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短編

黄昏の未投函

配達されなかった手紙を扱う郵便局員の青年が、黄昏にだけ読める一通の便りによって、長く止まっていた母への言葉を届けに行く話。

Genre
現代幻想
Series
単発
#手紙#再会#夕暮れ#家族#喪失

雨の降る木曜日だけ、中央郵便局の地下保管室には、帳簿に載らない手紙がまぎれこんだ。

差出人不明。消印なし。切手なし。けれど封はきちんと閉じられていて、宛名だけが、まるで迷いのない筆跡で書かれている。

それを見つけるのは、返送不能郵便を整理する係の水島遼だけだった。

遼は二十九歳で、局内では「静かな人」で通っていた。仕事は正確で、昼休みはひとりでパンを食べ、雑談の輪には加わらない。愛想がないわけではないが、何かを言いかけて飲み込む癖があって、そのたびに会話の端だけが小さく欠ける。

欠けたままになっているものは、仕事以外にもあった。

母親とは七年会っていない。

父が亡くなった翌年、母は生家のある海沿いの町へ戻った。遼は東京に残った。引っ越しの日、玄関先で母が「あなたも来る?」と聞き、遼は「今は無理」とだけ答えた。本当は、無理なのが仕事のせいなのか、父を失った家から逃げたい自分の弱さのせいなのか、自分でもわからなかった。それきり会わず、年に数回、事務的な葉書だけが行き来した。

元気です。
こちらは変わりありません。

そういう、何も言っていないのとほとんど同じ文面だった。

その木曜日、保管室のいちばん奥の棚に、一通の薄いクリーム色の封筒があった。宛名欄には、こう記されていた。

水島遼様

自分宛ての、知らない手紙だった。

裏返しても差出人の名前はない。局の規定では、私的に開封してはならない。だが、返送先のない郵便物は所定の保管期間を過ぎれば処分対象になる。遼はしばらく封筒を見つめ、結局、その日の業務終了後まで机の引き出しにしまっておいた。

十九時を過ぎ、庁舎の窓が藍色に変わるころ、保管室の蛍光灯が一瞬だけ明滅した。

停電かと思って顔を上げると、引き出しの隙間から、紙の白さとは違う、ほのかな橙色が漏れていた。

遼は封筒を取り出した。糊づけされたはずの封が、なぜか軽く指先で開いた。中には便箋が一枚。けれどそこには何も書かれていなかった。

落胆しかけたとき、保管室の小窓から差した夕残りの光が紙の上をなぞり、じわりと文字が浮かびあがった。

黄昏のあいだだけ読めます。
届けたい相手がいるなら、日が沈む前に会いに行ってください。
紙はあなたの言えなかったことを映します。
ただし、書けるのは一度だけです。

遼は息を止めた。

悪質ないたずらにしては、あまりに手が込んでいる。だが文の下には、さらに、見覚えのある筆跡に似た線がにじみ始めていた。便箋の中央に、墨を含ませたように言葉が現れる。

母さんへ。
あのとき、行けなくてごめん。

遼は椅子を引いた拍子に、金属の脚が床をきしませた。自分で思っていたより、その一文は胸の深いところに沈んでいたらしい。ただ「ごめん」と言うだけのことを、七年も先延ばしにしていた。

窓の外の空は、紫から群青へと移りかけている。

今からでは海沿いの町まで行けない。そう思った瞬間、便箋の右下に新しい文字が加わった。

電話でもかまいません。
会うとは、声を届かせることです。

遼はしばらく動けなかった。母の番号は知っている。携帯電話にも登録されている。年賀状の返事に一言添えるより簡単なはずのことを、彼はなぜかもっとも難しいことのように扱ってきた。

保管室の壁の時計は十九時二十分を指していた。黄昏はもう長くない。

遼は携帯電話を出し、通話ボタンの上で親指を止めた。出なかったらどうしよう。出てしまったら何から言えばいい。そもそも急に電話をして、迷惑ではないか。

考え始めると、理由はいくらでも増える。七年間、自分はそうやって黙ってきた。

ふと、父のことを思い出した。病室の窓辺で、りんごを剥いていた母の手元を、父がじっと見ていた夕方。父はもう長い会話ができず、それでも母に向かって「うまく切るなあ」と笑った。なんでもない一言だった。だがあのとき母は、ひどく救われたような顔をしていた。

