短編
当たりでもう一本の言い訳
昼休みのたびに自販機で当たりを引く無口な青年と、そのたびに炭酸水を押しつけられる女性が、妙な気まずさの末に少しずつ距離を縮めていく。
会社の裏手にある自販機は、妙に運がいい。
正確には、自販機そのものではなく、その前に立つ男が妙に運がいい。
「また?」
昼休み、財布と社員証だけ持って外に出た真琴は、思わず声に出していた。
自販機の前には、今日もあの人がいる。隣のビルに入っているデザイン事務所の社員らしい。背が高くて、いつも白いシャツの袖を肘まできっちり折っていて、缶コーヒーではなく炭酸水を買う、少し変わった人だ。
そして買うたびに、よく当たる。
ぴろん、と軽い電子音が鳴って、液晶に「もう一本」の文字が出る。
男は硬直した。真琴も硬直した。たぶん自販機だけが平常心だった。
男は一本目の炭酸水を取り、二本目を見つめ、それからゆっくり真琴を振り向いた。
「……あの」
「いりません」
「まだ何も言ってません」
「たぶん炭酸水を勧められるので」
「その通りです」
真琴は額を押さえた。
一週間前から、これが三回目だった。
最初は偶然だと思った。二度目は気まずい親切だと思った。三度目の今日は、さすがに少しだけ腹が立つ。
「どうして私にくれるんですか」
「余るので」
「毎回?」
「はい」
「学習してください」
「しました」
「してないです」
「今日は最初から二本持って帰る覚悟で来ました」
「覚悟の使い方が違う」
男は困ったように眉を下げた。その表情が妙に素直で、真琴は怒りきれなくなる。
「飲まないなら、事務所に持って帰ればいいじゃないですか」
「冷蔵庫に炭酸水が八本あります」
「それはもう業務用です」
「しかも全部、当たり分です」
「そんなことあります?」
男はほんの少し考えてから、真顔で言った。
「僕にもわかりません。自販機に好かれています」
「その言い方、ちょっと腹立つなあ」
結局その日も、真琴は炭酸水を一本受け取った。負けた気がした。
受け取るとき、男が「ありがとうございます」と言ったのもよくなかった。押しつけている側なのに、どうして感謝されるのか。
その日の午後、真琴はデスクで缶を見つめながら、同期の沙耶に事情を話した。
「それ、好かれてるんじゃない?」
「なんでそうなるの」
「昼休みのたびに待ち伏せされて、当たった炭酸水を渡されるんでしょ」
「待ち伏せかどうかは知らない」
「炭酸水越しの求愛だよ」
「嫌すぎる表現やめて」
「でも、嫌なら受け取らなきゃいいじゃん」
「毎回あの顔するんだもん」
真琴はつい、両眉を下げて申し訳なさそうな顔を真似した。
沙耶は箸を止めた。
「真琴、今ちょっとかわいかった」
「私じゃなくてあの人が?」
「うん。だいぶ効いてるね」
「効いてない」
言い返したものの、その日の帰り道、真琴は自販機の前を通るとつい見てしまった。誰もいない。なのに液晶だけがやけに涼しい顔で光っている。
翌日から、真琴は自分でも嫌になるくらい、その男を気にするようになった。
名前も知らないくせに、今日はいるかなと思う。
いたらいたで、当たるなよと思う。
当たったら当たったで、少しおかしくなる。
四日後、真琴が珍しく早めに昼に出ると、男はもう自販機の前にいた。珍しく缶コーヒーを持っている。
真琴はなんとなく足を止めた。
「今日は炭酸水じゃないんですね」
男がびくっと肩を揺らした。こちらに気づいていなかったらしい。
「……はい」
「当たりました?」
「いいえ」
「じゃあ平和ですね」
「たぶん」
気まずい沈黙が落ちる。缶コーヒーのプルタブより薄い沈黙だった。
真琴は自分でも不思議なことに、その沈黙を捨てずに拾った。
「炭酸水、飽きました?」
「いえ。今日は、もし会えなかったときのために」
「誰に?」
「……」
「そこ黙ると急に怖いんですけど」
男は缶コーヒーを握ったまま、観念したように息を吐いた。
「あなたにです」
「なんで缶コーヒーを?」
