短編
借りた雨声
声を失った女が雨音を録るうちに、亡き母に似た声を持つ見知らぬ老人と出会い、自分の言葉を取り戻していく短編。
その町の図書館には、雨の日だけ開く窓があった。
古い建物だから、という説明を職員はする。湿気で木枠がゆるむのだと言われれば、たしかにそうかもしれない。けれど三階の視聴覚室のいちばん奥、録音資料の棚の横にあるその窓は、晴れの日にどれだけ力をこめても動かず、雨の気配が濃くなると、内側から誰かがそっと指をかけたように、すべるように開いた。
真白はその窓のそばで、雨の音を録る仕事をしていた。正確には仕事ではない。非常勤で図書館の録音資料を整理するかたわら、廃棄されるはずだった小型レコーダーを借りて、窓辺の音を集めているだけだ。庇を打つ高い粒、街路樹の葉を撫でる低いざわめき、傘の群れが交差点を渡るときのやわらかな衝突音。ファイル名をつけ、日付を書き、短い感想を添えて保存する。
六月十二日、午後四時十分、南風、駅前は少し苛立っている雨。
七月一日、午前十時三分、細い雨。開館前の静けさに、遠くの踏切が薄く混ざる。
そんなふうに。
真白は半年前から、ほとんど人前で話していなかった。喉が悪いわけではない。声帯にも異常はないと医者は言った。では何が悪いのかと訊かれても、説明できる言葉がなかった。母の葬儀のあと、一度だけ大きな声を出した。火葬場から戻る車の中で、助手席の窓に映る自分の顔がひどく知らないものに見えて、真白は運転席の兄に向かって何か言おうとした。そのとき声が、自分の中で紙みたいに折れてしまった。以後、必要があれば小さな声で最低限を伝え、それ以上は口を閉じた。
話さなくても暮らしは思いのほか進んだ。買い物はできる。仕事も、要点だけなら紙に書けばいい。誰も真白の沈黙の深さまでは確かめない。人は案外、そこまで他人の声を必要としていない。
けれど雨の音だけは違った。音は誰にも説明を求めなかったし、うまく話せない日にも、同じ高さから降ってきた。真白はイヤホンでそれを聴き返すたび、世界がまだ自分を拒んでいない気がした。
九月の終わり、閉館まで一時間を切ったころ、一人の老人が視聴覚室に入ってきた。
薄い灰色のレインコートを脱ぎ、丁寧に畳んで腕にかけている。髪は真っ白で、耳のうしろが少し濡れていた。老人は録音資料の棚をひととおり眺めたあと、真白の机の前で立ち止まった。
「雨の音を、探しているんです」
その声に、真白は顔を上げた。
母に似ていた。まったく同じではない。年齢も、響きも違う。だが、言葉の終わりが少しだけ微笑むように下がるところが、あまりに似ていた。
真白は咄嗟に返事ができず、メモ帳を引き寄せた。
《どんな雨ですか》
老人はその字を読んで、少し考えた。
「帰れなかった日の雨です」
困ったことを言う人だ、と真白は思った。図書館には分類がある。音楽、朗読、郷土資料、環境音。帰れなかった日の雨、という棚はない。
だが老人は冗談めかすでもなく、静かに続けた。
「五十年くらい前、駅でね。傘を持たずにいて、改札の向こうにいた人を呼べなかった。名前を呼べば済んだんでしょうが、そのころの私は、そういうことがあまり得意じゃなかった。結局、その人は振り向かず、私は濡れて帰った。ずっと、そのときの雨の音がどんなだったか思い出せないんです」
真白はレコーダーに目をやった。机の端に置いたそれは、赤いランプを消したまま、黙っている。
《どうして今、思い出したいんですか》
「もう忘れてもいい歳になって、逆に、ちゃんと思い出しておきたくなったんでしょうね」
老人は笑った。その笑い方まで、少しだけ母に似ていて、真白は胸の奥に薄い針を感じた。
その日、真白は今まで録った雨音をいくつか再生してみせた。庇を打つ急な夕立、舗道ににじむ長雨、夜更けの霧雨。老人は目を閉じて耳を傾けたが、どれにも首を横に振った。
「もっと、待っている感じの雨でした」
待っている感じ。
分類不可能なその言い方が、真白には妙にわかった。駅の屋根の下で、言えない名前を喉の奥にためたまま、時間だけが濡れていく。たぶん、そういう音だ。
