短編
明日から鳴る電話
雨の夜ごと、まだ起きていない出来事を告げる留守番電話が、ひとり暮らしの女の明日を少しずつ削っていく。
古い留守番電話を、私は捨てそびれていた。
今どき固定電話を置いているのは、たぶんこのアパートで私くらいのものだ。母が生きていたころ、「携帯はつながらないことがあるから」と半ば強引に契約させられ、そのまま惰性で回線だけ残している。母が亡くなって三年、電話が鳴ることはほとんどなくなった。配達の確認か、たまに会社からの事務連絡があるくらいだ。
留守番電話の機械は、棚の上で黄ばんでいた。四角い、愛想のない機械だったが、赤いランプだけは妙に生き物じみて見えた。
最初のメッセージが入ったのは、六月の終わりの、ひどく湿った夜だった。
仕事から帰ると、部屋の空気が水を含んだ布のように重たく、私は玄関を閉めた途端にため息をついた。赤いランプが点いているのに気づいたのは、靴を脱ぎ終えたときだった。珍しい、と思って再生ボタンを押した。
ザーッという雨音のような雑音のあと、女の声がした。
『傘、持っていきなさい』
母の声に、よく似ていた。
私はしばらく動けなかった。声だけなら、きっと似た誰かだと思えたかもしれない。でも、その言い方が母だった。叱るほどでもなく、心配しすぎるほどでもない、いつもの、少し呆れたような響き。
機械はそれだけ再生して止まった。発信元は「非通知」。
気味が悪くて、すぐに保存を消した。いたずらにしては趣味が悪い。そう思ったが、翌朝、晴れていた空は昼過ぎから急に崩れた。私は傘を持たずに出ていて、退勤時には駅前で立ち尽くすしかなかった。強い雨のなかをコンビニまで走ったが、膝から下はずぶ濡れになった。
ただの偶然だ、とそのときは思った。
二度目は、三日後だった。
帰宅するとまたランプが点いていた。再生すると、やはり雑音のあとで声がした。
『牛乳、まだ飲まないで』
私は冷蔵庫を見た。朝、賞味期限ぎりぎりの紙パックを一本開けていた。変な悪戯だと思いながらも、なんとなく気になって匂いを嗅ぐと、わずかに酸っぱかった。口をつける前でよかった、と胸を撫で下ろした自分に、すぐ腹が立った。何を本気にしているのだろう。
三度目のメッセージで、私は偶然では済まなくなった。
『明日の朝、七時十二分、ベランダに出ないで』
機械のデジタル表示は二十二時四十分。明日のことを言っている。
その夜はろくに眠れなかった。七時十二分、という中途半端な時刻が妙に具体的で、目覚ましを六時五十分にかけ、時計を何度も見ながら朝を待った。七時十分、カーテンの隙間から外を窺うと、向かいの棟のベランダで、隣人の高校生らしい男の子が洗濯物を干していた。七時十一分。七時十二分になった途端、上の階から植木鉢が落ちた。
乾いた破裂音がして、土と白い陶器の破片が私のベランダに散った。
ほんの半歩でも外に出ていたら、と思うと背中が冷えた。
管理会社に電話し、上階の住人には謝られた。手が滑ったと言っていた。私は愛想よく応じたが、受話器を置いたあと、棚の上の機械を見上げた。赤いランプは消えている。ただのプラスチックの箱なのに、何かが息を潜めている気配がした。
それから留守番電話は、雨の夜にだけ鳴るようになった。
『明日、駅の階段は使わないで』
『その封筒は開けなくていい』
『薬は一錠だけにしなさい』
『右の道を選ばないで』
どれも短く、それ以上の説明はなかった。そしてどれも、従うと確かに避けられるものだった。駅の階段では転倒事故があり、封筒には元恋人からの結婚報告が入っていて、薬を多く飲んでいたら翌日ひどい眠気で会議を台無しにしていただろうし、右の道ではひったくりがあった。
私はだんだん、その声に逆らえなくなった。
人は、助けられることに慣れる。警告が当たるたび、私は自分の判断を少しずつ手放した。朝、着る服を選ぶときでさえ、今夜また何か言われるかもしれないと思うようになった。冷蔵庫の食材、通勤の経路、休日に出かけるかどうか。留守番電話が鳴らない日は、世界が急に不親切になったようで落ち着かなかった。
会社では、同僚の秋山に「最近ぼんやりしてる」と言われた。
「寝不足?」
「ちょっと」
本当のことを話せるわけがない。話したところで、疲れてるんだよと笑われるのが関の山だ。それでも秋山は心配そうに私を見て、「無理しないで」と缶コーヒーを机に置いていった。
その夜、雨は降らなかった。電話も鳴らなかった。
私は妙に苛立って、寝る前に何度も受話器を上げた。発信音は正常だった。機械も壊れていない。なのに静かだった。待っている自分に気づいて、ぞっとした。私は誰の声を待っているのだろう。死んだ母の声に似た、名も知らぬ誰かの声を。
翌日の帰り、秋山が駅まで一緒になった。
「送ろうか」と言われ、私は断った。けれど彼は同じ方向だからと勝手についてきた。いつもなら少し面倒に思うだけだったかもしれない。その日はなぜか、ひどく不安になった。雨雲が遠くで光っていた。胸の奥で、電話が鳴りそびれている気がした。
アパートの前で別れ際、秋山が言った。
「固定電話、まだ使ってるんだって?」
「え」
「この前、名簿見てたら載ってたから。珍しいなと思って」
どうしてそんなことを今言うのか、とっさに言葉が出なかった。秋山は気にするでもなく手を振って帰っていった。私はその背中を見送って、玄関の鍵を開けた。
