短編
箱庭
廃墟の中で見つけた小さな箱庭。それはかつての記憶と、もう戻れない時間を閉じ込めていた。
小雨の降る午後、川崎恵梨香はふと思い立って、幼いころに住んでいた団地跡へ向かった。十年以上前に取り壊されたはずのその団地は、再開発の計画が中断されたまま、今もフェンスに囲まれ、誰も近づかない廃墟となっていた。
細い路地を抜け、錆びたフェンスの隙間から中へ入ると、雑草の生い茂る広場の向こうに、灰色のコンクリートの塊が静かに横たわっていた。雨に濡れた地面を踏みしめながら、恵梨香は一棟の建物の中へ入った。
鉄の階段を上がる。かつて自分の部屋があった三階まで来ると、半ば崩れかけた廊下の先に、206号室の扉が見えた。ドアは鍵もなく、押せば軋む音を立てて開いた。
部屋の中はがらんとしていた。床には埃が積もり、壁のクロスは剥がれ落ちている。それでも、確かにここが自分の「はじまり」の場所だと感じた。
ふと、リビングの隅に見覚えのない木箱が置かれているのに気づいた。蓋は少し開いていて、中には何かが収められているようだ。ゆっくりと近づき、蓋を開ける。
そこには、精巧なミニチュアの街が広がっていた。団地の建物、公園、バス停、小さな商店……恵梨香が幼いころに見ていた景色が、完璧なまでに再現されていた。
「……誰が、こんなものを?」
思わず声が漏れる。その瞬間、小さな公園のあたりで人影が動いた気がした。目を凝らすと、それはミニチュアの中に立つ、小さな人形だった。短い髪の女の子。――自分だ。
箱庭の中の恵梨香は、団地のベンチに座り、誰かを待っているようだった。隣には、もう一人の子ども。――弟の翔太。
亡くなったはずの弟の姿を見たとき、恵梨香の中で何かがはじけた。
あの日、翔太は姿を消した。団地の公園で遊んでいるうちに、ふっと消えてしまった。警察も近所の人も探したが、結局何もわからなかった。
「……やめて」
箱庭の中の姉弟は、何度も同じ動きを繰り返していた。ベンチに座り、弟が立ち上がり、そして消える。姉が立ち上がり、追いかけるが間に合わない。
まるで、記憶が再生されているようだった。
恵梨香は箱庭に手を伸ばした。触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪む。
次の瞬間、彼女は見慣れた公園に立っていた。雨は止み、空は澄んでいる。小さなベンチには、幼い自分と弟が座っていた。だが、自分の姿は誰にも見えていない。
「翔太、行っちゃダメ……!」
叫ぼうとするが、声が出ない。弟は立ち上がり、滑り台の向こうへと走っていく。姉はそれを追いかけるが、何かにぶつかるように止まり、呆然と立ち尽くす。
場面が変わる。母の泣き声、警察官、近所の人々。すべてが、かつて体験したはずの光景。
そして、再びあの廃墟の部屋へ戻っていた。木箱は閉じられており、上には埃一つなかったかのように整っていた。
時間を忘れていた恵梨香は、外が暗くなっていることに気づいた。出口へ向かおうと振り返ると、部屋の隅にもう一つ、見覚えのない小さな箱が置かれていた。
その箱の蓋が、ゆっくりと開きかけていた。
そして、その中には、今の彼女自身が小さく立っていた。静かに振り返り、目が合った。
箱の中の自分が、微かに口を開いた。
「まだ、終わってないよ」