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短編

消された表札

古い団地に越してきた女は、存在しないはずの部屋の表札に自分の名字が浮かび上がるのを見る。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#表札#孤独死#記名#雨夜

その団地を選んだ理由は、安かったからだけではない。

母の遺品をまとめたあと、私は自分の名前がひどく軽くなったように感じていた。郵便受けに差し込まれる請求書や、役所から届く封筒の宛名だけが、どうにか私をこの世に留めている。そう思う夜が続いた。だから、入居申込書に何度も自分の氏名を書きつけたとき、少しだけ安心したのだ。私はまだ紙の上に残ることができる、と。

築四十年を超えた五階建ての団地は、雨に濡れるとコンクリートの匂いではなく、古い帳簿のような匂いを放った。管理人の浜口は、鍵を渡しながら「表札だけは出しといてくださいね」と言った。

「いまどき珍しいですよね、表札」
「ここはね、ないと落ち着かない人が多いんです。誰が住んでるかわからないと気味悪いでしょう」

気味悪い、という言葉を、彼は笑って言った。

私の部屋は三〇七号室だった。廊下の突き当たりで、向かいには非常階段の鉄扉があるだけだ。左右に並ぶ部屋の扉には、小さな金属の表札差しがついていて、名字を印刷した紙が入っていた。擦れて薄くなったもの、油性ペンで書かれたもの、何年も前のままらしい旧姓のものもある。

私も近くのホームセンターで厚紙を買い、「篠宮」と書いて差し込んだ。白い紙に黒い字。それだけで、この古びた廊下に居場所が一つできた気がした。

最初の異変は、その夜だった。

深夜二時すぎ、廊下で金属のこすれる音がした。小さな、しかし妙に神経に障る音だった。表札を引き抜き、また差し込むときの、あの薄い擦過音にそっくりだった。目が覚めて耳を澄ますと、音はすぐ近くで何度も繰り返された。きい、き、と短く鳴り、そのたびに廊下の空気が紙で切られるような気配がした。

私はドアスコープを覗いた。

廊下には誰もいなかった。蛍光灯が一本だけ唸るように明滅し、向かいの鉄扉に白い光が滲んでいる。その途中、私の部屋の隣――三〇八号室の位置に、黒い扉が見えた。

私はしばらく意味がわからなかった。

三〇八号室など、ないのだ。内見のときも、三〇七の隣はすぐ階段だった。引っ越し業者の男が大きな冷蔵庫を運び込んだときも、そこには何もなかった。なのに、いまだけ廊下の奥行きがわずかに伸び、その先に古びた扉が一枚、ちゃんと存在していた。表札差しには紙が入っていない。ただ、濡れたような銀色の面が、明かりを鈍く返していた。

次の明滅で、その扉は消えた。

私は朝まで電気をつけたまま座っていた。疲れのせいだと思うこともできたが、妙に現実的な感触が残っていた。目で見たというより、団地の構造が一瞬だけ書き換わるのを感じたのだ。

翌朝、管理人に三〇八号室のことを尋ねると、浜口は少し黙った。

「昔はありましたよ」

そう言ってから、言い過ぎたと思ったらしく、彼は急いで首を振った。

「いや、間取りの話です。建て増しの計画があって、番号だけ先に振ったとか、そんな。古い団地だから」

話を切るように、掲示板の古い住民名簿を剥がしはじめた。紙の端がめくれ、その下からさらに古い名簿が現れる。消えかけた文字の列の中に、一つだけ修正液で真っ白に塗りつぶされた欄があった。三〇八。名字は読めない。

その晩も、音はした。

私は最初からドアスコープの前で待った。きい、き、と音がして、蛍光灯が一度暗くなり、戻ったとき、やはり扉が現れていた。今度は表札差しに紙が入っている。細長い白紙だ。字はない。しかし、見ているうちに湿った紙の繊維がじわりと浮き、薄い鉛筆の線のようなものが滲みだした。

しの、みや。

自分の名字だった。

私は声をあげ、思わずドアを開けかけた。だがチェーンがついたまま止まり、その隙間から廊下を見たとき、三〇八号室はもうなかった。冷えた階段の壁があるだけで、私の部屋の表札差しからは、「篠宮」の紙が失われていた。

代わりに、床に一枚落ちていた。拾うと、私の字ではなかった。丸みのある古い筆跡で、墨がにじんでいる。

篠宮ではなく、篠宮様。

母が、私の名前を書くときの字に似ていた。

私はその夜、母の遺品の箱を開けた。通帳、保険証券、古い写真、封を切っていない手紙。その底に、見覚えのない小さな包みがあった。開くと、黄ばんだ厚紙が一枚出てくる。金属の表札差しに収まる大きさだった。

そこには「篠宮 澄子」と書いてあった。

母の母、私の祖母の名前だった。私は祖母をほとんど知らない。母は実家のことを話したがらず、写真も残っていない。ただ一度だけ、祖母は古い団地で一人で死んだのだと、酒に酔った母がつぶやいたことがある。見つかるのが遅れて、近所で噂になり、それから母は誰の表札にも、誰の名簿にも実家の名を書かなくなった。

