短編一覧へ戻る

短編

防犯灯の下の男

女性専用マンションに越した会社員のもとへ、空の宅配ボックスと防犯灯の下に立つ男が毎晩現れ、守られているはずの部屋の内側から生活が覗かれていく。

Genre
ホラー
Series
単発
#不審者#防犯灯#宅配ボックス#管理人

引っ越し先にそのマンションを選んだのは、入口の明るさが気に入ったからだった。

駅から少し離れているぶん夜道は静かだったけれど、建物の前には白い防犯灯がひとつあり、植え込みもエントランスも乾いたように照らしていた。オートロック、監視カメラ、宅配ボックス付き。女性専用。管理人常駐。内見のとき、桐谷という管理人は穏やかな声で「ここは安心ですよ」と言った。

私はその言葉どおりの生活を、二週間ほど信じていた。

最初の妙なことは、宅配ボックスの表示だった。

仕事を終えて帰ると、液晶に「407 受取済」と出ている。私の部屋番号だ。けれど開けても中は空で、底に細い感熱紙が一枚落ちているだけだった。

受け取りありがとうございました

印字はそれだけだった。送り主も荷物番号もない。

管理人室に持っていくと、桐谷は笑って「たまに出る誤作動です」と言った。
「この機種、古いんですよ。気にしないでください」

その晩、夕食のあとでゴミを捨てに下りたとき、防犯灯の下に男が立っているのを見た。

作業着のような紺の上着に、黒い帽子。顔はうつむいていてよく見えない。ただ、エントランスではなく、四階の私の部屋を見上げているようだった。通り過ぎる人もいない道で、男だけがじっと動かなかった。

目が合った気がして、私は駆け足で戻った。

それから毎晩、男はいた。

帰宅する時刻が少し前後しても、だいたい同じ場所にいる。手ぶらの日もあれば、茶封筒を脇に挟んでいる日もあった。エントランスに近づくことはない。声もかけてこない。ただ、防犯灯の白さに輪郭だけを浮かべて立っていた。

三日目、また宅配ボックスが空だった。

今度は感熱紙の裏に、ボールペンで小さく書き足されていた。

今日は味噌汁、しょっぱかったですね。

紙を持つ指が固まった。私はその日、たしかに味噌を入れすぎていた。一人暮らしの部屋で、誰にも見られていないはずの失敗だった。

管理人室へ行くと、桐谷は少しだけ眉を寄せた。
「悪質ないたずらですね」
「監視カメラ、見せてもらえませんか」
「もちろん」

小さなモニターには、エントランス前の映像が映った。夜の七時すぎ、私が建物に入る少し前から、あの男が防犯灯の下に現れている。けれど本当にそれだけだった。男は敷地の線を越えず、インターホンにも触れず、十分ほど立って去っていく。

「ね、入ってきていないでしょう」
桐谷はやわらかく言った。
「戸締まりだけ気をつけてください。知らない人がいても、絶対に話さないように」

その言い方が、妙に具体的だった。

次の日、私はわざと少し早く帰った。外階段を上がる途中、二階の踊り場で誰かが下から駆け上がってくる気配がした。振り向くと、あの男だった。

思わず息を呑むと、男は私から二段ぶん距離を取ったまま、低い声で言った。

「管理人を信用しないで」
「……何ですか」
「407の箱、開けてるのはあの人だ。中を見るな。部屋の上を見ろ」

茶封筒を差し出された瞬間、私は悲鳴を上げた。買い物袋が落ち、卵のパックが階段で割れた。すぐに上から足音がして、桐谷が顔を出した。

「どうしました!」

その途端、男は逃げるように階段を下りた。桐谷は私の肩に手を置き、「だから言ったでしょう」と囁いた。手のひらが、驚くほど冷たかった。

部屋に戻ってから、散らばった荷物を拾っていると、エコバッグの底に茶封筒が入っているのに気づいた。階段で押し込まれたのだと分かったとき、開けるのをためらった。けれどその晩、宅配ボックスにはまた紙が入っていた。

卵焼き、焦がしましたね。火を弱くしたほうがいい。

私はまだ夕食を作っていなかった。帰宅してから着替えもせず、封筒を見つけて、しばらく床に座り込んでいたのに。

震える手で茶封筒を開けた。

中には数枚のコピーが入っていた。管理会社宛の苦情書だった。差出人は、去年まで407号室に住んでいた女性の名前になっている。

《留守中に室内の物の位置が変わっている》
《宅配ボックスに空の受取票が入る》
《台所に立っていると、上から見られている気がする》
《管理人さん以外に合鍵を持っている人がいるのではないか》

最後の一枚だけ、手書きのメモが挟まっていた。

クローゼットの天井板。持ち上がる。

私は玄関も見ず、寝室のクローゼットへ行った。上段の棚板に椅子を寄せて乗ると、天井の隅に薄い板があり、指先がかかった。押し上げると、軽く持ち上がった。

暗い隙間の奥に、ものが詰め込まれていた。

感熱紙の束。
部屋番号を書いた小さな鍵札。
私の部屋の合鍵。
そして、台所のほうを向けた超小型のカメラと、日付入りのノート。

ノートの最新のページには、今日の時刻が並んでいた。

18:42 帰宅
18:47 階段で接触あり
19:10 封筒確認せず
19:26 まだ料理しない

そこで文字が途切れていた。私は喉の奥から変な音を漏らし、ようやくスマートフォンを握った。110を押した直後、玄関の鍵が静かに回る音がした。

一度。
二度。

開かなかった。チェーンを掛けていたからだ。

「矢野さん」
ドアの向こうで桐谷が言った。
「宅配ボックスの件、直りましたよ。少しだけ開けてもらえますか」

返事ができなかった。耳の奥で血が鳴る。通話先の警察官が何か言っているのに、言葉が入ってこない。

そのとき、玄関ではなく、クローゼットの上から小さな擦れる音がした。

私は見上げた。開けた天井板の向こう、暗い隙間に、何かが引っ込む気配があった。桐谷はドアの前にいる。なのに、上にも誰かいる。

叫んだ瞬間、外が騒がしくなった。重い足音、男の声、短い怒鳴り声。ドアの前で桐谷が何かを言い返し、金属がぶつかる音がした。

どれくらいしてからチェーンを外したのか、もう覚えていない。

警察が室内を調べ、天井裏から機材と鍵束を回収し、桐谷を連れていった。私は毛布を掛けられたまま廊下に座っていた。何人かの住人が泣いていた。誰も、あの管理人を疑っていなかった。

若い警官が私に確認した。
「最初に異変を知らせた男性、お知り合いですか。通報の直前、外でこちらに手を振っていた人がいたそうなんですが」

私は首を振った。

防犯灯の下を見た。白い輪の中には誰もいない。ただ、宅配ボックスの投函口がほんの少しだけ開いていた。

帰る前に、私は最後にそこを開けた。

中は空だった。底に感熱紙が一枚だけ落ちている。

受け取りありがとうございました

裏返すと、薄く消えかけた字でこう書いてあった。

今夜は、間に合った。