短編
地下鉄のさわり
地下鉄のホームで子どもの声がしたら、決して振り返ってはいけない。
東京の地下鉄には、いくつかの「言ってはいけない話」がある。
そのひとつが、「○○線の終電付近、○番ホームで子どもの声が聞こえたら、絶対に振り返ってはいけない」というものだ。
都市伝説好きの大学生・智紀は、その話を聞いて以来、ずっと試してみたくて仕方なかった。
「聞こえても、無視すればいいんだろ? くだらない」
そんな軽い気持ちで、彼は深夜0時過ぎ、噂の駅へと向かった。
駅は静かだった。改札を抜け、人気のないホームでスマホをいじりながら待っていると、構内アナウンスが流れた。
「まもなく、終電がまいります。ご注意ください」
智紀はため息をつき、ベンチから立ち上がる。
そのときだった。
「……ねえ、どこ行くの?」
すぐ後ろから、小さな子どもの声がした。
ゾワッと全身に寒気が走った。鼓動が高鳴る。
……まさか、本当に?
智紀は振り返らなかった。ただ、スマホのカメラを起動し、こっそり後ろに向けて撮影した。画面に映ったのは、誰もいない空間――ではなかった。
ベンチのすぐ脇に、小さな男の子が立っていた。上下とも真っ白な服。顔は、なぜか映っていない。ただ黒く塗りつぶされたように、ぼんやりと曇っていた。
震える手でスマホをしまい、智紀は前だけを見たまま、終電が来るのを待った。
車両がホームに入ってきたとき、子どもの声がもう一度響いた。
「そっちじゃ、帰れないよ」
けれど、智紀は乗った。ドアが閉まり、電車は滑るように発車した。
車内には、他に誰もいなかった。
ひと駅、ふた駅と過ぎていく。だが、どこかおかしい。駅の名前が表示されない。車内アナウンスもない。外の景色も、ずっと真っ暗なままだ。
スマホを見ると、圏外。時刻も、ずっと0:48のまま、動かない。
背後で、小さな手が肩に触れた。
反射的に振り向いた智紀は、ようやく「それ」の顔を見た。
それは、顔ではなかった。
どこにも目も鼻も口もなく、ただぽっかりと、深い穴が空いていた。
智紀が最後に見たのは、その穴の奥で蠢く、無数の手だった。
次の日、○○線の始発が遅延した。
理由は、「車両点検のため」。
そして誰も、智紀という名の学生が昨夜あの駅にいたことを覚えていなかった。駅員も、防犯カメラも、記録には何も残っていなかった。まるで――最初から存在しなかったかのように。