翌日、私は市役所で戸籍を取り寄せた。祖母の最終住所は、いま私が住んでいる団地、三〇八号室だった。

だが、その部屋は存在しないことになっていた。

建物の図面を見せてもらおうとしても、管理会社は古すぎて残っていないと言った。浜口は私の顔を見ようとしなかった。雨は三日続き、団地の廊下はいつもじっとり濡れていた。住民たちは会釈をするが、三〇八という番号を口にすると、だれも少しずつ話を逸らした。

四日目の夜、私は決めていた。

祖母の表札を、あの現れる部屋に入れてやろう、と。

存在しなかったことにされるのは、あまりにも寒々しい。母はそれを恐れて、あの名前を隠したのかもしれない。私もまた、自分の名字が消える恐ろしさを知っている。ならば一度だけでも、そこに住んでいた者の名を戻すべきだと思った。

零時を過ぎるころ、音が始まった。

きい、き。金属と紙。呼吸のように規則正しい。私は祖母の表札を握り、ドアの前に立った。明滅のあと、廊下の奥行きがすっと伸びる。そこに、三〇八号室があった。黒い扉。剥げた塗装。表札差しには白紙。私は裸足のまま廊下へ出た。足裏が冷たい。雨水が吹き込んでいるわけでもないのに、床は濡れていた。

一歩近づくごとに、団地の匂いが濃くなった。湿った紙、古い布団、薬の瓶。扉の向こうからは何の気配もしない。ただ、無人の部屋が長く息を潜めている気配だけがある。

私は表札差しから白紙を抜いた。

その裏に、ぎっしりと細い文字が書かれていた。

すべて、名字だった。団地の住民の名字。見覚えのあるものも、知らないものもある。その末尾に、何度も何度も、篠宮、篠宮、篠宮と重ね書きされていた。まるで、忘れられまいとして自分の名を擦り込んだ跡のように。

手が震えた。それでも私は祖母の表札を差し込んだ。

ぴたり、と音が止んだ。

団地全体が耳を澄ましたような静けさのあと、扉の向こうで、誰かがそっと立ち上がる気配がした。畳に膝をつき、長いあいだ座っていた人が、ようやく膝を伸ばすような音。私は凍りついた。逃げるべきだと思ったが、足が動かない。

内側から、扉ののぞき窓が暗くなった。

誰かが、そこから私を見ていた。

しかし目は見えない。黒い影があるだけなのに、私はその視線の形をはっきり感じた。確かめるような、納得するような、それでいてまだ足りないというような視線。

やがて、扉の下の隙間から紙切れが一枚、するすると押し出された。

私はしゃがみこんでそれを拾った。

白紙だった。

いや、違う。廊下の蛍光灯の下で角度を変えると、薄く浮き出た凹みが見えた。書かれているのではなく、強くなぞられて紙に痕だけが残っている。

篠宮 澄子
篠宮 恒一
篠宮 恒一の妻
篠宮 由佳

由佳は私の名前だった。

喉の奥で、小さく声が鳴った。その瞬間、扉の向こうで、誰かが嬉しそうに息を吸いこんだ。

私は紙を取り落とし、三〇七号室へ駆け戻った。鍵を回し、チェーンをかけ、背中で扉を押さえた。廊下から足音はしない。だが、金属の擦れる音だけが始まった。きい、き。私の部屋の表札差しを、誰かが触っている。

朝まで続いた。

夜が明けてから、恐る恐る外に出ると、三〇八号室はなかった。いつもの階段の壁だけがある。だが私の表札は消えていた。

代わりに差し込まれていたのは、祖母のものと同じ古びた厚紙だった。そこには、母の字でこう書かれていた。

篠宮家

それから一週間、私は管理会社に退去の連絡をし、荷造りを進めた。浜口は何も聞かなかった。ただ最後に鍵を返すとき、「表札は置いていきますよね」と確認した。

私はうなずいた。持って帰る気にはなれなかった。

引っ越し当日、最後に郵便受けを見た。空だと思った中に、細い白紙が一枚だけ入っていた。裏返すと、浅い凹みで新しい名前が刻まれている。

浜口

団地を出て振り返ると、三階の廊下の突き当たりに、見覚えのない扉が一瞬見えた。黒い扉の表札差しには、家を示すだけの古い紙が差してある。個人の名前ではなく、名字をまとめた、逃げ場のない書き方。

あれから半年たち、私は別の町に住んでいる。新しいマンションには表札差しがない。郵便は部屋番号だけで届く。名を掲げなくても暮らせるはずなのに、夜ふと気づくと、玄関の外であの音がしていることがある。

きい、き。

金属に紙が擦れる、あの乾いた音だ。

覗き穴を見る勇気はまだない。けれど、ドアの下にときどき白紙が差し込まれる。表はまっさらで、裏には何も書かれていない。なのに指先でなぞると、へこんだ線だけが確かにある。

私の名字のあとに、まだ知らない誰かの名前を受け入れるための、細い余白が。