短編
雨男
雨の日にだけ現れる男が、傘越しに語りかけてくる――その言葉には、決して耳を傾けてはいけない。
その男に初めて会ったのは、中学二年の梅雨の始まりだった。
登校中、いつもの坂道を歩いていると、背後から声をかけられた。
「いい傘だね」
振り返ると、そこには黒いレインコートを着た男が立っていた。
顔は帽子のつばに隠れ、年齢も分からない。声は低く、どこか濡れているような響きだった。
「どこで買ったの?」
「……さあ、親が買ったやつなんで」
それだけ言って早足で離れたが、男は追ってこなかった。
不思議だったのは、その日だけピンポイントで僕の周囲だけが土砂降りだったことだ。
周囲の生徒は傘も差さずに歩いていたのに、僕だけがずぶ濡れになっていた。
次の雨の日にも、男は現れた。
「最近、よく眠れてる?」
「……別に普通です」
「夢、見てるでしょ。あの坂道を、何度も落ちる夢」
図星だった。
最近、毎晩同じ夢を見る。ぬれた坂道で足を滑らせ、何かに引っ張られる夢。
目が覚めると、いつも足首に泥がついたような跡が残っている。
それから、雨の日には必ず男が現れた。
通学路の角、坂の途中、公園の入り口――
傘を持って立ち、誰かの声を代弁するかのように、不気味な質問を繰り返す。
「本当は、あの時押したの、自分じゃないと思ってるんでしょ?」
「彼女の傘、取ったのは君だよね?」
そんなこと、誰にも話していないはずなのに。
友人に話しても信じてくれなかった。
先生にも「疲れてるんじゃないか」と言われた。
でも、ある日を境に、僕の周囲で“事故”が増えた。
滑って転ぶ、落ちる、ぶつかる――
どれも雨の日だった。
そして皆、決まってその直前に「黒いレインコートの人に話しかけられた」と言っていた。
ある日、意を決して男に聞いた。
「……あんた、何が目的なんだよ」
すると、男はゆっくり顔を上げた。
帽子の下にあったのは、僕の顔だった。
びしょ濡れの髪、泥に汚れた制服、虚ろな目。
「君が落とした“自分”を、迎えに来たんだよ」
そう言って、傘を差し出してきた。
「こっちの傘に入れば、楽になる」
触れたら、終わる気がした。
全力で逃げた。
その日を境に、男は現れなくなった。
……でも、今日。
久しぶりに雨が降った。
誰もいない通学路の坂道で、前を歩く誰かが、ふと振り返った。
びしょ濡れの黒いレインコート。
その顔は――やはり、僕だった。
そしてその傘には、見たことのない“誰か”が、すでに入っていた。