それから老人はときどき図書館に来るようになった。名は瀬尾といった。予約した本を受け取り、視聴覚室に上がってきては、真白の録った雨を聴く。真白は相変わらずメモで応じたが、瀬尾は気にするふうもなく話した。昔、国語を教えていたこと。定年後に妻を見送り、今は駅の北側の古い団地に住んでいること。毎朝、湯を沸かす前に窓を少し開けて、空気の匂いで天気を当てること。
「外れることも多いですがね。そういう外れ方も、歳をとると悪くありません」
真白は何度か笑った。声は出なかったが、笑う感覚がまだ自分の顔に残っていたことを、そのたび確かめた。
ある夕方、瀬尾は一冊の薄い詩集を持ってきた。返却期限票が何度も貼り替えられた、古びた本だった。開いたページに鉛筆の線が引かれている。
「昔、妻が好きだった詩です。雨って、通り過ぎるものだと思っていたけれど、どこかに留まることもあるんでしょうね」
真白は頁をのぞきこんだ。そこには、失われた声は水脈のように地中を流れ、別の場所で湧き上がる、といったことが書かれていた。うますぎる比喩だと思いながら、真白はその一文を長く見つめた。
十月の終わり、予報より早く雨が来た日、瀬尾はいつもより遅く現れた。肩で息をして、レインコートの前が濃く濡れている。
「駅まで行ってきたんです」
真白は椅子を引いた。瀬尾は座ると、しばらく窓の外を見ていた。
「たぶん、思い出せそうです。あの日のこと。相手は妻じゃなかった。もっと前、妹でした。進学で遠くへ行く日で、改札の向こうにいた。私は照れくさくて、結局、名前を呼べなかった。だから戻ってきて、ずっと別の誰かの記憶だと思い込んでいたのかもしれません」
真白は胸の内で何かが静かにほどけるのを感じた。人は忘れるだけではなく、耐えるために取り違えることがある。母が亡くなった日から真白が失っていたのは、声そのものではなく、呼ぶ相手をいなくした感覚だったのかもしれない。
窓が、いつものように少し開いた。そこから入りこんだ雨の匂いは、土でも葉でもなく、古い線路の鉄に近かった。
待っている感じの雨だ、と真白は思った。
瀬尾が目を閉じる。真白はレコーダーの録音ボタンを押した。赤いランプが灯る。雨は庇を打たず、ただ空間を均等に湿らせるように降っていた。駅のホームに似た、広がりのある音だった。
「これです」
瀬尾が小さく言った。
真白はうなずこうとして、先に息を吸った。喉の奥に、長く使われなかった引き出しがある。そこに指をかけるみたいに慎重に、けれど思ったより自然に、言葉が出た。
「よかった」
自分の声は、少しかすれていた。ひどく見知らぬものでも、ひどく懐かしいものでもなく、ただ、いまここにいる自分の声だった。
瀬尾が目を開けた。驚いた顔のあとで、すぐにやわらかく笑った。その表情は母に似ていたが、母そのものではなかった。似ているからこそ、別の人間としてそこにいることが、真白にはありがたかった。
「ええ」と瀬尾は言った。「ほんとうに」
それからしばらく、二人は何も話さず雨を聴いた。録音には、遠くで電車が入線するような低い響きと、誰もいないホームを風が撫でるような隙間が残った。待っていたものが来る音ではなく、待っていた時間そのものが、ようやく形になっていく音だった。
閉館の時刻が近づき、館内放送が流れた。いつもの職員の声が、今日は少し眠そうだった。瀬尾は立ち上がり、濡れたレインコートを腕にかけた。
「その録音、名前をつけるなら何にしますか」
真白は少し考えて、メモ帳ではなく口で答えた。
「借りた雨声」
瀬尾は反芻するようにうなずいた。
「いい名前です。声はきっと、そうやって少しずつ借りながら戻るんでしょうね」
帰り際、瀬尾は階段の踊り場で振り返り、今度はためらわずに真白の名を呼んだ。初めて聞く、自分の名前の音だった。名字でも役職でもなく、誰かがただ自分をこちらへ引き寄せるための呼び方。
真白は手すりに触れたまま、「はい」と答えた。
その一言は小さかったが、三階の古い廊下をまっすぐ渡って、雨の匂いのする窓辺まで届いた。翌日もまた雨の予報が出ていた。真白は新しい録音ファイルの名前を考えながら、まだ完全ではない自分の声を、壊れものではなく道具として掌にのせるような気持ちで、ゆっくり持ち直していた。