短編
地下道の水位
終電後の地下道を通るたび、壁の目盛りに見えない水位が少しずつ満ちていく。
会社を出る時間が遅くなると、真琴は駅前広場を迂回して地下道を使う。
地上より三分ほど早いだけの道だが、夜のあいだは人がいない。古い蛍光灯が一定の間隔で並び、足音が乾いて響く。広告枠は半分以上が空で、白く焼けたポスターの跡だけが残っていた。
最初にそれを見つけたのは、六月の終わりだった。
壁のタイルの継ぎ目に、赤い線が一本引いてあった。油性ペンのようにも見えたし、点検用の印のようにも見えた。線の横に小さく「ここまで」と書いてある。誰かの悪ふざけだと思って通り過ぎたが、その翌日には、同じような線が少し高い位置にもう一本増えていた。
今度は「ここまで来た」と書いてあった。
真琴は立ち止まって見た。通路の片側だけ、壁面が淡い青緑のタイルで張られている。光の加減で、水槽の内側みたいに見える場所だった。線はその青緑の壁にだけ引かれていた。
三日目には三本目の線があった。
「ひざ」
「腰」
「肩」
そう読める位置に、丁寧な字で書かれていた。
ぞっとしたのは、その文字が落書きにしてはきれいすぎたからだ。子どものいたずらでも、酔っぱらいの冗談でもない。癖の少ない、事務的な字だった。会社で回覧板に注意書きを書く人間の文字に似ていた。
その夜、通路の反対側から懐中電灯の光が近づいてきた。灰色の制服を着た警備員が巡回していた。
「あの、あそこに線がありますよね」
真琴が言うと、警備員は青緑の壁を見て、少しだけ眉を寄せた。
「毎年、梅雨の終わりごろに出るんですよ」
「消さないんですか」
「消してもまた出るんで」
淡々とした声だった。冗談を言っている顔ではない。
「何なんですか」
警備員は少し考えるように口を閉じ、それから懐中電灯で通路の床を照らした。排水溝の蓋が等間隔に並んでいる。どれも乾いている。
「ここ、昔は地下の貯水槽があった場所らしいです。工事のとき、壁を一部そのまま残したとかで」
「水漏れですか」
「だったら話は早いんですけどね」
警備員はそれ以上言わず、会釈だけして歩き去った。
真琴は背中を見送り、線を見上げた。肩の位置に引かれた赤い線は、蛍光灯の白い光を吸って、湿ったように暗く見えた。
翌日は使わないつもりだった。だが残業が続き、地上は強い雨で、結局また地下へ降りた。
通路の入口に、見たことのない貼り紙が出ていた。
――夜間点検中 壁面に触れないでください
簡単な文面なのに、なぜか読むのに時間がかかった。壁面に触れないでください。その一文だけ、字が少し滲んでいるように見えた。
青緑の壁の前まで来て、真琴は足を止めた。
赤い線は、さらに高い位置に増えていた。
「口」
「目」
「頭上」
最後の一本は、真琴が背伸びしても届かない高さにあった。そこだけ文字が乱れている。急いで書かれたような、震えた線だった。
通路は静かだった。奥の蛍光灯が一つ切れかけ、ぶつぶつと瞬いている。真琴は早足で通り過ぎようとした。そのとき、壁の向こうで何かがこすれる音がした。
ぬる、と。
水の中で布が擦れるような、鈍い音だった。
真琴は立ち止まった。耳を澄ます。もう一度、ぬる、と音がする。しかも近い。壁のすぐ裏だ。青緑のタイルの一枚一枚が、薄い膜を隔てた窓みたいに見えてくる。ありえないと思いながら、真琴は壁の中央あたりに目を凝らした。
白いものがあった。
指だった。
内側から、五本そろった指先がぺたりと押し当てられている。水に歪んだようにぼやけて、すぐに離れた。続いて別の場所にも、また指。今度は小さい。子どもの手くらいの大きさだ。さらにその横にも、もう一つ。
真琴は息を呑んだ。声が出なかった。
壁の向こうに水がある。そこに誰かいる。
そう思った瞬間、青緑の面の奥を、大きな影がゆっくり横切った。人の形ではない。細長く、体をくねらせながら進む暗いもの。水槽の主みたいな動きだった。通り過ぎざま、いくつもの手が一斉に壁へ貼りついた。
今度ははっきり見えた。どの手も、爪が異様に短かった。まるで長いこと壁を掻いて削れたみたいに。
真琴は駆け出した。足音が地下道じゅうに響く。出口まで二十メートルもないのに、やけに遠い。背後で、ぶくぶくと泡立つような音がついてくる。水がないはずの通路で、水だけが近づいてくる気配。
階段を駆け上がり、地上に飛び出したときには雨がやんでいた。振り返っても、地下道の入口はいつも通り薄暗いだけだった。
翌朝、真琴は少し迷った末に管理会社へ電話した。事情を話すと、相手は困ったように黙り込み、担当へ確認しますと言った。昼過ぎに折り返しがあった。
「昨夜、地下道で点検作業がありましたが、異常は確認されていません」
「でも壁の向こうに、人の手が」
「壁の裏は空洞ではありません。埋め戻されています」
「警備員の方にも聞きました」
「昨夜の担当は巡回していません」
真琴は何も言えなくなった。
「なお」と電話口の声が続けた。
「ご申告の壁面については、本日中に塗装処理を行います」
その日の帰り、真琴は地下道の入口まで行った。中には降りなかった。階段の上から見下ろすと、青緑の壁は灰色の塗料で雑に塗りつぶされていた。夜の蛍光灯を受けて、湿ったコンクリートみたいに光っている。
線も文字も見えない。
少しだけ安心して、踵を返しかけたとき、塗装の表面に細い筋が浮いた。
内側から、爪でなぞるみたいに。
一本、また一本。灰色の膜の下に赤いものが滲んで、見慣れた事務的な字が形になっていく。
「まだ胸まで」
真琴は動けなかった。
その下に、すぐ続けて新しい文字がゆっくり現れる。
「こんや あふれる」
階段の奥で、ぶつ、と蛍光灯が切れた。