短編
返却日のあじさい
梅雨の図書館で見つけた一冊が、忘れていた小さな約束を二十年越しに呼び戻す。
六月の終わり、電車が混む時間をやり過ごすために、私は駅前の区立図書館へ寄るようになった。
会社から家までは二十分だが、その二十分がいちばん長い。広告代理店の校正は、一日じゅう誰かの言葉の細部ばかり見ている仕事で、帰るころには自分の考えまで赤字で消したくなる。だから仕事帰りの図書館では、読むというより、静かな場所に座っていることのほうを借りていた。
その日、雨は上がったばかりで、入口のタイルにまだ薄く水が残っていた。新着棚の横に、装丁の古い随筆集が一冊だけ、場違いなくらいくたびれて立っていた。背に貼られたラベルは少し斜めで、透明なカバーの内側に、あじさいの花びらが一枚、押し葉になって張りついていた。
何の気なしに開くと、六十三ページに細い鉛筆の線が引かれていた。
返すのは、本だけでいい。
それだけが、右上の余白に小さく書いてあった。
図書館の本に書き込みなんて珍しくない、と頭では思ったが、その字の癖に妙な見覚えがあった。はねるところが弱く、払いが少し長い。思い出しかけて、思い出せないときの、喉の奥に小骨が残るような感じだけがした。
貸出カウンターに持っていくと、若い司書がバーコードを読み取りながら言った。
「この本、もともと巡回文庫の蔵書だったんです。団地とか集会所を回っていた車の」
「巡回文庫」
「はい。ずいぶん前に廃止になって、残った本だけこっちに来ました」
その言葉で、雨の匂いとは別の湿った匂いが、遠いところから立ちのぼってきた。コンクリートの階段の踊り場、赤いバケツ、夕方の放送、夏になる前の、濡れた鉄の手すり。
私はその本を借りた。
家で読み始めても、文章は頭に入らなかった。六十三ページばかりが気になり、めくるたびに、あの一文が水面のように揺れた。返すのは、本だけでいい。
深夜になって、裏表紙の見返しに貼られた貸出票の袋に気づいた。いまの図書館では使われていない古い紙のカードが一枚だけ残っていて、日付の欄にほとんど消えかかったスタンプが並んでいた。その一番下に、鉛筆で書かれた名前があった。
達也
自分の名前だった。しかも、子どものころにしか書かなかった、角の丸い字だった。
翌日、私は昼休みに会社を抜けて、また図書館へ行った。年配の司書に事情を話すと、その人は驚いた顔もせず、古い台帳を見せてくれた。
巡回文庫は、二十年近く前まで、私が子どものころ住んでいた団地にも来ていたらしい。毎週水曜の午後、中庭の端に車を停めて、一時間だけ本を貸していたという。台帳には団地名と停車場所の地図、利用者のざっくりしたメモが残っていた。
そのページを見た途端、忘れていた風景が、急に音まで伴って戻ってきた。
五階に、佐野さんというおばあさんがいた。目が悪くて、一人で階段を下りるのがつらい人だった。私は学校から帰ると、ときどき巡回文庫で本を借りて、佐野さんの部屋まで届けた。お礼に棒アイスを一本もらい、私は玄関で最初の一ページだけ音読した。佐野さんはいつも、うんうんと頷きながら聞いていた。
団地の建て替えが決まり、住人が少しずついなくなった夏の終わり、佐野さんは体調を崩して入院した。救急車が来た日のことだけ、私はなぜかよく覚えている。雨が降りそうで降らない空で、ベランダのあじさいが色を失いかけていた。
その前の日だったと思う。佐野さんは、私にこの本を渡したのだ。
「次に車が来たら返しておいてね」
私はうなずいた。たぶん、すぐ返せると思っていた。けれどその週、熱を出して学校を休み、次の週には巡回文庫の車はもう来なかった。建て替えで予定が変わったのかもしれない。母は片づけの最中にその本をどこかの段ボールへ紛れ込ませ、引っ越しがあり、父の転勤があり、家族は団地のことをあまり話さなくなった。
私は約束を忘れたというより、約束ごと閉じ込めた箱の在りかを忘れていたのだと思う。
「この本、どうしてまた館に戻ってきたんでしょう」
司書に尋ねると、彼女は台帳から目を離して言った。
「数年前、取り壊し前の倉庫整理でまとまって出てきた本があったんです。私物と混ざっていたものを、読めるぶんだけ補修して戻しました。これもその中かもしれませんね」
それなら辻褄は合う。だが、六十三ページの書き込みまでは説明できない。
私は本を抱えたまま、夕方、かつて団地のあった場所へ行ってみた。いまは月極駐車場と小さなドラッグストアになっていて、住棟の面影はほとんどなかった。ただ、敷地の端にだけ古い植え込みが残されていて、あじさいが雨上がりの水を重たそうに抱えていた。
その前にしゃがんでいると、子どものころの記憶が、順番を守らず浮かんできた。
本を渡された日のこと。
「遅れても、返すのは本だけでいいからね」と佐野さんが笑ったこと。
私が泣きそうな顔をしていたこと。
たぶん私は、入院の気配を子どもなりに感じ取っていたのだ。返せなかったらどうしよう、と口にしたのかもしれない。だから佐野さんは、あの一文をどこかに書いて私を安心させた。責めないために。約束より、約束を抱えたままの子どものほうを軽くするために。
その夜、本に細い付箋を挟んだ。
遅くなってすみません。ちゃんと返します。
子どもじみていると思ったが、ほかにやりようがなかった。
翌日、私はカウンターでその本を返した。司書は何も知らない顔で受け取り、返却印を押した。乾いた小さな音がしただけだったのに、胸のどこかで長く引っかかっていた棘が、ようやく抜けた気がした。
「長い延滞でしたね」
冗談めかしてそう言うと、司書は端末を見て、首をかしげた。
「そうでもないですよ。昨日借りて、今日返却ですから」
私は曖昧に笑って、そのまま図書館を出た。
雨はもう降っていなかった。駅までの道で、シャツの胸ポケットに何か固いものが触れた。入れた覚えのない、小さな紙切れだった。図書館のレシートより薄く、古いカードの端を切ったような紙。
そこに、あの丸い字で一行だけ書いてあった。
ちゃんと来たから、遅刻じゃない。
私は立ち止まり、しばらくその紙を見ていた。
風が吹くと、街路樹の葉から遅れた雫が落ちてきた。駅前の人波は相変わらず忙しく、誰もそんな紙切れには気づかない。私はそれを財布にしまい、改札へ向かった。
その日から帰りの二十分は、少しだけ短くなった。図書館には相変わらず寄る。何かを待っているわけではない。ただ、ときどき古い本を手に取って、見返しの袋を確かめるようになった。
先週借りた詩集には、何も挟まっていなかった。
それでもページをめくるたび、どこかで、濡れたあじさいの色だけがゆっくりと思い出される。