短編
青い栞の約束
閉館前の図書館で交わした小さな約束が、青い栞とともに見知らぬ誰かのあいだを静かに巡っていく。
区立図書館の閉館時間は午後八時で、七時半を過ぎると館内の空気は少しだけやわらかくなる。昼間のざわめきが抜けて、誰かがページをめくる音と、暖房の奥で鳴る乾いた送風音だけが残るからだ。
その時間になると、決まって来る人がいた。
五十代か六十代か、見た目ではよくわからない女の人だった。背の低い人で、冬でも襟の薄いコートを着ていた。借りる本は毎回ばらばらなのに、栞だけはいつも同じだった。細い青い紙で、ラミネートもされていない、文具店でもらう短冊みたいなものだ。
返却のたび、その青い栞は本の真ん中にはさまっていた。
ある火曜日の夜、彼女は貸出カウンターで本を差し出しながら言った。
「この栞、もし次の人が読んでも、そのままにしておいてもらえますか」
冗談のつもりかと思って顔を上げたが、彼女はまじめだった。
「汚れて困るものではないので。しおりって、置いていかれるより、渡っていくほうがいい気がして」
規則に反するものではない。私はうなずいた。
「いいですよ。落ちないようにだけ気をつけます」
彼女は少し笑った。その笑い方は、こちらに礼を言うより、自分の考えをようやく誰かに預けられたことに安心しているように見えた。
それから彼女は、毎週火曜日の閉館前に来た。借りる本は詩集だったり、料理の随筆だったり、古い外国小説だったりした。返ってくるたび、青い栞は同じ場所にはなく、少しずつ位置を変えていた。途中から、栞には鉛筆で小さな字が書き足されるようになった。
三十二頁の最後の一行が好きです。
雨の日に読むなら、最初から読まないほうがいい。
この場面のあとでお茶を飲むと、ちゃんと苦いです。
最初は彼女の書き込みだと思った。だが次の週に見つけた字は丸く、その次は細く震えていた。少なくとも三人以上の筆跡があった。誰も長い感想は書かない。ただ、その本のそばに置いていきたい体温のようなものだけを書いていた。
青い栞は、気づかれないまま、いくつかの本を渡っていた。
私は返却処理のあと、次の貸出で同じ本が出ると、栞をそのまま残した。意図して選ぶわけではない。予約の入っている本や、回転の速い棚の本に紛れて、青い栞は何度も誰かの手に渡った。
ある晩、彼女はひどく咳き込んでいた。貸出カードを出す指先が白く乾いていた。
「もし、私がしばらく来なくなったら」
そこでまた咳をして、彼女は言い直した。
「この栞、次の人に渡してください。捨てないで」
「わかりました」
「約束ですよ」
それは軽い調子の言葉だったのに、私はなぜか即答できなかった。閉館を知らせる音楽が、遠くの児童室から遅れて聞こえてきた。
「約束します」
彼女は本を抱え、出口の自動ドアが開くところまで歩いていった。夜気が一瞬だけ館内に入り込み、彼女のコートの裾を揺らした。振り返るかと思ったが、そのまま出ていった。
その次の火曜日、彼女は来なかった。
さらにその次も、その次も来なかった。
利用者の事情を職員が詮索することはない。けれど顔なじみの人が不意に来なくなると、棚のあいだにぽっかりと余白ができる。私は火曜の夜になるたび、貸出カウンターから入口を見た。自動ドアが開くたび、薄いコートの裾を探した。
十二月の終わり、返却本の中に、彼女が最後に借りた詩集が混ざっていた。返却箱ではなく、カウンターに置かれていた。貸出記録を見れば誰が返したかわかるはずだが、私は調べなかった。
青い栞は、きちんとはさまっていた。
そこには新しい字で、こう書かれていた。
カウンターの人へ。火曜日は寒いので、閉館前に一度だけ入口のマットを直してください。つまずく人がいます。
私はしばらく、その文を見ていた。
その筆跡は、彼女のものではなかった。けれど、知らない誰かが、青い栞の向こうにこちらの存在を見つけていることはわかった。私は立ち上がって入口へ行き、少しめくれていたマットの角を靴先で直した。
その夜、最後の利用者になった高校生の女の子が、出るときに振り返って会釈した。いつもはしない子だった。理由はたぶん別にあるのだろう。それでも、私は青い栞のせいだと思いたかった。
年が明けるころには、栞はもう一冊のものではなくなっていた。詩集から小説へ、小説からエッセイへ、誰かの返却を経て静かに移っていく。書き込みも少しずつ増えた。
この本は病院の待合室で読むと長いです。
駅まで持ち歩くと、角が手にあたります。
十七頁まで読めれば、今日はだいたい大丈夫。
私はそれらを読むたび、見知らぬ人たちが同じ街のどこかで、それぞれの夜をやり過ごしているのだと思った。誰も名前は書かない。感想でも励ましでもなく、ほんのわずかな実感だけを置いていく。だからかえって、嘘がなかった。
二月の終わり、図書館の改修工事が決まり、うちの分館はひと月休館することになった。蔵書の一部は別の館に移される。私は移送のリストを作りながら、青い栞をどうするべきか迷った。事務的にいえば、ただの挟み込み物だ。抜いて廃棄しても問題はない。
けれど約束だけは、まだ終わっていなかった。
最後の開館日、私は青い栞を、あまり借りられない古い詩集にはさんだ。彼女が最初に持ってきたのと同じ、薄い生成りの表紙の本だった。目立たない場所に戻すのが、いちばん自然な気がした。
閉館後、棚を見回って照明を落とし、カウンターの下の引き出しを閉める。入口のマットを直し、返却箱の口を点検し、いつもより長く館内に立っていた。もう誰もいないのに、本の背表紙がこちらを見ているようだった。
休館のあいだ、私は隣の区の図書館に応援で入った。
知らない棚、知らない利用者、少し高いカウンター。仕事は同じなのに、他人の台所に立っているみたいで落ち着かなかった。三日目の火曜日、閉館前の返却本の山を処理していると、一冊の詩集のあいだから見覚えのある青がのぞいた。
手が止まった。
本は、私が最後の日にはさんだものと同じ版だった。だが移送リストには入っていないはずの本だった。だれかがこちらの館で借りて、こちらの館に返しただけかもしれない。同じ版はいくらでもある。そう思おうとして、開いた。
青い栞には、新しい字がひとことだけあった。
返却箱には入れないで、カウンターに返してください。
最初に彼女が言ったのと、まったく同じ文だった。
ただ、その下にもう一行、小さく加えられていた。
火曜日のいちばん遅い人は、まだちゃんといますか。
私はしばらく返事のしようもなく、その栞を指ではさんでいた。館内放送が流れ、窓の外を電車の明かりが過ぎた。カウンターの前には、閉館を待つように本を抱えた男の人がひとり立っていた。くたびれたスーツの、見覚えのない人だった。
「すみません」
彼は遠慮がちに本を差し出した。
「これ、返却箱じゃないほうがいい気がして」
私は栞を本にはさみ直し、受け取った。
「はい。ありがとうございます」
その人が去ったあと、私は入口のマットをまっすぐに直した。誰もつまずいてはいなかった。けれど外は少し冷えていて、火曜日の夜はたいてい、何かひとつ約束があったほうがいいのだと思った。