短編
雨の日の保管番号
雨の日だけ声を返す忘れものをめぐって、駅の遺失物係の私は、誰かの記憶を一時的に預かることの意味を知る。
雨の日の遺失物係は、少しだけ海の底に似ている。
窓口のガラスに水滴が筋を引き、改札を抜けてきた人たちの傘から、床へ小さな水たまりが増えていく。濡れたハンカチ、片方だけの手袋、文庫本、名刺入れ、ビニール袋に包まれた弁当箱。持ち主からはぐれた物は、みな黙っているのに、それぞれ別の湿り気をまとっている。
私はその日も、回収袋から中身を出し、管理票を書いていた。
拾得場所、時刻、特徴。保管番号四一七三は、銀色の小さなICレコーダーだった。古い型で、角に細かな傷があり、再生ボタンの白い印字がほとんど消えている。ホームのベンチ下で見つかったと、駅員がメモを添えていた。
私は乾いた布で水気を拭き取り、念のため再生を押した。
最初は、ざ、と雨に似たノイズしか聞こえなかった。壊れていると思って停止しかけたとき、女の声がした。
「牛乳、洗剤、みょうが。あ、あと切手。……傘、忘れないこと」
そこで録音は終わった。
ただの買い物メモだった。けれど最後の一言だけ、誰かに言い聞かせるようでもあり、自分に言い残すようでもあった。声は若くも老いてもおらず、ひどく平凡で、それだけに耳に残った。
管理票の備考欄に、私は迷ってから「音声記録あり」とだけ書いた。
三日後、その番号をたずねる人が来た。
「四一七三番、まだありますか」
窓口の前に立っていたのは、紺色のレインコートを着た男だった。五十代の終わりくらいに見えた。髪の生え際が少し後退していて、濡れた肩だけが妙に若々しかった。普通は「こういう物を落としたんですが」と形から入る。番号から言う人はめずらしい。
「ございます。お心当たりのある品ですか」
男は少し笑った。
「心当たり、というほど確かでもないんです。でも、たぶん妻のものです」
私はレコーダーを持ってきた。男は受け取らず、透明袋の上から眺めるだけだった。
「再生、できますか」
規則では、内容確認は原則しない。ただ、持ち主確認の補助になる場合もある。私は曖昧にうなずいて、窓口の内側で再生ボタンを押した。
「牛乳、洗剤、みょうが。あ、あと切手。……傘、忘れないこと」
男は目を伏せた。表情は崩れなかったが、手に持っていた整理券が、わずかに折れた。
「やっぱりそうか」
「お受け取りになりますか」
そう訊くと、男は首を横に振った。
「今日は、まだ」
「まだ、ですか」
「持ち帰ると、遺品になってしまう気がして」
窓口の上の蛍光灯が、ひとつ小さくうなった。男は言葉を選ぶように、視線を管理票へ落とした。
「落としもの、というのは不思議ですね。誰かの手を離れた瞬間から、急に名前がなくなる。でも、なくなったわけじゃない。ここにある間だけは、誰のものでもなくて、たしかにそこにある」
私は何も言えなかった。男は少し会釈をして帰っていった。透明袋の中のレコーダーだけが、机の上で薄く光っていた。
そのあと男は、雨のたびに来た。毎週ではなく、本当に雨のたびに。
四一七三番はまだありますか、と訊く。
あります、と私が答える。
必要なら再生します、と言う。
お願いします、と男が言う。
毎回、声は同じ順番で流れた。牛乳、洗剤、みょうが、切手。そして、傘を忘れないこと。
ある日、私はつい訊いてしまった。
「奥さまは、なぜこれを」
男は苦笑した。
「さあ。買い物の途中だったのか、誰かに会いに行く途中だったのか。本人にしかわからないですね」
そこで一度言葉を切り、窓の外を見た。線路の向こうで、濡れた電柱がゆっくり暗くなっていた。
「でも、最後の『傘、忘れないこと』だけは、よくわかるんです。あの人、自分のことはよく忘れたけど、人に傘を持たせるのだけは忘れなかったから」
笑い話のように言ったのに、その声はどこか空洞だった。
保管期限が近づいた。規定では、一定期間を過ぎた遺失物は処理に回される。延長には手続きがいるし、持ち主が名乗り出れば返還される。けれど、名乗り出ることと、受け取ることは、別なのだと私は知ってしまっていた。
期限前日の午後、男は雨のない日にやって来た。薄い曇り空で、窓口の前だけが取り残されたように静かだった。
「今日で決めます」
私は黙って四一七三番を出した。男は初めて、袋を両手で受け取った。その重さを確かめるみたいに、少しだけ持ち直した。
「すみません。変なことをしました」
「いいえ」
「知らない人に、三か月も妻の声を預かってもらった」
私は首を振った。
「預かったというより、覚えていただけです」
自分でも、言ってから少し驚いた。男も驚いたように私を見て、それから小さく笑った。
「それは、ありがたいですね」
最後にもう一度だけ再生したいと言われ、私はうなずいた。窓口の奥でボタンを押す。ノイズのあと、女の声が流れる。
「牛乳、洗剤、みょうが。あ、あと切手。……傘、忘れないこと」
男は目を閉じて聞いた。終わると、しばらくそのままだった。それからレコーダーを胸ポケットにしまい、透明袋だけを返してきた。
「これで、なくしただけだったものが、やっと帰る気がします」
その言葉は、別れの挨拶というより、長く開けられなかった窓を少しだけ開くような響きだった。
男が帰ったあと、私は管理票の備考欄に追記した。
「問い合わせ者あり。音声内容確認済み」
規則どおりの、味気ない文だった。けれど書き終えてから、余白に出さないまま、心の中でもう一行を付け足した。
雨の日にだけ、誰かの声は少し近くなる。
それ以来、私は忘れものの記録を、前より少し丁寧に書くようになった。黒い折りたたみ傘ではなく、持ち手に猫の傷のある黒い折りたたみ傘。文庫本ではなく、三十七ページに押し花の跡がある文庫本。誰かが見つけに来たとき、ただ返すためではなく、そこにたしかにあった時間ごと渡せるように。
夕方、急に雨が降り出した。改札の向こうで、何人もの人が足を止め、鞄の中を探り、諦めて走り出す。
私は窓口の下に置いていた自分の傘を手に取り、ふと、まだ誰にも言われていないのに小さくつぶやいた。
「傘、忘れないこと」
それはもう、知らない女の声ではなかった。けれど私の声だけでもなかった。誰かが落とし、誰かが拾い、しばらくのあいだ他人が覚えていた言葉は、そうやって少しずつ、持ち主を変えながら残っていくのだと思った。