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短編

弔電は留守番電話に残る

葬儀を終えた夜、回線のない留守番電話に、自分の死を悼む声がひとつずつ増えていく。

Genre
ホラー
Series
単発
#留守番電話#弔問#団地#母#予告

母の四十九日が済んだ晩、私は実家の団地から古い留守番電話を持ち帰った。

いまどき誰も使わない、灰色の、角ばった機械だった。液晶は薄く焼け、再生ボタンの三角は爪でこすられたみたいに白く擦れている。片付けを手伝ってくれていた叔母は、それを見るなり露骨に顔をしかめた。

「それ、捨てなさいよ」
「どうせ粗大ゴミに出すなら、一度中の音だけ聞いてみたいんだ。母さん、機械に弱かったから、意外な伝言が残ってるかもしれないし」
「そういう問題じゃないの。あんたのお母さん、晩年あれを嫌がってたでしょう。鳴ってないのに点滅するって」

冗談めかして言ったつもりなのに、叔母は笑わなかった。

私は一人暮らしのアパートへ戻り、食卓の端に留守番電話を置いた。電話線の差し込み口は壁にない。回線契約もしていない。けれどコンセントだけ挿すと、液晶に時刻が出た。00:00。点滅。何度設定しても、少し目を離すと00:00に戻る。

未再生メッセージ 1件。

ありえない表示に、さすがに指先が止まった。

再生ボタンを押すと、最初に低い空白のざらつきが流れ、それから、女の声がした。

『このたびは、ご愁傷さまです』

聞き覚えのない声だった。年配の、息の浅い女。定型文のように言ってから、少し黙る。その沈黙に、変な湿り気があった。

『急なことで、お気の毒に。まさか、あの子がねえ』

そこで切れた。

私は本体を裏返し、電池蓋を開け、カセットでも隠れているのではないかと確かめた。何もない。ただ、母が油性ペンで書いた小さな字が底に残っていた。

──夜は出ないこと。

母の字は、急ぐと最後の払いが弱くなる。その癖までそのままで、変に胸が詰まった。書いた理由を訊ける相手はもういない。

翌朝、機械はまた点滅していた。

未再生メッセージ 2件。

一件目は昨夜と同じ女だった。

『ちゃんとお花は白で揃えるからね』

二件目は、男の声だった。鼻にかかった、愛想のいい声。

『通夜は何時からですか。仕事、少し早退して向かいます』

私は再生を止めた。自分でも、止める判断が遅かったと思う。普通ならその時点で捨てるか、叩き壊すかしていたはずだ。けれど母の死後、部屋に残ったものを処分するたび、自分の手で二度目の別れを作っているような気がして、どうにも勢いがつかなかった。気味が悪い。だからこそ、手放す前に理由がほしかった。

三日目には五件になった。

『受付、誰が立つの』
『あの子、ひとりだから香典返しは簡素でいいでしょう』
『部屋が狭いと、お線香の煙がこもるねえ』

どの声も、私を知っているようで、肝心な名前だけを言わない。まるで死者の名にふれるのは失礼だとでも思っているみたいに、誰もそこを避ける。避けられている空白の位置に、私の名前がぴたりとはまることを、私は三日目の夜には理解していた。

会社で居眠りをして、帰宅途中に塩を買った。自分でも安っぽい対処だと思ったが、しないよりましな気がした。玄関と窓辺と留守番電話の周りに、細く白い線を引いた。誰に見せるでもないのに、丁寧に。終えてから本体を眺めると、灰色の機械は小さな祭壇みたいに見えた。

