短編
雨上がりの返却口
雨のあとだけ返事をくれる古本屋の返却口で、言えなかった言葉を抱えた女性が一通の手紙を書き直す物語。
駅前の古本屋は、晴れた日よりも雨の日のほうが静かだった。
店先の赤いテントはところどころ色が抜け、雨粒を受けるたびに、古い楽器みたいな鈍い音を立てる。店の奥まで進むと紙の匂いが濃くなって、外の湿り気とは別の、乾いた時間に包まれる気がした。
三雲栞は、その店で週に四日だけ働いていた。大学を出てから就職を決めきれず、いつまでの「とりあえず」なのか自分でもわからないまま、店番を続けて一年になる。
本の背をそろえ、値札を書き直し、たまに常連客の世間話にうなずく。ひどく困ることはないが、胸を張って誰かに話せる毎日でもない。母から届く短いメッセージ――元気? ちゃんと食べてる?――に返事をしないまま、三日、四日と過ぎていくような、そんな曖昧な日々だった。
その古本屋には、少し変わった返却口があった。
本来、古本屋に返却口なんていらない。けれど店主の八代は、入口の脇に古い郵便受けのような木箱を据えつけて、「気が変わった本を返すため」と冗談めかして言っていた。買ったけれど手元に置いておけない本を、客がそっと返しにくることがある。値段がつくこともあれば、つかないこともある。ただ、雨の日のあとだけは、八代が必ずその箱を空ける役を栞に譲った。
「なんで雨の日だけなんですか」
働き始めたころに尋ねると、八代は文庫本のカバーをかけながら言った。
「雨上がりは、言いそびれたことが紙に残りやすいんだよ」
そのときは店主らしい気まぐれだと思った。
けれど九月の終わり、金木犀の匂いが夕方の空気に混じり始めたころ、栞は返却口の底で一枚の小さな紙を見つけた。
文庫本からこぼれたらしい細い栞紐に結ばれていて、そこには万年筆の青い字で、こう書かれていた。
――金木犀が咲いたら、返事をください。
宛名も署名もない。紙は新しくも古くもなく、妙にその一文だけがまっすぐだった。
栞は、返却口に入っていた本を確かめた。夏目漱石、江戸川乱歩、名前も知らない外国詩人の詩集。そのどれにも書き込みはない。いたずらだろうかと思って捨てかけたが、なぜかできず、レジの下の引き出しにしまった。
次の雨は三日後に降った。
閉店後、濡れた傘の匂いが残る店先で、栞はまた返却口を開けた。中には一冊の薄い歌集と、前と同じ紙片が一枚。今度は別の字で、鉛筆だった。
――まだ咲いています。遅い返事でも、ないよりはいいでしょうか。
栞は思わず店の外を見た。人通りの減った駅前に、立ち止まっている人影はない。八代は奥で帳簿をつけている。からかわれている気配もなかった。
「店長、これ」
栞が紙を見せると、八代は老眼鏡の上からちらりと目をやった。
「返事が来たねえ」
「意味わかりません。誰が書いてるんですか」
「書きたい人と、読みたい人」
それ以上は答えないつもりらしく、八代はまた数字に目を落とした。
栞は呆れたが、その夜、帰り道で母からの未読メッセージを開いた。今週、そっちに行けそう。会える? 短い文だった。半年前に喧嘩してから、顔を合わせていない。父の法事のとき、母が何気なく言った一言に栞が傷ついて、そのまま黙って席を立った。あとで考えれば、母だって困っていたのだとわかる。けれど「わかる」と「許せる」は別だった。
返信欄を開いて、閉じる。歩きながら何度も同じことを繰り返し、結局なにも打てなかった。
その翌週も、その次の週も、雨上がりの返却口には紙が入っていた。
――待つあいだに、季節がひとつ過ぎました。
――言えなかったことは、黙っていたことと同じでしょうか。
――受け取るだけでも返事になりますか。
どの紙も、誰かの胸の内を少しずつ削って置いていったような文章だった。返事らしいものも混じっていた。
――同じではありません。黙るのは、壊したくないからのこともある。
――受け取ったなら、もう半分は届いています。
栞はそれを読むたびに、誰かの往復書簡を盗み見ているような後ろめたさと、なぜだか自分のための言葉を覗いているような心細い温かさを覚えた。
十月に入ってすぐ、母から電話がかかってきた。珍しく長く鳴り続ける着信音を見つめながら、栞は出られなかった。留守番電話に残ったのは、雑音の向こうのためらう息と、「また連絡するね」という、ひどく遠慮がちな声だけだった。
翌日、雨が降った。
