短編
空室の留守番電話
取り壊し前の団地で空室管理を任された男が、誰もいない部屋から自分の声の留守電を受け取りはじめる。
古い団地の管理を任されたのは、夜だけだった。
昼間は解体業者が出入りし、測量の人間が歩き回る。だが夜になると、ひどく静かになる。敷地の真ん中にある街灯だけが白く灯って、四棟並んだ建物の壁を平たく照らす。その光景を初めて見たとき、私は病室がそのまま建物になったみたいだ、と思った。
住民はもうほとんど退去していた。残っているのは二世帯だけで、どちらも今月中に出る予定だった。私の仕事は巡回し、施錠を確認し、何かあれば不動産会社へ連絡すること。要するに、誰もいなくなっていく場所が、完全に誰もいなくなるまで見張る役だ。
詰所代わりの管理室には、古い固定電話が残されていた。転送も解約も面倒だから、最後まで置いておくのだと担当者は言った。留守番電話機能も生きていて、着信があれば赤いランプが点滅する。
最初のメッセージが入ったのは、勤務三日目の夜だった。
『もしもし、三〇五です。すみません、また水が落ちる音がします。上の階、もう誰もいないはずですよね』
女の声だった。若くも老いても聞こえない、曇った声。再生が終わると、機械が無機質な電子音を鳴らした。
三〇五号室は空室だった。というより、その棟はもう全室空室のはずだった。台帳を見直してもそうなっている。水が落ちる音、というのは排水管のことかもしれない。古い建物では珍しくない。私は懐中電灯を持って三号棟へ向かった。
廊下には夜気が溜まり、コンクリートが昼間の熱をわずかに残していた。三〇五の玄関ドアには、剥がし跡の残った表札受けだけがあり、鍵は確かに閉まっていた。耳を当てると、室内はしんとしている。
だが、その上の四〇五の前へ行くと、音がした。
ぽたん。
間を置いて、ぽたん。
水滴が大きめの洗面器に落ちるような、妙にはっきりした音だった。
四〇五も空室で、しかも元栓は止めてある。私は鍵束から札を探し、ドアを開けた。部屋の中は懐中電灯の輪の外からじわじわ暗く、畳は撤去され、床板だけが裸で見えている。音は奥の台所から聞こえた。
流しには何もなかった。蛇口をひねっても当然、水は出ない。なのに、耳を澄ますと、すぐ足元からぽたんと鳴る。私はシンクの下を見たが、配管は乾いていた。
帰ろうとしたとき、部屋の電話台に目が留まった。今ではほとんど見ない、小さなメモ帳が一冊置いてある。表紙に水染みが広がり、最初のページに鉛筆で「電話は三回鳴るまで待つ」と書いてあった。
誰かの置き忘れだろうと思い、私はそれを管理室へ持ち帰った。
次の夜、留守番電話のランプがまた点滅していた。
『三〇五です。昨日、来ましたよね。上の音、止まってません。電話は三回鳴るまで待ってください。そうしないと、部屋の外にいるものが先に出ますから』
私は再生ボタンから指を離した。機械がかすかに唸る。日時を確認すると、録音は昨夜の二時十七分になっている。その時間、私は四〇五にいた。
ふざけた悪戯なら感心しない。だが外線履歴には番号が残っていない。非通知とも表示されず、ただ時刻だけがある。
気味が悪くなって台帳をさらに遡ると、三〇五の最後の入居者は五年前に退去した女性だった。単身。理由の欄には「親族引取」とだけある。事故や病気の記載はない。不自然なくらい、何もなかった。
私はその夜、あえて三号棟の前で長く立った。風もなく、植え込みの葉も動かない。しばらくすると、三〇五のあたり、ベランダ側の暗がりで何か白いものが揺れた気がした。カーテンかと思ったが、空室の窓にカーテンなど残っていない。
見上げていると、管理室の固定電話が鳴った。
団地の真ん中に立っていてもわかるほど、甲高い音だった。
一回。
二回。
三回。
私は走った。鍵を鳴らしながら管理室に飛び込み、四回目が鳴る直前に受話器を取った。
「はい、管理室です」
しばらく、何も聞こえなかった。受話器の向こうは妙にひろびろとしていて、遠くで換気扇の回るようなざらついた音だけがした。
やがて女の声がした。
『今、三回目でしたよね』
昨夜の留守電と同じ声だった。
「三〇五の方ですか」
『そうです、と言うのも変ですけど』
冗談めいた言い方ではない。ただ、長く人と話していなかった人間が、会話のかたちを忘れかけているような声音だった。
「いたずらなら困ります。三〇五は空室です」
『ええ。四〇五も空室です。だから困るんです』
