳を上げた板張りの床に、濡れた足跡が玄関から電話機の前まで伸びていた。そこから先は、どこにも続いていない。
私は逃げるべきだった。けれどそのとき、電話機が勝手に再生を始めた。
電子音のあと、雨音。つづいて女の声。
「ねえ、真由」
私は動けなくなった。
その名で私を呼ぶ人は、もういなかった。母は五年前に亡くなっている。病室で最期を看取った。細い指がシーツの上で私を探り、私はその手を握った。だから、もういない。間違えるはずがない。
録音の声は、確かに母だった。
「真由、ポスト見た?」
「見てないなら、見て」
「手紙、捨てないで」
私は懐中電灯を落とした。光が床を転がり、天井を、空の押し入れを、何もない台所を照らして止まる。その揺れる明かりの中で、私は急に思い出した。
母が死んだあと、実家を引き払ったのは私だった。郵便物の転送も止め、古い通帳も診察券も、いらないものと一緒に段ボールへ詰めた。あの日、最後にポストを開けたとき、一通だけ濡れた封筒が張りついていた。差出人もなく、私宛でも母宛でもない、ただ住所だけ書かれた封筒だった。
気味が悪くて、私は中を見ないまま捨てた。
そのことを、いままで忘れていた。
電話機はまだ喋っていた。
「捨てると、空くの」
「空いたところに、入ってくるから」
「返事しないで」
最後の一言だけ、ひどく鮮明だった。耳もとで囁かれたみたいに近かった。
その直後、背後で郵便受けのふたが、かたん、と鳴った。
三〇七の部屋のポストは、玄関扉の内側についている。誰かが外から差し入れたわけではない。なのに、小さな銀色のふたが持ち上がり、ゆっくり戻るのが見えた。
私は息を詰めたまま近づいた。中には一通、封筒があった。雨で少しふやけて、紙の端が波打っている。宛名はない。裏も白い。
開けると、中には便箋が一枚だけ入っていた。
あなたの声を使わせてもらいました。
返事をしたので、もうここは空いていません。
次はあなたの部屋へかけます。
足もとで、電話機がぴ、と鳴った。
新着メッセージ一件。
見なくてもわかった。再生すれば、もう終わりだと。私は便箋を握りつぶし、電話機のコンセントを引き抜いた。ランプは消えない。電池もないはずなのに、赤い点滅はゆっくり続いた。
ぴ。
ぴ。
ぴ。
私は受話器を持ち上げ、迷った末に耳へ当てた。無音だった。いや、よく聞くと、遠くで雨が降っている。その向こうに、誰かの浅い息。
そして、私の声がした。
「もしもし」
喉が裏返りそうになった。受話器を放り出して部屋を飛び出し、階段を駆け下り、事務所まで戻った。佐原さんはもういなかった。机の上に置き手紙が一枚だけ残っていた。
今日は四号棟を見回らないでください。
もし遅かったら、留守電を聞かないこと。
返事をしないこと。
私はその場で崩れ落ちた。遅かった、という言葉が、紙の上でじわじわ大きく見えた。
翌朝、雨はやんでいた。三〇七のドアはきちんと閉まっていて、留守番電話のランプも消えていた。中を確認したが、足跡も封筒も便箋も見つからなかった。電話機の録音件数はゼロ件。配線も正常。佐原さんは体調不良で休みだと連絡があった。
全部、疲れのせいだったのかもしれない。そう思おうとして、できなかった。
その日の夕方、自分のアパートへ帰ると、玄関の郵便受けに白い封筒が差しこまれていた。雨に濡れていない、乾いた封筒だった。差出人も宛名もない。
私は開けずに、テーブルの上へ置いた。
夜の九時を少し回ったころ、部屋の隅で使っていない固定電話が鳴りはじめた。契約はしていない。線だってつないでいない。なのに、ひどく行儀よく、一定の間隔で鳴り続ける。
私はじっとそれを見ていた。母の声を思い出していた。返事をしないで、とあの声は言った。けれど、受話器を取らなければ、あれが本当に母だったのかどうか、永遠にわからない。
四回目の呼び出し音が鳴った。
五回目が鳴る前に、留守番電話の赤いランプが、私の部屋で初めて点いた。