短編一覧へ戻る

短編

四月の留守番電話

閉店した写真館に残る留守番電話が、届かなかった言葉をひとつずつ春へ返していく。

Genre
現代幻想
Series
単発
#春#喪失#再生#電話#家族

商店街の端にある橘写真館は、三年前に閉まったきり、看板だけを季節に貸していた。春には燕が軒先をかすめ、梅雨には「写」の字だけが濡れて濃くなり、冬にはガラスの内側に積もる埃まで、白く見えた。

私はその隣の小さな文具店で働いている。名刺の注文を受け、大学ノートを棚に戻し、学校帰りの子どもに消しゴムを売る。昼の二時と夕方の五時に店前を掃くのが決まりで、その箒の音に混じって、四月になると一度だけ、橘写真館の奥で電話の鳴る気配がした。

気配、としか言えないのは、最初の年、たしかに聞いたと思って店を飛び出したのに、表のシャッターは半分錆びついていて、どこにも受話器の姿がなかったからだ。商店街の人に話すと、皆、同じような顔をした。

「春先はね、あそこ、たまに鳴るのよ」

と、惣菜屋の奥さんがコロッケを揚げながら言った。

「でも出ないほうがいいとか、そういうやつじゃないの?」

と、私は笑ってみせた。

「逆よ。出てやらないと、向こうも困るでしょう」

奥さんはそう言って、揚げ網を持ち上げた。油のしずくが、短い金色の雨みたいに落ちた。

二年目の四月、私は鍵を借りた。橘写真館の持ち主である橘さんは、今は娘さんのいる札幌に住んでいる。文具店の店主が商店街の会合で事情を話すと、「ああ、好きに見てちょうだい」とあっさり言ったらしい。防犯のために月に一度、誰かが風を通しているとも聞いた。

店の奥は、思っていたより明るかった。現像機は布をかけられて眠っていて、壁には七五三の子どもや銀婚式の夫婦の写真が、色あせながらまだ笑っていた。カウンターの隅に、白い留守番電話があった。受話器のコードは黄ばんで、赤いランプだけが不自然に新しかった。

電源は入っていない。コンセントも抜けていた。

それでも、私が近づくと、ランプがぽつ、と灯った。

乾いた機械音のあとに、男の声が流れた。

『三月十六日、午後七時二十二分。橘さん、先日の写真、ありがとうございました。母がね、自分の遺影って笑ってたんですが、届いたのを見て、こんなにちゃんと撮ってもらえてよかったって。あの、そういうこと、本人の前で言うもんじゃないかもしれないけど』

そこで声は少し笑って、咳払いをした。

『それで、追加でもう一枚お願いしたくて。今度は姉も入れて、家族で撮りたいんです。日曜、空いてますか』

メッセージはそこで途切れた。私はしばらく動けなかった。どこかで録音されていたものが、今、たまたま再生されたのだとしても、不自然だった。日時は十年以上前のものらしいのに、声はさっき吹き込まれたみたいに湿り気を失っていなかった。

その翌日も、その次の日も、四月のあいだだけ、午後三時過ぎになると留守番電話はひとつメッセージを再生した。

クリーニング屋の学生バイトが、証明写真の焼き増しの礼を言う声。
出産前の女の人が、お宮参りの予約をしたいと迷いながら話す声。
酔った男が「さっきは悪かった」とだけ残して切る声。

どれも短く、言い切れなかった言葉ばかりだった。私はメモ帳に日付と内容を書きつけた。文具店で売れ残っている薄緑の便箋を一枚ずつ使って、名前の分からない相手のために、勝手に見出しまで付けた。〈遺影のついでの家族写真〉〈産まれる前の予約〉〈謝りそこねた夜〉。

誰かの言葉に見出しを付けるのは、よくないことかもしれない。けれど、名前のない声は、そのままだとすぐに風景に溶けてしまいそうだった。

四月の半ば、留守番電話はとうとう母の声を流した。

『紗英、電話してるの。あんた出ないと思うけど』

私は受話器に手を伸ばしたまま、止まった。

母が死んで、もう二年になる。心不全だった。救急車を呼んだのは私で、白い靴下のかかとに小さな毛玉ができていたのを、待合室でずっと覚えていた。亡くなる前の一か月、私たちはほとんど口をきいていなかった。父が出て行ったのは私が高校生のときで、それを母のせいにしたのも、母が私の進学を心配して口うるさくなったのも、今になればどちらも小さい。けれど、小さいことほど毎日使うから、擦り切れずに残る。

留守番電話の母は、少し息を切らしていた。

『商店街の福引きで、あんたの好きだったグラス当たったのよ。青いやつ。昔、落として泣いたでしょう。似たの。いらないなら店で使うけど、一応ね、聞いとこうと思って』

そこで一度、外の音が入った。自転車のベルが鳴る。誰かが「こんにちは」と言う。母がそれに応えてから、少し声を低くした。

『それと、この前は言いすぎた。あんたが帰ってこないの、罰みたいに思ってたけど、そんなことあるわけないのにね。私、疲れると、誰かのせいにしたくなるの。悪い癖。グラスのことだけでも返事ちょうだい』

