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短編

朝焼けの乾燥機

夜明け前のコインランドリーで、手放せずにいた服を乾かすたび、女は自分の暮らしを少しずつ畳み直していく。

Genre
現代ファンタジー
Series
単発
#コインランドリー#朝焼け#乾燥機#洗濯物#生活音

午前四時のコインランドリーは、世界の端みたいに静かだった。

静かといっても、完全な無音ではない。乾燥機の低いうなり、洗濯槽の水が回る鈍い音、自動ドアのゴムがこすれる小さな震え、蛍光灯の細い唸り。誰もしゃべっていないだけで、店の中にはいくつもの生活音が残っている。昨夜ここを使った誰かの時間が、まだ帰りきらずに漂っているようだった。

有紗は、洗濯かごを足元に置いて、両替機に千円札を差し込んだ。四十歳になる少し前から、紙幣が吸い込まれるのを待つわずかな時間が苦手になった。何かを渡して、きちんと戻ってくるまでのあいだに、不意に心細くなる。

硬貨が落ちる乾いた音がして、彼女は息をつく。

店の隅の椅子には、いつも同じ時間に来る老人が座っていた。濃い紺の作業着に、つばの擦り切れた帽子。背筋だけは不自然なくらい真っすぐで、手には読みかけの新聞を持っている。だがページをめくるところを、有紗は一度も見たことがなかった。

「おはようございます」

有紗が言うと、老人は新聞から目を上げずに、少し遅れてから会釈した。

「おはよう。今日は早いね」

「いつもこのくらいです」

「そうか。じゃあ、私の時計が少し遅いんだろうな」

この人は、よくそういうことを言う。自分ではなく、時計のほうがずれているのだと決めてかかる言い方が、妙にやさしいと有紗は思っていた。

洗濯機に衣類を入れていく。シャツ、タオル、仕事で使う黒いパンツ、薄手のカーディガン。最後に、古い灰色のパーカーを手に取る。袖口がすり切れ、ファスナーの塗装も一部剥げている。元は夫のものだった。

正確には、元夫になるはずの人のものだ。

離婚届は一か月前に出した。印鑑を押して、市役所の窓口で受理されて、用紙は薄いのに、その日だけ妙に重かった。名前の一部を置いて帰るような気がした。七年一緒に暮らした男は、引っ越しの荷物をまとめるとき、自分の服をずいぶんきれいに持って行ったのに、このパーカーだけを忘れた。わざとか、うっかりか、有紗は今も確信が持てない。

忘れ物なら返せばよかったのだ。わざとなら捨てればよかった。

どちらもできず、冬が終わって春になって、梅雨も過ぎて、また秋に近づこうとしている。季節が進むたび、服だけが同じ場所に取り残される。

有紗はパーカーを洗濯槽に入れて、蓋を閉めた。

この店に来るようになったのは、部屋の洗濯機が壊れたからではない。自宅の洗濯機は普通に動く。けれどパーカーを洗うときだけ、家では洗えなかった。自分の部屋の中でそれを濡らすと、まだ同じ暮らしの続きにいる気がしてしまうのだ。だから歩いて十五分のこの店まで、夜明け前に来る。誰にも見られない時間に、誰のものでもなくなった服を洗う。

洗濯機が回り始めると、老人が新聞をたたんだ。

「その服、長く着てるみたいだ」

「私のじゃないんです」

「そうか」

そこで話を終えるでもなく、老人はまた言った。

「でも、持ってきたのは君だ」

有紗は返事をしなかった。店のガラスに自分の姿がうっすら映る。眠そうな顔、まとめきれずに落ちた髪、コンビニで買ったばかりの紙コップのコーヒー。三十代の終わりというものが、どういう見た目になるのか知らなかったけれど、たぶんこういう輪郭をしているのだろうと思う。