私は何も言えなかった。
『上から落ちる音が、だんだん近くなってるんです。前は台所だけだったのに、廊下になって、昨日は玄関の内側で鳴りました。ぽたん、ぽたんって。鍵穴のすぐ裏で』
受話器を握る手が汗ばんだ。私は思い出した。四〇五の流しの前で音を探していたとき、確かに一度、背後の玄関側で鳴った気がしたのだ。振り返ったときには、ただ暗い土間があるだけだったが。
「あなたは、誰です」
『前にいた人です』
「前って、いつの」
『もうずいぶん前。でも、出られてないんです』
息を吸う音がして、そこで初めて私は、相手が泣いていないことに気づいた。泣きそうな声ではなく、泣くことが済んだあとの声だった。
『あの部屋、電話があったでしょう。鳴るんです。最初は上から。次は部屋の中。最後は玄関の外から。それで、三回より早く出ると、外のものが先に入ってくる』
「何が入るんです」
質問をした瞬間、それがよくないとわかった。電話の向こうでしばらく沈黙があり、ざらついた音が少しずつ大きくなる。換気扇ではない。もっと湿った、擦れるような音。
『聞いたら、形になります』
女がそう言ったとき、管理室のドアが、外側からこん、と軽く鳴った。
私は全身を強張らせた。施錠はしてある。窓の外に人影はない。それでも、こん、こん、と指の背で礼儀正しく叩く音が続く。
『だから三回まで待ってください』
電話の女はひどく静かに言った。
『まだ、名前がないうちは、外にいるだけですから』
次の瞬間、ドアの郵便受けが、内側へわずかに持ち上がった。金具がきしみ、黒い隙間がひらく。その向こうには何も見えない。なのに、水滴の音だけがはっきりした。
ぽたん。
管理室の床で鳴った。
私は反射的に受話器を耳へ押しつけたまま、部屋の中央まで後ずさった。床には何も落ちていない。古い長尺シートが黄ばんでいるだけだ。だが二度目の音は、私の足元ではなく、机の下からした。
ぽたん。
『見ないで』
女の声が鋭くなった。初めて感情があった。
『見たら、自分の声を持っていかれる』
その言葉の意味を考える前に、留守番電話機の赤いランプがぱっと点いた。受話器を持って通話中のはずなのに、機械は勝手に録音を始めている。カセットが回る乾いた音がする。
こん、こん、こん。
今度は三回、続けてドアが鳴った。
私は立ち尽くした。電話口の女が何か言っていたが、聞き取れなかった。廊下でも、玄関でも、机の下でもなく、音はもう私のすぐ後ろでしていたからだ。
ぽたん。
振り返らなかったのは、勇気ではない。体がそうする前に、別の恐怖が止めたのだ。見たら終わる、と信じてしまった。私は目を閉じたまま、受話器の向こうへ向かって言った。
「どうすればいい」
女は少し黙ってから、ひどく事務的な声で答えた。
『留守電を聞いてください。今から入るのは、もう外のものじゃないから』
電話が切れた。
同時に、背後の気配も、ドアを叩く音も、水滴の音も、まとめて失せた。あまりに急に静かになったので、私は目を開けるまでに時間がかかった。
管理室には私ひとりきりだった。ドアの郵便受けは閉じている。机の下にも何もない。ただ、留守番電話のランプだけが点滅していた。
私は再生ボタンを押した。
ノイズが流れ、数秒の無音が続いた。
それから、私の声がした。
『もしもし、管理室です。すみません、また水が落ちる音がします。上の階、もう誰もいないはずですよね』
録音の中で、私はたしかにそう言っていた。
そしてそのあと、受話器を少し離したような息遣いが入り、私ではない誰かが、すぐ耳元で囁いた。
『今、三〇五です』
そこまで聞いて、私は機械を止めた。
外は白々と明けかけていた。団地の窓という窓が、朝の色を薄く映している。私は三号棟を見上げた。三〇五のベランダにだけ、カーテンが吊ってあるように見えた。汚れたレースの、半分だけ閉じたものだ。風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
その日、不動産会社には設備不良を理由に辞職を申し出た。引き留められはしたが、夜勤だけはもう無理だと言った。担当者は困った顔をしただけで、詳しくは聞かなかった。あの団地は予定通り翌月から解体に入った。
けれど昨日、知らない番号から留守番電話が入った。
私はまだ再生していない。通知の時刻は午前二時十七分。
そしてさっきから、部屋のどこでもない場所で、水の落ちる音がしている。