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短編

金曜日の留守番電話

新しい番号に届き続ける見知らぬ老人の留守番電話をきっかけに、止まっていた会話が少しずつ動き出す物語。

Genre
現代ドラマ
Series
単発
#喪失#声#日常#再生

金曜日の午後七時十二分になると、私のスマートフォンは決まって一度だけ震えた。

知らない番号からの留守番電話。最初の週、私はそれを迷惑メッセージだと思ってすぐ削除した。二週目は、相手が同じ番号だと気づいて、ため息をつきながら再生した。

「美晴さん、トマトがひとつだけ赤くなりました。まだ酸っぱいかもしれないので、明日にします。駅前のパン屋は、あの丸いあんぱんをやめたみたいです」

年配の男の声だった。低くて、少しかすれていて、語尾だけが妙にやわらかい。間違い電話にしては、話し方が落ち着きすぎていた。私は再生を止め、履歴から番号をブロックしかけてやめた。雨が降っていたからかもしれない。部屋の静けさが、見知らぬ声の続きを欲しがっている気がした。

その春、私は引っ越したばかりだった。仕事を辞め、古い携帯番号も手放して、新しい街で新しい番号を受け取った。新しい、と言っても、誰かが一度使っていた番号なのだろう。金曜日ごとにやってくるその声は、前の持ち主の残り香みたいに思えた。

三週目のメッセージで、男はこう言った。

「今日は風が強くて、物干し竿が一本落ちました。あなたなら笑うところです。私はちゃんと拾いましたよ」

四週目には、

「商店街の金魚屋が閉まりました。赤いひさし、覚えていますか。閉店の貼り紙の字が、ずいぶん丁寧でした」

五週目には、

「病院で名前を呼ばれても、つい振り向いてしまいます。もう私一人の名前しか、呼ばれないのに」

そこまで聞いて、私は初めてその人が誰に話しかけているのかを理解した。美晴さんはたぶん、もうこの番号を使っていない。使えないのかもしれない。そしてこの人は、それを薄々知りながら、それでも毎週、報告を続けている。

内容はいつも小さかった。赤くなったトマト、隣家の犬が吠えなくなったこと、古い傘を捨てたこと、電球を替えたら台所が明るすぎたこと。悲鳴も告白もない。ただ日付のついた生活だけが、きちんとそこに置かれていた。

私はいつから父に電話をしていないだろう、とそのころよく考えた。

母が亡くなってから、父との会話は仕事みたいになった。手続きは終わったか、薬はあるか、寒くないか。必要なことは話すのに、話したいことはどちらも言わなかった。父はもともと無口で、私も母を介さずに父と向き合うやり方を知らなかった。だから月に一度、短い通話をして、それで十分だと言い聞かせていた。

六月の終わり、留守番電話が入らなかった金曜日があった。

午後七時十二分を過ぎても震えない画面を、私は食卓に肘をついて何度も見た。八時になっても、九時になっても来なかった。来ないことに、私は自分で思うよりずっと落ち着きを失っていた。自分とは無関係なはずの誰かの沈黙が、部屋の空気を一段冷たくした。

翌週の金曜日、私はコンビニの前でその着信を受けた。反射的に通話ボタンを押していた。

二度、呼び出し音が鳴ったあと、もしもし、と男の声が出た。留守番電話の声より少し頼りなかった。

「あの……この番号の、持ち主の方ですか」

自分でも間抜けな聞き方だと思った。相手はしばらく黙って、それから小さく笑った。

「いまは、あなたが持ち主なんでしょうね。すみません。間違えてばかりで」

「いえ。あの、毎週、留守番電話を」

「聞いてしまいましたか」

責める言い方ではなかった。ただ、見つかってしまった子どもみたいに、少しだけ恥ずかしそうだった。

店先の冷気が足元に流れていた。私は傘の柄を握り直した。

「先週、何も入らなかったので」

言ったあとで、自分がなぜそんなことを報告したのかわからなくなった。男は驚いたように息をのみ、それからゆっくり答えた。

「熱を出してしまって。金曜日に寝込むなんて、何年ぶりかでした」

「……そうですか」

「変ですね。知らない人に心配してもらうなんて」

信号が変わり、人が一斉に歩き出す音がした。私は道の向こうの赤信号を見ながら、聞くべきことを探した。

「美晴さん、という人は」

男は少し間を置いた。

「妻です。三年前に亡くなりました」

答えは静かで、置き場所を知っているものの声だった。

「番号、まだ消せなくて。消したら本当に終わる気がして。でもね、話しているうちに、気づいたんです。私はあの人に聞かせたいんじゃなくて、自分の一週間をどこかへ置いておきたかったんだって」

街路樹の葉が濡れて光っていた。コンビニのガラスに映る自分の顔は、知らない人のようにぼんやりしていた。

「一週間を、置いておく」

「ええ。今日は洗濯をした、とか、トマトが赤くなった、とか。そういうことを口に出すと、ちゃんと今日を生きた気がするんです。誰も聞かなくても」

私はすぐには返事ができなかった。父のことを思っていた。母がいたころ、父は夕食のあと、湯のみを持ったまま庭の話をした。梅が落ちた、隣の猫が寝ていた、去年より風がぬるい。母はそれに、そう、へえ、と相づちを打っていた。たぶん父が本当に欲しかったのは、助言でも結論でもなく、その日の置き場所だったのだ。

「聞いてくださって、ありがとうございました」

男がそう言った。これで終わる声だった。

私はあわてて言った。

「来週も、話してください」

沈黙の向こうで、雨の音がした気がした。

「ご迷惑では」

「いいえ。たぶん、私にも必要なので」

自分で口にして、少しだけ驚いた。だが、それは間違いではなかった。

その夜、帰宅してすぐ、私は父の番号を開いた。通話ではなく、留守番電話につながる設定のままになっている番号だ。呼び出し音が続き、やがて機械音声のあとに無言の時間が来た。

私はしばらく黙っていた。謝るべきことも、気の利いたことも、思いつかなかった。だから、いちばん小さなことを言った。

「今日、駅前の紫陽花が咲いてたよ。青いのより、少し遅れて白いのが咲いてた」

声にしてみると、それは案外ちゃんとした報告だった。

「うちのベランダの鉢も、ひとつ新芽が出た。父さんなら、植え替えたほうがいいって言うんだろうね」

そこで一度息を継いだ。部屋の静けさは前より少しやわらかかった。

「また、電話する」

送信を終えると、画面の明かりが落ちた。窓の外では雨が細く降っていて、どこかで誰かの一週間が、誰かの耳に届かなくても、たしかに世界の上へ置かれていく気がした。