老人は立ち上がり、自分の乾燥機の前まで行った。回転窓の向こうで、白いタオルがゆっくり膨らんではしぼむ。それを眺めながら、彼は妙に真面目な声で言う。

「この店の乾燥機は、少しだけ親切なんだ」

「親切?」

「乾かしながら、持ち主が言えなかったことを、布のしわの奥から出してくる」

有紗は思わず笑った。

「何ですか、それ」

「信じなくていい。ただ、乾ききる前に取り出すと、聞こえない」

「何がですか」

「言えなかったことが」

老人はそこで肩をすくめた。冗談なのか本気なのか、わからない顔だった。

洗濯が終わるまでのあいだ、有紗は椅子に座ってスマートフォンを見た。勤め先の保育園の連絡アプリに、新しいメッセージは来ていない。母からの「体調どう?」という短い文に、まだ返事をしていないことに気づく。離婚してから、母は必要以上にやさしい。やさしさはありがたいのに、ときどき居心地が悪い。壊れかけの棚に新品の花瓶を置かれるみたいで、持て余す。

洗濯終了の電子音が鳴った。有紗は蓋を開け、湿った衣類を乾燥機へ移す。最後に灰色のパーカーを両手で持ち上げると、水を含んだ重みが手首にのしかかった。その重さが、まだ自分のものではない感じがした。

乾燥機の番号は七番。いつも空いている。硬貨を入れ、時間をセットし、扉を閉める。

回り始めた丸窓の中で、パーカーの袖が何度も裏返る。その動きを見ていると、人が手を振っているように見えることがある。こんなことを考えるから捨てられないのだ、と有紗は自分で呆れた。

「その服、誰のものか知っていても、どこへ返せばいいかわからないことがある」

老人が隣に来て言った。

「ありますね、そういうの」

「人も同じだよ」

有紗は顔を上げた。

「あなた、洗濯屋の人じゃなくて、占い師か何かですか」

「ただの利用者だよ。長いこと使ってるだけだ」

「じゃあ、乾燥機の親切さは利用歴で知ったんですか」

「何度か助けられた」

老人はそれ以上説明しなかった。自動ドアが開いて、若い男が一人入ってきた。イヤホンをしていて、会釈もなく奥の洗濯機へ行く。深夜から早朝へ移る時間帯には、こういう客が増える。夜の終わりに出てきた人と、朝の始まりで動く人が少しだけ重なる。そのあいだにいると、自分もどちら側なのかわからなくなる。

乾燥機が回るあいだ、有紗は丸窓を見つめていた。

夫――もうその呼び方も変わるのだろうが――と別れた理由は、劇的な何かではなかった。裏切りも暴力も大きな嘘もなく、ただ長い時間をかけて、互いに話しかける言葉が減っていった。冷蔵庫に貼る買い物メモは増えたのに、食卓で交わす会話は減った。疲れている、忙しい、今度でいい。そういう便利な言葉を使っているうちに、話さなかったことのほうが、話したことよりも多くなった。

最後の夜、彼は「しばらく一人で住みたい」と言った。

有紗は「そう」と答えた。

本当は、そのあとに続けるべき言葉がいくつもあったはずだ。どうしてなのか、私のどこがだめだったのか、戻るつもりはあるのか、私も同じことを思っていたのか。けれどどれも口に出さなかった。問い詰めたところで、急に正しい答えがもらえる気がしなかったからだ。

言わなかった言葉は、部屋の隅にたまるほこりみたいに、目に見えないくせに確かに積もる。

乾燥機の回転が少し遅くなった気がした。有紗は立ち上がって窓に近づく。丸いガラスの向こうで、灰色の袖が広がり、ふっと平らになった。その瞬間、耳元で誰かがつぶやいた気がした。

――寒いときに着てほしかっただけなんだ。

有紗は思わず振り返った。老人は椅子に座っている。若い男はスマートフォンを見ていて、こちらを気にしていない。店内の音はさっきと同じだ。乾燥機のうなり、蛍光灯の震え、遠くを走るトラックの低い音。

聞き間違いだ、と自分に言い聞かせる。

けれどすぐに、また別の声がした。

――似合わないのは知ってた。でも、選ぶ時間は楽しかった。

今度ははっきり、自分のすぐそばから聞こえた。乾燥機の扉に手を置くと、ほんのり熱い。中で服が回っているだけなのに、まるで内側に小さな部屋があって、そこに誰かが残っているみたいだった。

