短編
三〇七号室の空席
古い団地に越してきた女が、存在しないはずの「空席」を部屋の中に作るよう促され、やがて自分の居場所そのものを奪われていく短編ホラー。
引っ越しの夜、最初に気づいたのは静けさだった。
昭和の終わりに建てられたらしい五階建ての団地は、駅から遠く、駐車場には歯の抜けた櫛みたいに車がまばらに停まっている。家賃の安さだけで決めた三〇七号室は、壁紙こそ張り替えられていたが、そこかしこに古い生活の癖が残っていた。窓枠の傷、台所の吊戸棚の取っ手の黄ばみ、洗面台の鏡の右下にある、小さな丸い曇り。
前の住人がどんな人だったのか、不動産屋は「長く空いてましたから」としか言わなかった。
長く、という言い方が曖昧で、妙に耳に残った。
一人暮らし用には少し広い部屋だった。六畳と四畳半、細い廊下、古い和室を無理に洋室へ変えたような床。私は荷ほどきもそこそこに、ベッドを壁際へ寄せ、小さな折りたたみ机を窓辺へ置き、部屋の真ん中をわざと空けた。狭い部屋に物を詰め込みすぎるのが嫌いだったからだ。
その夜、携帯に知らない番号から留守電が入った。
再生すると、しばらく無音が続いた。ポケットの中で誤操作でもしたのかと思って切ろうとしたとき、女の声がした。
『そこ、空けておいてくださいね』
囁くような、しかし言い切るような声だった。
すぐに切れた。
間違い電話にしては、妙に具体的だった。そこ、とはどこだろう。けれど考えるのが面倒で、私は「気味が悪い」で片づけ、寝た。
翌朝、机の位置が少しだけずれていた。
ほんの五センチほど、部屋の中央から離れる向きに。
自分で動かしたのだと思った。引っ越し直後は何をどこへ置いたか曖昧になる。そういうものだ、と自分に言い聞かせて出勤した。
帰宅すると、ドアポストにメモが挟まっていた。
「三〇七号室さんへ
真ん中は空けておいた方がいいです
前の人もそうしてました
三〇六号室」
白いメモ帳の切れ端に、青いボールペンで丁寧な字が並んでいた。
下の階ではなく隣だ。私は少しためらってから、三〇六号室のインターホンを押した。返事はない。もう一度押す。室内で小さくチャイムが鳴る音はしたが、誰も出なかった。
表札は空欄だった。
その夜、私は机も椅子もさらに壁際へ寄せた。言われた通りにしたわけではない。ただ、部屋の中央に何もない状態が、なぜか落ち着く気がしたのだ。そうすると、正方形に近い空白が床の中央に現れた。淡い木目のフローリングの上に、何も置かれていない場所だけが不自然に目立った。
深夜二時すぎ、目が覚めた。
目覚ましもかけていないのに、ぴたりと。
部屋のどこかで、布が擦れるような音がしていた。
私は息を潜めた。カーテンが揺れるほど風はない。冷蔵庫のモーター音とも違う。もっと柔らかく、もっと近い音だった。畳に座った人が、衣擦れだけで少し姿勢を変えるような。
暗闇に目が慣れてくると、部屋の中央の空白が見えた。
そこだけ、なぜか濃く暗かった。
輪郭があるわけではない。人影が見えるわけでもない。ただ、空いているはずの場所に、空いていない感じがあった。水槽の中に透明なガラスを沈めたみたいに、空気の厚みだけが違って見えた。
私は布団を頭までかぶり、朝まで一度も外を見なかった。
翌日、会社で同僚に昨夜のことを話しかけ、途中でやめた。笑い話にもならないし、自分の口から出るといっそう馬鹿げて聞こえたからだ。
帰り、管理人室を訪ねた。小柄な老人が新聞をたたみ、私の部屋番号を聞くと「ああ」とだけ言った。
「前にも、そういうこと言う人がいたんですか」
私が尋ねると、老人はしばらく黙り、それから曖昧に笑った。
「住み方って、部屋ごとにありますからねえ」
「住み方?」
「落ち着く置き方ってことです。家具の場所とか、風の通りとか」
それだけ言って、新聞をまた開いた。
話は終わりらしかった。
階段を上がる途中、三階の踊り場の窓に夕焼けが薄く差していた。そのガラスに、一瞬だけ、私の後ろにもう一人立っているのが映った気がした。振り返っても誰もいない。心臓が嫌な速さで打った。
その晩、また留守電が入った。
『ありがとうございます』
昨日と同じ女の声だった。
『でも、椅子はひとつ多いです』
私はほとんど反射で、食卓代わりにしていた折りたたみ椅子を廊下へ出した。なぜそんなことをしたのか、自分でも説明できない。怖かったから、というのは説明になっていない。ただ、その声に逆らうと、もっと具体的な何かが起こる気がした。
それから数日、部屋は少しずつ広くなっていった。
棚を閉じて、床に置いていた箱を押し入れにしまい、ラグを剥がし、観葉植物をベランダへ出した。命じられたわけではないのに、私の手は勝手に「空席」を整えていった。空いている場所の形が、だんだん人ひとり分に見えてくる。正座して座るのにちょうどいい広さ。あるいは膝を抱えてうずくまるのに、ぴたりと収まる広さ。
