短編
新しい実家
家族で越してきた古い家。そこには“前の住人”が、まだ住んでいた。
「ほら、見て。やっぱり庭も広いし、風通しもいいわよ」
母がそう言って、うれしそうに玄関の鍵を開けた。
父の転勤で、郊外の古い家に引っ越してきたのは、梅雨の入り口だった。
築50年の日本家屋。どこか懐かしくもあり、湿っぽくもあり。
不動産屋の話では、「ずっと空き家だった」そうだが、家の中は妙に整っていた。
座敷には座布団が並び、仏壇には花が供えられていた。
誰かが住んでいた“気配”だけが、確かに残っていた。
引越し初日、妹が二階の部屋でこう言った。
「ねえ、お兄ちゃん。壁の中から、声が聞こえるよ」
最初は相手にしなかった。けれど夜になると、僕にも聞こえた。
障子の向こう、誰もいないはずの廊下を、何かが歩く音。
こつ、こつ、こつ……ぴたりと止まり、ふすまの前で動かなくなる。
朝になると、廊下に水の跡が残っていた。
数日後、母がふと言った。
「この家、どこかで見たことある気がするのよね」
「前にも来たことがあるような……そんな感じがして」
父もまた、「なんだか妙に落ち着く」と言った。
妹は以前よりもよく笑うようになった。
でも、それは“僕の知っている家族”ではなかった。
夜中、ふすまの向こうに立っているのは母の姿をした“誰か”。
笑っている。でも目が笑っていない。
「もう、ここがうちなんだから」
「ずっと一緒にいられるわよね」
僕は自分の部屋で、押し入れの奥に古いアルバムを見つけた。
ページをめくると、そこにはこの家と、知らない家族の写真が並んでいた。
母、父、妹、そして――僕にそっくりな少年。
彼の目だけが、真っ黒に塗りつぶされていた。
背筋が凍った。
最後のページには、こう書かれていた。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
気づけば、母たちは“その写真の家族”と同じ服を着ていた。
そして今日、僕の服も同じ柄に変わっていた。
部屋の鏡を見ると、自分の顔が少しずつ別人になっている気がする。
声も、手も、思い出す記憶さえも、少しずつ“誰かのもの”に上書きされていく。
ここはもう、新しい家なんかじゃない。
ずっと昔から僕たちは、この家に住んでいた――そう、“思い出させられている”。
でも、たった一人、思い出せていない人間がいる。
それは、この家を“借りた”はずの僕だ。
今日、妹が耳元でこうささやいた。
「もう、前のお兄ちゃんは出ていったから……次は、あなた」