「聞こえた?」

いつのまにか隣に来ていた老人が、小声で尋ねた。

有紗は息を呑む。

「……何か」

「全部じゃない。布に残るのは、大事なところだけだ」

「そんなはず」

「そうだね。そんなはずはない。でも、聞こえてしまう」

老人の顔はからかうふうではなかった。長いあいだ誰にも信じてもらえないことを、静かに抱えてきた人の顔だった。

有紗は再び窓を見る。灰色の生地が回るたび、かすかな言葉が浮かび上がる。

――忙しいふりをしてた。
――帰るのが怖い日があった。
――君が悪いんじゃない。
――でも、君にそう言う資格が、自分にあると思えなかった。
――忘れたんじゃない。
――置いていったんだ。わざとだ。
――君が捨てやすいように。

最後の言葉に、有紗は目を閉じた。

胸の奥で、何かがずれた。壊れる音ではなく、長く噛み合っていなかった引き出しが、ようやく正しい溝にはまるような感触だった。

捨てやすいように。

それは親切だったのか、身勝手だったのか、今の有紗にはまだ判断できなかった。ただ一つわかるのは、彼もまた言葉を失くしていたのだということだった。自分だけが黙っていたわけではない。二人とも黙って、二人とも間違えた。そう考えると、七年分の重さが急に軽くなることはないが、持ち方が少し変わる。

乾燥終了の電子音が鳴った。

有紗は扉を開け、熱を帯びたパーカーを取り出した。軽い。洗う前より、ずっと軽かった。水分が抜けたからだけではないと、彼女は思った。

「どうする」

老人が訊く。

「持って帰ります」

「まだ着る?」

「いいえ」

有紗はパーカーをきれいに畳んだ。これまで何度も洗ったのに、たぶん初めて丁寧に畳んだ。

「明日、処分します」

「そう」

「たぶん、もう大丈夫です」

老人は満足そうでも残念そうでもない顔で頷いた。それが妙によかった。慰めるでも励ますでもなく、ただ、そうなんだね、と受け取るだけの顔。

有紗は他の洗濯物も乾燥機から出し、かごに入れていく。タオルはふくらみ、仕事用のパンツは温かく、カーディガンには洗剤の控えめな匂いが残っている。毎日使うものたちが、ちゃんと毎日に戻っていく感じがした。

「あなたは何を聞いたんですか」

帰り支度をしながら、有紗は尋ねた。

老人は少し考えた。

「昔のことだよ。妻のエプロンから、『塩を入れすぎても食べてくれてありがとう』と聞こえた」

有紗は思わず吹き出した。

「そんなことですか」

「そんなことだよ。でも、それを言われた覚えがなかった」

「言えなかったんですかね」

「たぶんね。私はうまいしか言わなかったから」

老人も少し笑った。笑うと、思ったより若い目をしている。

「大事なことは、立派な言葉の形をしていないことが多い」

「そうかもしれません」

「だから布に残るくらいでちょうどいいのかもな」

外が少し明るくなっていた。ガラスの向こうの空が、黒から青へ、ゆっくりほどけていく。朝焼けの手前の色だ。

有紗は洗濯かごを持ち上げた。

「また来ます」

「うん。洗うものがあるなら」

「なくても来るかもしれません」

「それもいい」

自動ドアが開く。早朝の空気はひんやりしていたが、手の中の衣類はまだ温かかった。腕に抱えると、小さな動物みたいに熱を返してくる。

店を出て数歩歩いたところで、有紗は振り返った。蛍光灯に照らされたランドリーの中で、老人はもう新聞を広げていた。けれどページはやはり、少しもめくられなかった。

家に帰ったら、母に返信をしようと思う。体調は悪くないこと。今日は少し早く起きたこと。洗濯物がよく乾いたこと。そんな、わざわざ送るほどでもないことを、ちゃんと送ろうと思う。

アパートへの坂道を上りながら、有紗はかごの上に載せた灰色のパーカーに目をやった。捨てるために持ち帰る服は、思っていたより穏やかな顔をしていた。物に顔なんてないのに、そう見える朝がある。

朝焼けが建物の窓を一枚ずつ照らしはじめる。まだ誰も完全には起きていない町で、洗い立ての匂いだけが確かだった。

有紗は胸の中で、今度こそ自分の言葉を探した。

さようなら、では少し大きすぎる。
ありがとう、だけでは少し足りない。

だから彼女は、誰にも聞こえない声で、こう言った。

「もう、しまっていいよ」

それは服に向けた言葉であり、過ぎた日々に向けた言葉でもあった。

朝の光の中で、抱えた洗濯物はきちんと軽かった。