短編
廊下の尋ね人
団地の掲示板に貼られる尋ね人の紙が、住人たちの記憶そのものを書き換えていく短編ホラー。
母が入院しているあいだだけ、私は子どものころ住んでいた団地に戻ってきた。駅から十五分、川沿いにひらたく並ぶ古い五階建ての棟群は、どれも同じ薄い灰色をしていて、夕方になるとコンクリートが湿った海綿のように暗く沈んだ。
四号棟の階段を上がると、踊り場の脇に小さな掲示板がある。自治会の回覧、粗大ごみの日程、猫に餌をやらないでくださいという色あせた注意書き。その隅に、見慣れない紙が一枚、画鋲で留められていた。
尋ね人
この人を探しています
見かけた方は管理人室までお知らせください
そう印字されていて、下に白黒の写真が貼ってあった。四十代くらいの女の人で、髪は肩まで、少し笑っている。名前は「さかい みちよ」。特徴の欄に、右目の下に小さなほくろ、とだけある。
私は立ち止まって、その顔を眺めた。知らない人だった。だが、知らないと判断した直後に、胸の奥が妙にざわついた。昔この団地で見たことがあるような、何度もすれ違ったような、そんな気もする。けれど思い出そうとすると、記憶の表面がつるりと逃げていく。
部屋に入ると、閉め切っていたはずなのに、廊下の匂いがまだついてきていた。湿気と、古い紙と、長く使われた電灯の熱の匂い。
その夜、母に洗濯物を届けに病院へ行った帰り、管理人室の前を通りかかると、中からテレビの音が聞こえた。戸は半分開いている。管理人の西田さんは、子どものころからこの団地にいた。小柄で、背中の曲がった、いつも紺色のカーディガンを着ている人だ。
「あの掲示板の紙、誰なんですか」
私が声をかけると、西田さんはしばらく私の顔を見て、それから少しだけ首をかしげた。
「どの紙?」
「踊り場の。尋ね人の」
「ああ」
西田さんは、ようやく何か思い出したようにうなずいた。
「昔から、たまに貼るのよ」
「誰がいなくなったんですか」
「いなくなった人を探す紙じゃないの」
さらりと言って、テレビに視線を戻した。
「じゃあ、何を探すんですか」
「見つけるための紙」
聞き返そうとしたが、西田さんはもう話を終えた顔をしていた。テレビでは天気予報が流れていて、明日はところにより霧が出るでしょうと言っていた。
翌朝、私はごみを出すついでに掲示板を見た。紙はそのままあった。けれど、写真の女の人の顔が、昨夜と少し違う気がした。笑っていた口元が、今は笑っていない。目も、もっと細かったはずだ。印刷が湿気でにじんだのかと思ったが、紙面は乾いていた。
同じ階の奥に住む中村さんが、ごみ袋を提げて階段を下りてきた。小学校のころ、よく飴をくれた人だ。
「おはようございます」
「おはよう」
中村さんは掲示板の前で足を止めると、紙を見て眉をひそめた。
「また貼ってるのね」
「この人、知ってますか」
「知ってるも何も」
中村さんは当然のように言った。
「三〇二の酒井さんでしょ」
「三〇二って、今、空き部屋ですよね」
言った瞬間、中村さんがじっと私を見た。ひどく気の毒そうな目だった。
「あなた、まだ戻ってきたばかりだものねえ」
そう言い残して、階段を下りていった。
三〇二号室は、私の部屋の向かいだった。郵便受けには何もなく、表札も外されている。ドアノブに触れると、ひやりとしていた。のぞき穴の向こうは暗い。人の気配はなかった。
その日の午後、買い物から戻ると、二階の踊り場にも同じ紙が貼られていた。けれど写真は、もうあの女の人ではなかった。七十代くらいの痩せた男の人で、名前は「なかむら しんいち」。右眉の上に傷あと、とある。
私は思わず四階まで駆け上がった。四号棟の掲示板には、同じ男の写真が貼られていた。紙の角だけが、朝のものと同じように少しめくれている。
そのとき、背後でドアの開く音がした。振り返ると、三〇一の中村さんが立っていた。買い物袋を持ち、きょとんとした顔をしている。
「どうしたの」
私は喉が詰まり、すぐに言葉が出なかった。さっき会った中村さん。ごみ袋を下げて、酒井さんのことを知っているふうに話した人。あれは確かに、中村さんだった。
「今朝……下で会いましたよね」
「今朝?」
中村さんは少し笑った。
「朝から出てないわよ。膝が痛くて」
買い物袋の中で、豆腐の容器がかさりと鳴った。
私は掲示板を指さした。
「この人」
「主人だけど」
中村さんは当たり前の調子で答えた。
「もう十年前に亡くなったの」
