短編一覧へ戻る

短編

夕暮れのカード目録

閉館を控えた図書館で古いカード目録を整理していた女性は、忘れていたはずの父の記憶に、思いがけない形で触れる。

Genre
現代幻想
Series
単発
#図書館#記憶#家族#喪失#再生

市立みなせ図書館は、その年の終わりで閉館することになっていた。

新しい複合施設に機能を移すためだと市は説明したが、利用者の多くは「なくなる」としか受け取らなかった。古い木の机、曇った窓、雨の日に少し膨らむ床板、返却口のそばにいつも漂っていた紙と埃の匂い。そういうものは、移転では運べない。

私は閉館前の三か月だけ、整理作業のアルバイトとして雇われた。除籍本の仕分けや、古い備品の台帳作り。いちばん手間がかかったのは、もう十年以上使われていないカード目録の処分準備だった。

検索機が入ってから、引き出しの木箱は閲覧室の隅で静かに飾りのようになっていた。小さな真鍮の取っ手に指をかけて引くと、紙の擦れる乾いた音がする。私はその音が好きだった。ページをめくる音より慎ましくて、でもたしかに何かを探している音だった。

「目録カード、最後に一度だけ中を見ておく人がいるんですよ」

館長の蓮見さんがそう言ったのは、十月の薄い夕方だった。

「検索じゃなくて、あれを引いて探したいって。探すというより、たどりたいのかもしれませんね」

私は曖昧に笑った。たどりたいものなんて、自分にはないと思っていた。

父が亡くなって四年になる。生きていた最後の二年、父は少しずつ私を取り違えた。名前を間違え、年齢を間違え、ついには私を自分の妹だと言った。私は怒り、訂正し、疲れた。病気だから仕方ないと頭では理解していても、忘れられるたび、小さく削られるような気がした。

だから父の遺品の整理は早かった。服も手帳も、古い写真も大半は処分した。残しても、こちらが苦しくなるだけだと思った。忘れるのではなく、先に片づけてしまおうとしたのだ。

目録の引き出しには、図書の情報だけでなく、ところどころ利用者用の旧式なリクエストカードが紛れていた。今はデータで管理しているが、昔は紙で受けていたらしい。私はそれらを抜き取り、箱に分けていた。

その日の最後の引き出しで、一枚のカードに手が止まった。

本の請求記号ではなく、題名欄にだけ文字がある。

『雪明りの辞典』

著者名は空白。出版社も空白。代わりに備考欄へ、万年筆の少し掠れた字でこう書かれていた。

――娘の声は、鈴ではない。買い物帰りに紙袋の口を開くときの、あの乾いた音に似ている。

私はしばらく、その一文の意味が飲み込めなかった。

リクエストカードの体裁なのに、本を探している文ではない。誰かが冗談で書いた走り書きにも見えた。けれど筆跡に見覚えがあった。父の字だった。几帳面なくせに、少しだけ右上がりになる癖。漢字のはらいの弱さ。会社員だった頃、家の伝言メモによく残っていたあの字。

思わずカードの裏を返すと、受付日が押されていた。七年前の一月。父がまだ一人で図書館に来られていた頃だ。

閉館作業のため、人のいなくなった閲覧室はひどく静かだった。窓の外では街路樹が風にこすれ、乾いた葉が何枚も転がっていく。私はカードを持ったまま、木箱の前に立ち尽くした。

父は晩年、私のことをよく間違えた。けれどその前から、物の名前を思い出せないことが増えていた。炊飯器を「白い箱」と言い、改札を「切符を食べる口」と呼んだ。私はそのたび苛立った。正しい名前を言って、父に言い直させた。そんな比喩で済ませないで、と。

けれどカードの一文を見ていると、あれはただの取り違えではなかったのかもしれないと思えてくる。名前が落ちても、感触だけが残ることがある。紙袋の口を開くときの、あの短く乾いた音。たしかに私の笑い声は少しそれに似ていた。高校生の頃、父にそう言われて腹を立てたことがある。変な例えだね、と吐き捨てた。父は困ったように笑って、それ以上何も言わなかった。

「見つかりましたか」

いつのまにか蓮見さんが背後にいた。私は驚いてカードを少し握りしめた。

「これ、父の字なんです」

蓮見さんはカードをのぞき込み、声を抑えて「そう」とだけ言った。

「この図書館、昔はね、見つからない本の代わりに、見つけたい言葉を書く人がたまにいたんです。もちろん本来の使い方じゃないけれど、当時の司書が捨てられなくて」

「じゃあ、これも」

「ええ。たぶん、探していたんでしょうね。言葉を」

窓の外の光がさらに薄くなり、カードの白が青みを帯びた。私はようやく椅子に座った。木がきしむ小さな音がした。

父は私を忘れていった。そう思っていた。けれど本当は、名前という扉をなくして、別の入口から私を見ていたのかもしれない。紙袋の口。雨の日に傘をたたむ音。湯のみを置くときの、控えめな触れ方。父の記憶の中で、私はそんな断片になって残っていたのだろうか。

それは少し悲しく、少し救いだった。

正確に覚えられていないことと、何も残っていないことは、同じではない。

私はカードを返却箱に入れず、処分保留の封筒へそっと移した。規則からいえば私物化に近いのだろうが、蓮見さんは何も言わなかった。代わりに、目録箱のいちばん下の引き出しを開けて見せた。

中には、行き場を失ったカードが何十枚も眠っていた。

「閉館したら、たぶん紙屑になります。でも、その前に写しておくくらいならできる」

私は頷いた。

その夜、閉館後の図書館で、私は一枚ずつカードを書き写した。知らない誰かの、探していた匂い。失くした駅名。もう呼ばれなくなったあだ名。誰かに返せなかった一冊の本への謝罪。どれも本の題名ではなく、その人のなかでまだ題名になれずにいるものばかりだった。

父のカードは最後に写した。

――娘の声は、鈴ではない。買い物帰りに紙袋の口を開くときの、あの乾いた音に似ている。

書き写してみると、その文は思ったよりやさしかった。少なくとも、私を誰かと取り違えた人の文には見えなかった。むしろ、言い当てようとして、どうにか辿り着いた言葉のように見えた。

図書館を出ると、冬の入口の冷たい風が頬を撫でた。商店街で夕飯の買い物をして帰る人たちが、薄いビニール袋を提げてすれ違っていく。ひとりの女性が袋の口を開いた。ぱり、と小さな音がした。

私は思わず笑った。

その音はたしかに鈴ではなく、けれど呼ばれた気がした。名前ではない仕方で、それでも確かに私へ届く呼びかけだった。

図書館はもうすぐなくなる。木の引き出しも、古いカードも、きっと処分される。けれど、目録というものは本当は、本の場所だけを示すものではなかったのかもしれない。失くしやすいものに、仮の名前を与えて、また辿り着けるようにしておく。そのためのものだったのだ。

帰宅して、私は写してきた紙を机の上に置いた。そして父のカードの隣に、新しい一枚を作った。

題名欄に、静かに書く。

『夕暮れのカード目録』

備考欄には、少し迷ってから、こう記した。

――忘れられたのではなく、別の言葉で覚えられていたと知る、冬の前の夕方。

そのカードをどこへ差し込む場所も、もうない。けれど私は、それを引き出しのない机の上に置いたまま、しばらく眺めていた。名前がなくても消えないものがあると、その紙片はようやく私に教えてくれた。