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短編

不完全層

漁に出た小さな船が、帰るはずの“海”とは違う場所へ迷い込んでしまう。

Genre
ホラー
Series
単発
#船#遭難#幻覚

「今日は波が穏やかだから、大漁だろうな」

そう言って、港の漁師・坂下さんは笑った。
僕は夏休みの間、祖父の住む港町に帰省していて、好奇心から一度だけ、漁船に乗せてもらうことになった。

船は全長10メートルほどの古い木造。
「ほら、これが“福吉丸”。昔はよう釣れたんだ」と祖父が言った。

午前4時、まだ空が暗いうちに出港した。

沖に出るにつれて、町の灯りが遠ざかる。
やがて水平線しか見えなくなった頃、坂下さんがふとつぶやいた。

「……ん? あそこ、島があったっけか」

見ると、靄の中にうっすらと陸地のような影が浮かんでいた。
地図には載っていない。GPSも、そこだけ異常な表示をしている。

「少しだけ、近づいてみるか」

坂下さんが舵を切る。
それが、間違いの始まりだった。

島に近づくにつれて、空の色が変わった。
夜明けのはずなのに、空は薄暗く、灰色に沈んでいく。

波は静かすぎるほど静かで、音が吸い込まれていくようだった。

島に着くと、打ち捨てられた建物がいくつか見えた。
崩れかけた灯台、朽ちた倉庫、そして誰もいない船着き場。

「……ここ、前にも来たことある気がするな……」

坂下さんがつぶやいた。

だが彼の表情は青ざめ、汗を流していた。

「いや、おかしいな。俺、こんな島知らないはずなのに」

倉庫の中をのぞくと、壁に文字がびっしりと刻まれていた。

**「おなじ場所にかえるな」
「うみにひとがいる」
「わたしはわたしじゃない」**

背筋が冷たくなった。

「帰ろう。すぐに」

坂下さんが叫ぶように言った。

船に戻ると、海はさっきと様子が違っていた。
波が一切なく、空と水面の区別がつかない。

舵を回しても、船が動いていないような感覚に襲われる。

「エンジン……効かねえ……」

坂下さんが焦りながら操縦桿を叩いた。

ふと、海面を見た。

そこに、顔があった。

水面下から、無数の人間の顔がこちらを見上げていた。

男も女も、子どもも大人も。
どの顔にも、目がなかった。
口だけが開き、同じ言葉を繰り返している。

**「もどるな」
「もどすな」**

坂下さんが叫んだ。

「やめろ! おれは知らねえ! 連れてくな!」

その瞬間、船が大きく揺れた。

僕は気を失った。

***

目を覚ますと、船は港に戻っていた。
祖父と港の人たちが駆け寄ってくる。

だが――坂下さんはいなかった。

海保も出たが、見つからなかった。
地元の人は「船が流されたんだろう」と言ったが、GPSログも、エンジンの記録もすべて正常だった。

そして僕のスマホには、保存した覚えのない写真が一枚。

夜明けの灰色の海。
その中央に、今も浮かんでいる“福吉丸”の姿。

誰も乗っていないはずの船の舳先に、こちらを向く坂下さんの姿が――

微かに、笑っていた。