赤いランプが点いていた。
再生ボタンを押す指が震えた。
雑音。長い沈黙。そして、声。
『その人を部屋に入れないで』
私はすぐに振り返った。廊下には誰もいなかった。外はもう暗くなり始めている。秋山はとっくに帰ったはずだ。いや、帰ったと思っただけで、階段の踊り場にまだ立っているかもしれない。私は覗き穴を見た。古いレンズの向こうに、廊下の蛍光灯が白く滲んでいるだけだった。
呼吸が浅くなる。自分でも馬鹿げていると思いながら、チェーンをかけ、ドアロックを二度確かめた。
数分後、インターホンが鳴った。
「佐伯さん?」
秋山の声だった。驚きすぎて、喉の奥がひりついた。
「財布、落としたかと思って。さっきの道に社員証ケースが落ちてたから」
ドアの前に、たしかに私の紺色の社員証ケースが置かれていた。私は仕事帰りに鞄へ雑に突っ込む癖がある。落としていてもおかしくない。
開けて礼を言うくらい、普通のことだ。秋山は親切で、ただそれだけだ。そう自分に言い聞かせたが、背中ではまだ留守番電話の機械が黙っている。私はドア越しに礼を言い、「今日はもう疲れてるから、ごめん」とだけ返した。
少し間があって、「そっか」と秋山は笑った。気まずそうでも怒っているふうでもなかった。足音が遠ざかっていく。私はその場に座り込み、膝を抱えた。
やがて雨が降り始めた。
遅れてきた雨音が、窓を細かく叩いた。
その夜はもう電話は鳴らなかった。
翌朝、会社で秋山の姿を見なかった。昼になっても来ず、午後には総務が慌ただしくなった。退勤前、同僚同士のひそひそ話で私は事情を知った。昨夜、駅の近くの高架下で、秋山が倒れているのが見つかったという。通り魔ではないか、と誰かが言った。財布もスマートフォンも残っていて、争った跡もほとんどなかったらしい。
私は息ができなくなった。
昨日、部屋に入れなかったから助かったのだと思った。その直後に、では秋山はどこで、何から、助からなかったのだろうと考えてしまった。もし私がドアを開けていれば。少し話して、コーヒーでも出して、雨が弱まるまで引き止めていれば。そんな仮定が、遅れて胸を刺した。
その晩は大雨だった。
私は帰宅すると、靴も脱がずに留守番電話の前へ行った。ランプは赤く点滅していた。再生ボタンを押す。
雑音の向こうで、受話器に触れるような微かな音がした。誰かの息遣い。次に聞こえた声は、母の声ではなかった。
私の声だった。
『明日は、電話に出ないで』
全身が固まった。録音の日付表示は今日の時刻を示している。意味がわからない。わからないのに、喉の奥だけが先に理解して冷えた。
私は受話器を持ち上げた。発信音は鳴っている。思わず自分の携帯をかけようとして、やめた。何に確かめればいいのかもわからない。明日、電話に出ないで。固定電話か。携帯か。誰からの電話か。そこまでは告げられていない。
翌日、私は会社を休んだ。窓の外では昨夜の雨が嘘のように晴れていた。固定電話のコンセントを抜き、携帯は電源を切って引き出しにしまった。世界から自分の回線だけを切り離したようで、少し安心した。
午後一時すぎ、玄関がノックされた。
宅配便だった。不在票を入れます、と若い男の声がする。私は息を潜めたまま動かなかった。やがて足音は遠ざかる。
夕方、またノックがあった。
「佐伯さん、いますか」
今度は管理会社の女の声だった。上の階の件で書類の確認があるという。私は返事をしなかった。ドアの向こうで何か紙をめくる音がし、しばらくして静かになった。
夜の七時を過ぎたころ、部屋は急に冷えてきた。窓は閉めているのに、どこか隙間が開いたようだった。気づくと、コンセントを抜いたはずの留守番電話の赤いランプが点いていた。
鳴っていないのに、機械のスピーカーから微かな呼び出し音が漏れている。
私は立ち上がれなかった。呼び出し音は一度、二度、三度と鳴った。出ない。明日は電話に出ないで、と昨日の私の声が言った。今日はもう明日ではないのだろうか、と、そんなことを考えた。
四度目の呼び出しのあと、機械が勝手に再生を始めた。
ザーッという雨音。誰かの荒い息。震えた私の声。
『もしもし、私です。たぶん、まだ間に合う。明日の夜、管理会社の人が来ても、絶対に開けないで。声は似せられる。あと——』
そこで録音は唐突に途切れた。
部屋のインターホンが鳴った。
私は泣きそうになりながら覗き穴を見た。廊下に立っていたのは、管理会社の名札を下げた女だった。髪が濡れている。外は降っていないのに、肩から水滴が落ちていた。
「佐伯さん、先日の件で」
低く、柔らかい声だった。母の声に、少しだけ似ていた。
私はドアから後ずさった。廊下の気配は静かなのに、足元だけがじわじわと濡れていく。見下ろすと、留守番電話の機械の下から細い水がこぼれ、床を伝っていた。黒いコードをつたい、棚の縁から一滴ずつ落ちている。
機械の表示部に、見たことのない文字が浮かんでいた。
メッセージ ノコリ 1ケン
インターホンがもう一度鳴る。
「開けて」
今度は、はっきり母の声だった。
私は耳を塞いだ。けれど次に聞こえてきたのはドアの外ではなく、留守番電話のスピーカーの中からだった。
『早くしないと、明日のあなたがまた電話をかけてくる』
赤いランプが、濡れた瞼みたいに明滅した。