「炭酸水は、たぶんもう迷惑なので」
「そこはちゃんと学習したんだ」
「ただ、何も渡せないのも変かなと」
「渡す前提なんだ」
「すみません」
そこで真琴は、ようやく気づいた。
この人は運がいいんじゃない。
たぶん、運に頼らないと話しかけられないのだ。
当たりが出れば口実になる。一本余るから渡せる。会話ができる。そう思って、昼休みのたびに自販機に立っていたのかもしれない。
自販機頼みの人見知り。情けないようで、ちょっとだけかわいい。
「名前、聞いてもいいですか」
真琴が言うと、男は目を丸くした。
「小坂です」
「私は朝倉真琴」
「知ってます」
「えっ」
「社員証、首から下げてるので」
「最悪だ」
「すみません」
「いや、最悪なのは私の警戒心の低さかも」
小坂は初めて、少しだけ笑った。大げさでない、控えめな笑い方だった。
真琴はその笑い方を見て、なんだ、普通に笑える人なんじゃないかと思った。思った直後、少し悔しくなった。もっと早く笑ってくれれば、炭酸水を三本も飲まずに済んだのに。
「じゃあ、小坂さん」
「はい」
「今日は当たりが出てないので、代わりに一個だけ質問していいですか」
「どうぞ」
「私に話しかけたかったんですか」
「はい」
「どうして」
「最初に見たとき、釣り銭口に五十円玉を忘れてました」
「うわ」
「追いかけて渡したら、ものすごく丁寧にお礼を言われたので」
「それだけ?」
「それで十分でした」
真琴は少しだけ黙った。
春でもないのに、風がやわらかかった。裏手の搬入口から台車の音がして、遠くで誰かが笑っている。昼休みの終わりが近い、慌ただしいだけのはずの時間なのに、そこだけ妙に輪郭がはっきりしていた。
「それで、自販機に通い詰めたんですか」
「はい」
「ずいぶん不器用ですね」
「自覚はあります」
「しかもくじ運だけはいい」
「そこだけは本当に納得してません」
「私はちょっと納得してる」
「なぜですか」
「そうでもないと、小坂さん、たぶん一生話しかけられなかったでしょ」
小坂は否定しなかった。
真琴は笑って、財布から百円玉を取り出した。
「一本、奢ってください」
「え」
「違う、買ってくださいじゃなくて、選んでください」
「責任重大ですね」
「今まで三本も押しつけてきた人の台詞とは思えない」
小坂は真剣な顔でボタンを見比べた。炭酸水の列で指が止まり、気まずそうに横へずれる。真琴はたまらず吹き出した。
「そんなに避けなくていいです。嫌いになったわけじゃないので」
「本当ですか」
「ただ、四本目は告白みたいで恥ずかしいだけです」
「……」
小坂の耳が見る見る赤くなる。
しまった、と思ったときには遅かった。真琴のほうまで熱くなる。
気まずい。けれど今度の気まずさは、前よりずっと悪くない。
小坂は無言で、炭酸水の隣のレモネードを押した。缶が落ちる軽い音がして、二人そろって取り出し口を見た。
ぴろん、とまた電子音が鳴る。
液晶に「もう一本」。
真琴は数秒黙ってから、天を仰いだ。
「ほんとに好かれてるじゃないですか、自販機に」
「僕もそう思い始めました」
「で、これどうするんです」
「……一本は、朝倉さんに」
「もう一本は?」
「もしよければ、一緒に飲んでもらえますか」
真琴は笑った。
自販機越しに始まる恋なんて、もう少しましな言い訳があってもよさそうなのに、たぶんこの人にはこれくらいがちょうどいい。
「昼休み、あと八分あります」
「はい」
「その間だけなら」
「十分です」
小坂が取り出した二本目は、結局また炭酸水だった。
「そこは学習してないんだ」
「好きなものを選びました」
「正直」
「はい」
「じゃあ仕方ないですね」
真琴はレモネードの缶を軽く掲げた。
小坂も少し遅れて炭酸水を掲げる。
乾いた音で缶が触れ合って、その瞬間だけ、自販機の前が妙に華やいで見えた。
たぶん当たったのは炭酸水じゃない。
でもそれを口に出すには、まだ昼休みが少し短すぎた。