閉店後、返却口に入っていたのは、表紙の布がすり切れた便箋集と、一枚の紙だった。
――先に謝ったほうが負けだと思っていたころがありました。でも、勝っても誰も戻ってきませんでした。
栞はその場に立ち尽くした。紙を持つ指先が、少し冷えた。
「これ、誰なんですか」
奥で本を縛っていた八代に、思わず強い声を出した。
八代は紐を切らないよう慎重に結び目を締め、それからようやく顔を上げた。
「誰でもないよ。ここに本を返した人たちの、言えなかったことの残りみたいなものだ」
「そんなの、あるわけ」
「あるわけない、で済むなら、みんな苦労しない」
八代は笑わなかった。
「返却口ってね、もともとは普通の木箱だったんだ。昔、うちの女房が使ってた。手紙を入れてたんだよ。私に渡しそびれたやつを。亡くなって片づけるとき、箱の底から何通も出てきた。読んだら全部、たいしたことじゃないんだ。今日は寒いとか、醤油を切らしたとか、駅前の花屋の薔薇がきれいだったとか。だけど、読みながら、ああ、返事をしそこねた毎日で人生ってできてるんだなと思った」
栞は黙って聞いた。
「それから雨の日のあとだけ、ときどき変な紙が入る。理由は知らない。私はもう驚かないことにしてる」
八代は便箋集を栞に差し出した。
「君も書けば」
「誰に」
「返したい相手に」
その夜、店の閉店作業が終わってから、栞はレジ横の丸椅子に座り、便箋を一枚だけ取り出した。真っ白な紙は、思っていたより心細い。何度かペン先を置き、やめ、ようやく一行目を書く。
お母さんへ。
たったそれだけで、喉の奥が熱くなった。
怒っていたこと。あの日、父の話を軽くされたように感じて、悲しかったこと。けれど母を困らせたかったわけではないこと。連絡を無視し続けたのは、うまい言葉が見つからなかったからで、忘れたかったからではないこと。
書いているうちに、きれいな文章にしようという気持ちは消えた。便箋の半分ほどで栞は手を止め、最後にこう足した。
返事の書き方がわからなかっただけでした。会って話したいです。
折りたたんで封もせず、返却口にそっと入れた。自分でも馬鹿げていると思った。けれど不思議と、誰かに見られる心配はなかった。
三日後、晴れていたが、風が強く、金木犀の小さな花が歩道に散っていた。
古本屋の開店準備をしていると、入口のベルが鳴った。振り向くと、母が立っていた。薄いグレーのカーディガンに、少しだけ疲れた顔。けれど目元は、昔と同じように柔らかかった。
「急にごめん」
そう言ってから、母は鞄の中を探り、一枚の便箋を取り出した。見覚えのある、店の便箋だった。
「昨日、郵便受けに入ってたの。住所も切手もないのに、おかしいわよね」
栞は息をのんだ。便箋の端に、雨粒のような丸いしみが一つついていた。
「でも、栞の字だと思って」
母は少し笑い、すぐに笑みを引っ込めた。
「私も、ずっとなんて返せばいいか考えてた」
店の奥から、八代が気を利かせたのか、妙に大きな音で脚立を動かし始めた。栞は思わず笑いそうになって、こらえきれず、少しだけ笑った。
母もつられて笑った。そのあとで、どちらからともなく「ごめん」と言った。重なって、また少し笑った。
店の外では、雨の名残りを含んだ風が通り抜け、金木犀の匂いを押してきた。返事というものは、完璧な文面で届くのではなく、こんなふうに、少し間の抜けた朝に、照れくささごと手渡されるのかもしれないと栞は思った。
昼過ぎ、母が帰ったあとで、栞は返却口をそっと開けた。
中にはなにも入っていない。ただ、木の底にひっそりと、昔のインクの染みのような青い跡が残っていた。
「今日は静かですね」
栞が言うと、八代は新しく入った文庫本を棚に差し込みながら、「役目を終えた日は、だいたいそうだよ」と答えた。
栞は店先に出て、空を見上げた。雲は薄く、夕方にはまた晴れそうだった。ポケットの中の携帯が震える。母からだ。
――駅前のパン屋、まだあった。帰りにあんパン買ったよ。
今度は迷わず、栞は返した。
――あるよ。次は一緒に行こう。
送信してしまえば、たったそれだけの文だった。けれど画面の向こうへ飛んでいくその短さが、今日は妙に頼もしかった。
背後で古本屋のベルが鳴り、誰かが入ってくる気配がした。雨上がりではない午後の光が、本の背表紙を一本ずつ明るくしていく。言いそびれたことは、きっとこれからも尽きない。それでも、返事を書ける日がある。そのことだけで、昨日までより少し先へ進める気がした。