短編
青い自転車
放置された青い自転車が、封じられた“ある事故”の記憶を呼び覚ます。
住宅街の外れに、いつからか一台の自転車が放置されていた。
少し錆びついた、小さな青い自転車。子ども用だ。
カゴには落ち葉が積もり、タイヤは空気が抜けてぺしゃんこになっている。
通学路の途中にあるその空き地の角を、誰も気に留めない。けれど、直斗だけは、なぜかその自転車が気になっていた。
「なんか……昔見たことある気がするんだよな」
ある日の放課後、直斗はふと思い立ち、自転車に近づいた。
触れた瞬間、ひやりとした感触が手を走った。ハンドルの金属は冷たく、湿っていた。
サドルの裏側には、赤い文字で何かが書かれていた。
「こいで こいで おちたひ」
意味がわからなかった。いたずらか、あるいはホラー好きの子の仕業かもしれない。
だが、それ以来、夜になると夢に自転車が出るようになった。
夢の中で、彼は知らない道を走っていた。
青い自転車にまたがり、細くて長い坂道を必死にこいでいる。
後ろから、誰かの笑い声が聞こえる。女の子の声だ。
「もっと、もっと速く……!」
坂の終わり、カーブの向こうに、何かが待っている。
でも夢はいつも、そこで途切れる。
「直斗、その自転車……触ったの?」
ある日、近所の婆さんに呼び止められた。
「昔ね、あそこで事故があったの。女の子が自転車で坂を下って……そのまま、壁にぶつかって」
婆さんは、空き地の端を指さした。
そこには、低いブロック塀と、今は使われていない駐車場があるだけ。
「まだ小学校にも入ってない子だったって……青い自転車に乗ってたそうよ」
言われた瞬間、記憶が蘇った。
自分はその日、あの子と遊んでいた。
「スピード出してみたい」と無理を言ったのは、直斗の方だった。
彼女は笑いながら、何度もペダルを踏み、坂を下っていった。
――止まれない、止まれない――
それを最後に、彼はその記憶を“忘れていた”。
夜。夢は続いた。
今度は、自分ではない“誰か”が自転車をこいでいる。
少女の後ろ姿。髪がなびいて、白いワンピースが風に踊る。
でも、首だけが、あり得ない角度でこちらを向いていた。
「おちたの、わたしだけだと思った?」
直斗は目を覚ました。額は汗で濡れていた。
その日から、自転車の場所が少しずつ移動するようになった。
はじめは空き地の端。次に道の真ん中。
ある朝は、自宅の前。そして今朝は、学校の正門の横に。
直斗は誰にも言えないまま、再び夢を見た。
今度は、自分が乗っていた。少女が後ろに乗っている。
「つぎは、いっしょにおちようね」
声が耳元で囁く。
明日、坂道を通るのはやめた方がいい――
そう思ったときにはもう、足はペダルを踏んでいた。
朝の光の中で、誰も乗っていない青い自転車が、風もないのにゆっくりと動き出していた。