短編
刃物の夜
母が使っていた一本の包丁が、家族の中で“何か”を狂わせていく。
最初に違和感を覚えたのは、夕食の時だった。
食卓の上には、いつも通り母が作った煮物と味噌汁。
けれど、並んだ皿の肉の切れ目が、異様なほど正確で美しかった。まるで職人が仕込んだような――けれど母は、料理が特別得意なわけではない。
「包丁、変えたの?」
何気なく尋ねると、母は笑って頷いた。
「うん。おばあちゃんの家にあったのを見つけてね。錆びてたけど、研いだら、すごくよく切れるの」
その夜、洗い場に立てかけられた包丁をこっそり見た。
刃の長い、古い和包丁だった。
柄の部分には黒い染みがあり、刃には波紋のような模様が走っていた。だが、光の加減でそれが動いているように見えた。
それから、家の中が少しずつ変わっていった。
父は帰宅すると無言で風呂に入り、鏡をじっと見つめるようになった。
妹は夜中に何かを切るような音を立て、翌朝には指に細かい傷をつけていた。
母は常にキッチンに立っていた。まるで台所に縛られているように。
ある夜、トイレに起きて居間を通ると、電気もつけずに母がまな板に向かっていた。
何かを切っている。だが、音が妙に湿っていた。
「……お母さん?」
声をかけると、母は動きを止め、こちらを向いた。
その目は焦点が合っておらず、口だけが笑っていた。
「夜のうちに、悪いところはぜんぶ切らないとね」
翌朝、何事もなかったように朝食が並んでいた。
だが、その中に見慣れない食材があった。
やわらかくて、白っぽくて、でも何か知っているような食感。
僕は箸を置いた。
それから数日、母は台所からほとんど出てこなくなった。
会話もせず、ただ、包丁を砥石に擦る音だけが家中に響いていた。
その音は夜にも続き、夢にも入り込んできた。
夢の中で、母が包丁を持って僕に言う。
「あなたにも、切りたいものがあるでしょう?」
次の日、学校から帰ると父と妹がいなかった。
母は言った。
「大丈夫よ。悪いところ、切っただけ」
そう言って、包丁を撫でた。
刃の波紋が、生きているように脈打っていた。
僕は恐る恐る台所の戸棚を開けた。
奥に、小さな骨の欠片が並べられていた。
名前を書いた付箋が貼られた瓶が、いくつも積まれていた。
「これで、家族は綺麗になったのよ」
母の声が、背後で笑っていた。
今夜、僕は包丁を隠そうと決めた。
けれど、風呂場の鏡に映った自分の顔には、知らない笑みが浮かんでいた。
「切りたいものが、あるんでしょう?」
刃の夜は、まだ終わっていなかった。