最後は、ふだんの母の調子に戻っていた。照れたときにわざと事務的になるあの声で、「じゃ」とだけ言って切れた。

私はその場にしゃがみこんだ。埃っぽい床に膝をついて、留守番電話を見上げた。返事をちょうだい、と母は言った。でも私はそのとき返事をしなかった。たぶん着信に気づいてもいなかった。あるいは画面に出た実家の番号を見て、見ないふりをしたのかもしれない。どちらにしても、返せなかったことだけは確かだった。

その夜、文具店の閉店後に惣菜屋の奥さんのところへ行き、コロッケを二つ買った。奥さんは包みながら、私の顔をちらりと見て言った。

「聞いたのね」

「どうして分かるんですか」

「春のあれを聞いた人、だいたい同じ顔するもの」

「他の人も、自分に関係ある声を?」

「ある人も、ない人も。たぶん、誰かに届かなかった言葉って、近くにいる人のところへ寄るのよ」

曖昧な言い方だったが、私は妙に納得した。届かなかったものは、宛先を失ったぶんだけ、しばらくこの町を漂うのかもしれない。桜の花びらや、店先からこぼれる魚の匂いや、選挙カーの名前みたいに。

「返事、できますか」

と私が聞くと、奥さんは少し考えてから首をかしげた。

「できるかもしれないし、できないかもしれない。でも、言うのは勝手よ」

翌日、私は橘写真館へノートを一冊持ち込んだ。大学ノートではなく、文具店の棚の一番上にしまってある、表紙のしっかりした記帳用のノートだ。これまで聞いたメッセージを一つずつ書き写した。声の調子まで残せるわけではないから、せめて言葉の順番だけでも崩さないように丁寧に書いた。

母のぶんを書いている途中で、涙が一滴落ちて、「返事」の「事」が少し滲んだ。

私はボールペンを置いて、留守番電話の前に座った。受話器を取る。耳に当てても、何も聞こえない。発信音もない、静かな重さだけがある。

「青いグラス、覚えてる」

誰に聞かせるでもなく言うと、自分の声が店の奥に吸い込まれた。

「落としたとき、泣いたのは、グラスがきれいだったからじゃなくて、お母さんがそれ、おばあちゃんにもらったやつだって言ったから。大事なものを私が壊したって思ったから」

少し間を置くと、ガラス戸の向こうを自転車が通った。春の陽がほこりを明るくした。

「この前のことも、ごめん。帰らなかったの、罰じゃない。帰るとまた同じことを言う気がして、嫌だった。お母さんにじゃなくて、自分が」

喉の奥が細くなる。私は受話器を持ち直した。

「でも、グラスはほしかった」

それを言ったとき、やっと胸の奥の何かがほどけた。許すとか、許されるとか、そんなきれいな言葉ではない。ただ、受け取り損ねた荷物に送り状を貼り直すみたいに、言葉が少しだけ正しい場所へ戻る感じがした。

留守番電話のランプが、一度だけゆっくり点滅した。

それきり、何も起きなかった。

四月の終わり、最後のメッセージは知らない子どもの声だった。

『しゃしん、できたら、ぼく、みにいく。はやく』

後ろで大人が笑っている。たぶん父親か母親だろう。子どもは受話器に息をかけ、「もしもし」ともう一度言って、切れた。

その声を聞き終えると、留守番電話の赤いランプは消えた。コンセントの抜けた白い機械は、ただの古い家電に戻った。私はしばらく待ったが、もう何も流れなかった。

五月に入ってから、橘さんの娘さん宛てに手紙を書いた。写真館に残っていた留守番電話のこと、勝手にノートを作ったこと、迷惑なら処分してほしいこと。返事は一週間後に届いた。丸い字で、「ノートはそのまま置いておいてください」とあった。

父が亡くなったあと、実家を片付けていたら、母の食器棚の奥から青いグラスが一つ出てきたとも書いてあった。

「たぶん、あなたに渡しそびれたものです。よかったら送ります」

私はすぐに返事を書いた。送ってください、と。短く、それだけ。

六月の雨の日、小包が届いた。新聞紙に何重にも包まれたグラスは、昔のものより少し厚手で、光にかざすと縁が水色に見えた。欠けもひびもなかった。私はそれを台所の一番取り出しやすい場所に置いた。飾るのではなく、使うために。

その夜、グラスに水を注いで飲んだ。拍子抜けするほど普通の水の味がした。けれど飲み干したあと、底にわずかな冷たさが残って、私はそれを両手で包んだ。

翌朝、店へ行く前に橘写真館の前を掃いた。シャッターの下に、どこから飛んできたのか薄緑の便箋が一枚挟まっていた。見覚えのある、文具店で売っている紙だった。拾い上げると、何も書かれていない。ただ、端が少し折れていて、誰かが一度、そこに言葉を置こうとした気配だけがあった。

私はそれをポケットに入れた。

商店街はいつもの朝だった。パン屋は甘い匂いを出し、八百屋は空豆を積み、惣菜屋の奥さんは忙しそうに揚げ物の準備をしていた。何かが劇的に変わったわけではない。母が戻ることもないし、届かなかった言葉がすべて救われるわけでもない。

それでも、返事をひとつした春があった。

それだけで、これから先の沈黙に、前より少しだけ座る場所ができた気がした。