三〇六号室の前を通るたび、中に人の気配がした。テレビの音でも話し声でもない、ただ「誰かいる」とわかるような湿った沈黙。けれどインターホンを押しても、やはり誰も出なかった。
週末、郵便受けにまたメモが入っていた。
「もうすぐですね
今度はあなたが気をつけて
最初は足からなくなります」
読んだ瞬間、足首が冷えた。
私は管理人室へ駆け込み、メモを見せた。老人はそれを一瞥し、不思議そうに眉を寄せた。
「三〇六号室? そこ、去年から空室ですよ」
耳の奥で、何かが小さくはじけた。
「でも、メモが」
「郵便受け、いたずらでしょう」
「留守電も来るんです」
「番号を変えたらどうです」
他人事の軽さが、かえって現実味を増した。老人にとっては、面倒な入居者の訴えにすぎないのだ。私だけが、この団地のどこかからじっと見られている。
その日の夜、私は部屋の中央を跨げなくなった。
そこに近づくと、足がすくむ。床板が抜けるわけでもないのに、底の見えない穴の縁へ寄るような感覚がある。だから壁伝いに移動し、洗面所へ行き、キッチンへ立ち、ベッドへ戻った。
鏡を見ると、私は少しやつれていた。頬がこけたというほどではない。ただ、鏡の中の私だけ、常に半歩ぶん後ろへ下がって立っているように見えた。
午前三時、目を覚ます前から、私は部屋に誰かいるのを知っていた。
布団の外の空気が、ひとの呼吸に合わせてわずかに揺れている。
恐る恐る目を開けると、中央の空席に、暗がりがひどく濃くなっていた。そこだけ部屋の色が違う。夜よりも古く、深く、湿った黒。
その黒の中から声がした。留守電の女の声だった。
「次は、あなたが座る番です」
私は悲鳴も上げられず、ベッドから転がるように降りた。玄関へ逃げようとして、はじめて気づいた。自分の足音がしない。
見下ろすと、足があった。形も色も変わらない。なのに、床を踏んでいる感触だけがない。膝から下が、部屋に馴染みすぎている。そこにあるのに、自分のものではないみたいだった。
中央の空席へ、体がゆっくり引かれていく。
腕で壁紙を掻いた。爪が白い筋を残す。カーテンをつかんだ。古いレールが軋んで外れ、布と金具がいっしょに落ちた。それでも私は少しずつ、部屋の真ん中へ寄せられた。
「嫌」
やっと声が出た。
「そこは、もう空いてるでしょう」
すると暗がりの中で、誰かが笑った。女とも子どもともつかない、乾いた笑いだった。
「空いているから、入れるんです」
そのとき玄関のチャイムが鳴った。
一回。二回。三回。
しつこいほど規則正しい音だった。引力がほんのわずかに緩む。私は床を這い、指先で廊下の角をつかみ、玄関までたどり着いた。鍵を回し、ドアを開ける。
外には、誰もいなかった。
ただ、足元に白い封筒が置かれていた。
拾い上げると、表に私の名前。中には一枚の紙。古い入居申込書のコピーだった。住所はこの団地三〇七号室。氏名欄には知らない女の名前。緊急連絡先は空欄。備考欄に、管理会社のものらしい青い判がかすれていて、その下に手書きで一文だけ添えられていた。
「室内中央に空席を確保のこと」
背後で、畳に膝をつく音がした。
振り返ると、部屋の中央の暗がりが、もう人の形をしていた。輪郭は揺れ、顔は見えないのに、こちらを見ているのだけはわかる。その前に、私が引きずった跡が床に伸びている。まるで、そこへ座る位置が最初から決められていたみたいに。
私は封筒を握ったまま、玄関の外へ飛び出した。
階段を下りる。二段飛ばしで、一階まで。管理人室の灯りは消えていた。叩いても返事はない。外へ出ると、駐車場の端で団地を見上げた。三〇七号室の窓だけが暗い。けれどカーテンのない窓辺に、誰かが立っていた。細く、長く、じっとこちらを見ている。
翌朝、私は会社へ行かず、不動産屋へ直行した。契約違反だろうが違約金だろうがどうでもよかった。鍵を返し、事情を話しかけ、途中でやめた。言葉にすると現実味が薄れる。だからただ「住めません」とだけ繰り返した。
それから一か月後、私は別の街のワンルームで暮らしている。
荷物は最低限しか置かないようにした。部屋の真ん中には、小さなローテーブルがある。絶対に空けないためだ。何かを置いておけば大丈夫だと、根拠もなく信じている。
けれど昨夜、帰宅するとテーブルが壁際へ寄っていた。
動かした覚えはない。
床の中央には、座布団一枚ぶんほどの空白ができていた。
そして携帯には、通知が一件だけ残っていた。番号非通知、留守電一件。
再生すると、あの女の声が少しだけ近くなっていた。
『ちゃんと、持ってきてくれたんですね』