その夜、はじめて本当に音が鳴った。

ジリ、ジリ、と古いベルの音が、部屋の中央で鳴った。

私は凍りついた。回線のない機械が鳴るはずはない。けれど鳴っている。ジリ、ジリ。遠慮のない、昔の電話の音。塩の線の内側で、留守番電話だけが震えている。

私は出なかった。

母の字を思い出したからだ。夜は出ないこと。

ベルが五回鳴って止み、自動で録音が始まった。赤いランプが明滅し、私は食卓から一歩も近づけないまま、機械が相手の言葉を飲みこむのを見ていた。

再生したのは、夜が明けてからだった。

最初に、私の部屋の生活音が入っていた。冷蔵庫の唸り、遠くの車、窓ガラスの鳴る音。つまり本当に昨夜、ここで録音されたのだ。そのあと、女の声がした。

『もしもし』

母だった。

思わず停止ボタンを押しそうになって、押せなかった。

『聞こえてるなら返事しないで。あんた、変なもの持って帰ったでしょう。でももう、捨てても遅いわ』

息を吸う音が入る。母は生前、電話だといつも少し早口になった。

『あれはね、先に来るの。亡くなった人にじゃないの。これから死ぬ人に、まわりが練習するの』

私は喉が鳴るのを、自分の音だと気づくまで時間がかかった。

『弔む声って、最初は届かないのよ。だから留守番電話に溜めるの。本人が自分で聞いて、居場所を覚えさせるの』

そこで雑音が強くなり、母の声が遠のく。

『夜は出ちゃだめ。生きてる声を返すと──』

途切れた。

その日、私は早退した。上司は顔色を見て、あっさり許した。帰りに電器店へ寄って、ドライバーを買った。もう機械ごと分解してしまおうと思った。基板が見えれば安心できる。安心の形が金属でもネジでも、とにかく見えるものならよかった。

アパートの階段を上がると、踊り場が線香くさかった。

誰かが間違えて別の階で葬儀でもしたのかと思った。だが私の部屋の前に、小さな白い花が一輪落ちていた。菊だった。新しく、水気がある。隣の佐伯さんの部屋のドアが細く開き、暗がりから片目だけが覗いた。

「昨夜、すごかったですねえ」

私は立ち尽くした。

「何がですか」
「え?」

佐伯さんは逆に戸惑った顔をした。こちらが冗談を言ったと思ったらしい。

「だって、ずいぶん遅くまでお客さんが。廊下、黒い服の人ばかりで」
「来てません」
「でも、何人も。みなさん、順番に玄関の前で頭を下げて……あれ、お身内では」

言いながら、佐伯さんの視線が私の肩越しへ滑った。振り返ると、ドア脇の表札に白い紙が挟まっていた。見覚えのない、細い筆文字。

謹んでお悔やみ申し上げます

名前は、まだ書かれていなかった。

部屋に入ると、留守番電話のランプが静かに点滅していた。未再生メッセージ 12件。増え方が、急だった。私は立ったまま再生ボタンを押した。

『お花、足りますか』
『お顔、きれいでしたか』
『最後、苦しまなかったならいいんだけど』
『若いのにねえ』

どの声も近かった。受話器の向こうではなく、薄い壁一枚隔てたところから聞こえてくるみたいに。最後のひとつで、母の声が戻った。

『まだ息してるのね。よかった』

涙が出そうになるほど、その声音はいつもの母だった。味噌汁の火を止めながら、洗濯物を畳みながら、ついでのように私を気にかけるときの声。

『じゃあ、今夜も黙ってなさい。返事をしなければ、向こうも半信半疑でいるから』

私は本体を抱き上げ、コンセントを抜いた。液晶は消えない。00:00が暗いまま浮いている。

『ただし』

母の声が続いた。電源のない機械から、続いた。

『表札だけは外しなさい。名前があると、みんなちゃんと弔いに来るから』

その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

ピンポン、ではなかった。短く湿った、押し殺した音が三回。

そのあと、廊下で誰かが小声で言った。

「こちらでお間違いないです」

私は息を止めた。返事をしなかった。靴音が、ひとつ、ふたつ、みっつ、四つ。玄関の前に揃っていく気配がする。香の匂いが、ドアの隙間からゆっくり入ってくる。

食卓の上で、留守番電話のランプだけが、心臓みたいに赤く瞬いた。

そして録音もしていないのに、新しいメッセージの件数が、13に変わった。