大げさな言葉でなくていいのだ、と遼はそのときようやく思った。

発信音が鳴る。

三回目で、母が出た。

「……遼?」

受話口の向こうで、波のように小さな雑音がしていた。海の近くなのだろうか、と、どうでもいいことが先に頭に浮かんだ。

「うん」
「どうしたの、珍しいね。何かあった?」
「いや。何か、っていうほどじゃ」
「そう」

会話が細い橋みたいに頼りなく揺れる。昔なら、ここで曖昧に笑って終わらせていた。

遼は机の上の便箋を見た。文字が少しずつ薄くなっていく。

「母さん」
「うん」
「あのとき、行けなくて、ごめん」

向こうでしばらく息をのむ気配があった。波の音だけが続く。切れたのかと思ったころ、母が静かに言った。

「うん」

たった一音なのに、その中に七年分の時間が入っていた。

「私もね」と母は続けた。「あのとき、急がせたと思ってた。あなた、まだあの家に父さんがいる気がしてたんでしょう」
「……たぶん」
「わかってたのに、待てなかった。ごめんね」

遼は目を閉じた。謝るためにかけた電話で、謝られてしまうのは少し困る。けれど困りながら、胸のどこかに巻きついていた固いものが、ほどけていくのがわかった。

「今、海の音がする」
「買い物の帰り。防波堤のそば」
「そっか」
「あなた、夕飯は?」
「まだ」
「相変わらず遅いのね」

その「相変わらず」に、責める響きはなかった。事実を撫でるような、やわらかな言い方だった。

「今度、そっち行くよ」と遼は言った。思いつきではなく、ようやく口から出てきた本心として。
「ほんとに?」
「うん。休み、取る」
「なら、魚のうまい店、探しておく」
「母さんが作る煮つけのほうがうまい」
「なにそれ。急に」

母は少し笑った。電話越しの笑い声は、昔より低くなっていたが、たしかに母のものだった。

通話を終えるころには、窓の外はすっかり夜だった。

机の上の便箋を見ると、文字はもう消えていた。真っ白な紙が一枚あるだけだ。遼はそれを封筒に戻し、引き出しではなく鞄の内ポケットにしまった。

翌週の木曜日、遼はまた保管室の奥の棚を見た。帳簿に載らない手紙はなかった。再来週も、その次も現れない。蛍光灯は普通に点き、窓から差す夕方の光は、ただの夕方の光だった。

それでも、あの手紙が何だったのか、遼は突き止めようと思わなかった。説明がつくと、かえって届かなくなるものがある気がした。

月末、彼は二日間の休暇を申請した。係長は申請書を見て、「珍しいな」と言ったあと、「たまには行っとけ」と判を押した。

土曜日の朝、海沿いの町へ向かう電車の窓はよく晴れていた。車内で遼は、何度も鞄の内ポケットを確かめた。例の封筒は入っている。中身は白紙だとわかっているのに、持っていきたかった。

町の駅は小さく、改札を出ると潮の匂いがした。母は迎えには来ていないと言っていたので、遼は住所を見ながら、ゆっくり坂道を歩いた。途中、八百屋の店先に夏みかんが積まれていて、その橙色が、保管室で見た夕方の光に少し似ていた。

母の家の前まで来ると、玄関の引き戸が半分開いていた。風を通しているのだろう。中から、鍋の煮える匂いがする。

遼は一度だけ深呼吸し、戸を叩いた。

「はーい」

近づいてくる足音がして、母が現れた。エプロン姿で、少し驚いた顔をし、それから、電話のときよりはっきり笑った。

「早かったね」
「電車、うまくつながった」
「そう。じゃあ、ちょうどいい。煮つけ、まだ火にかけたばかり」

遼も笑った。言うべきことが全部きれいに片づいたわけではない。これから話すことも、たぶん黙ることもあるだろう。それでも、戸口に立ったままではなく、中へ入っていけるくらいには、言葉が戻ってきていた。

鞄の中で、白紙の手紙がかすかに鳴った気がした。

もちろん、紙が音を立てるはずはない。

けれど遼は、そのありえなさを疑わなかった。届かなかったものが、届きはじめるときには、少しくらい不思議なことが起きてもいいのだと思えた。