その晩、私は眠れず、零時を過ぎてから玄関を開けた。廊下の蛍光灯は何本か切れていて、薄い闇がところどころに溜まっている。掲示板の前に立つと、紙が一枚ではなく、何枚も重なっていることに気づいた。端がぴたりと揃いすぎていて、昼間は一枚にしか見えなかったのだ。
恐る恐るめくると、下から別の写真が現れた。知らない女、見覚えのある男、子ども、老人。どの顔も、この団地の住人らしいのに、私は半分しか思い出せない。裏には日付が手書きされていた。三年前、十二年前、二十七年前。古いものほど、紙が新しかった。
最後の一枚をめくったとき、手が止まった。
写真は私だった。
まだ高校生くらいの顔で、今より頬が丸い。白いシャツを着て、どこか不機嫌そうにカメラを見ている。名前の欄には、ひらがなで私の名がある。特徴の欄には、左耳の後ろに小さなほくろ。
そんなほくろ、あっただろうかと思って、私は慌てて耳の後ろに触れた。爪の先に、わずかな膨らみが触れた。
紙の下端には、赤いボールペンで小さく書き足されていた。
見かけた方は、声をかけないでください
気づく前に戻ります
そのとき、階下で足音がした。ひた、ひた、と、スリッパを引きずるような遅い音。私は紙を落としそうになりながら、手元の束を押さえた。足音は一段ずつ、確実に上がってくる。
「めくったの」
女の声だった。やわらかく、少しかすれている。最初の写真の、酒井みちよという人の声だと、どういうわけかすぐわかった。
私は答えられなかった。
「見ないほうが、楽だったのに」
足音が止まる。踊り場の角、切れた蛍光灯の下に、人影が滲んでいた。顔はよく見えないのに、右目の下のほくろだけが、湿った黒い点のように見えた。
「ここに長く住むとね、ひとりずつ余るの」
声は穏やかだった。世間話みたいに。
「部屋も、名前も、記憶も、きれいに数が合っているでしょう。でもたまに、誰かが少しだけ余る。そうすると紙を貼るの。みんなで、その人を団地の中に戻すために」
「戻すって……」
やっとのことでそう言うと、影は少し笑った気配を見せた。
「忘れるのよ。その人が最初からいたことに、みんなで」
廊下の空気が冷えた。遠くで排水管の鳴る音がした。私はふいに、子どものころの記憶をひとつ思い出した。夕方、母に手を引かれ、向かいの部屋の前で立ち話をしている。ドアのところに、知らない女の人が立っていた。笑っていて、右目の下にほくろがあった。私はその人から飴をもらった。なのに、その顔の輪郭はずっと曇りガラスみたいにぼやけていて、今まで一度も思い出せなかった。
「あなたは、前に一度、紙になった」
影が言った。
「でも戻ってきた。珍しいの」
「戻るって、どこから」
問いかけた瞬間、自分の声がひどく小さいことに気づいた。影は答えなかった。ただ、掲示板の束を見た。
「今夜じゅうに一枚だけ選んで、いちばん上に戻しておいて」
「選ぶ?」
「そう。でないと、次はあなたがいちばん上になる」
影はそれだけ言って、足音もなく闇のほうへ退いた。廊下にはまた、古い紙の匂いだけが残った。
私は部屋に戻り、朝まで写真を見続けた。知らない顔、知っていたはずの顔、忘れたままの顔。紙を指でなぞるたび、その人物にまつわる小さな情景が胸の内側に浮かんでは消えた。回覧板を届けに来た青年。夏祭りの夜店で金魚を掬っていた女の子。雨の日に傘を貸してくれた老人。誰もがこの団地の廊下で立ち止まり、短く言葉を交わしただけの、ささやかな隣人たちだった。
朝の気配が窓を白くしたころ、私は一枚を選んだ。
最初の、酒井みちよの紙だった。
理由はうまく言えない。ただ、いちばん長く忘れられていた人のような気がした。私は震える指でその紙を束のいちばん上に重ね、掲示板へ戻した。画鋲を刺すと、紙はまるでそこに居場所を得たもののように、静かに落ち着いた。
その日の昼、中村さんに会うと、向かいの三〇二には酒井さんという人が住んでいると言った。買い物の時間が合えば挨拶するでしょう、とも。
私は返事をしなかった。
夕方、廊下でドアの開く音がした。向かいを振り向くと、三〇二の扉が細く開いていた。中は暗い。だが、隙間からこちらを見ている気配がある。しばらくして、白い指先がドアの縁にかかった。右目の下に、小さなほくろが見えた気がした。
「おかえりなさい」
そう言われた。
どこへ、とは聞けなかった。
私は自分の部屋の鍵を開けながら、左耳の後ろのほくろを、無意識に何度も確かめていた。翌朝には、その膨らみがまだあるのかどうか、それだけが急に心もとなくなったからだ。