短編
春の預かり屋
商店街の片隅に現れる不思議な預かり屋で、しまいこんでいた言葉を受け取った青年が、小さな一歩を踏み出す話。
三月の終わり、駅前の商店街は、閉じる店と開く店のにおいが混じっていた。古いレコード屋の跡にはコインランドリーが入り、その隣ではたい焼き屋が春限定の桜あんを売っている。風はまだ冷たいくせに、ショーウィンドウの端や街路樹の根元にだけ、季節の手が届いていた。
会社帰りの真島遼は、そんな変わり目の景色が苦手だった。新しいものを見るたびに、置いてきたものの数を思い出すからだ。
この商店街を歩くのは、できるだけ避けていた。高校の帰り道だった。古本屋の角で待ち合わせをして、駄菓子屋の前で立ち話をして、駅までゆっくり歩いた相手がいた。三年前の春、その相手――佐伯雫は、地方の大学に進学するため町を出た。遼は見送りにも行かなかった。行けなかった、ではなく、行かなかった。渡そうとしていた封筒を部屋の引き出しにしまい、そのまま就職し、そのまま忙しくなり、そのまま三年が過ぎた。
だから、今さらこの道を歩いているのは、残業で終電が一つ早まったせいでしかなかった。
商店街の真ん中あたり、以前は時計店だった場所に、見覚えのない小さな店が灯りをともしていた。間口は狭く、看板には墨でこう書かれている。
「預かり屋」
ガラス戸の向こうに、棚がいくつも並んでいた。段ボールでも古着でもなく、瓶や箱や封筒や、何に使うのか分からない小さな抽斗が、整然と収まっている。遼は通り過ぎかけて、なぜか足を止めた。
戸を開けると、鈴が一つ鳴った。
「いらっしゃい。お預けですか、お受け取りですか」
店番は、年齢の分からない女だった。黒髪を後ろで束ね、白い割烹着を着ている。古道具屋の主人のようにも、病院の受付のようにも見えた。
「……間違えました」
「間違えて入る方は多いですよ。でも、そういう方ほど、預けたものを忘れている」
女は笑いもせずに言った。声だけが妙にやわらかい。
「ここ、何を預かる店なんですか」
「忘れものです。物でも、言葉でも、約束でも。持ち主が持ちきれなくなったものを、少しの間」
冗談にしては静かすぎた。遼は店の棚を見た。小さなガラス瓶のラベルに「言いそびれた謝罪」、木箱の札に「十八歳の夏休み」、薄い封筒に「駅のホームで振らなかった手」と書いてある。どれもふざけているようで、なのに変に真面目だった。
「お客さんにも、ありますよ」
女は言って、帳面を開いた。ぱらりと紙がめくれる音がした。
「真島遼さん。預かりは一件」
「は?」
「三年前。春。未投函の手紙一通に添えて、渡せなかった言葉をお預かりしています」
遼は息を止めた。
「そんなはず、ないです。手紙は家に――」
「便箋そのものは家にあるでしょう。でも中身は半分、こちらです。持ち主が重くて持てなかったぶんだけ、時々、こちらへ流れてきます」
女は奥の棚から、細長い灰色の箱を持ってきた。古い菓子箱ほどの大きさで、ふたには何も書かれていない。ただ、遼が近づくと、かすかに沈丁花のにおいがした。高校の校門脇に咲いていた花だ。
「受け取りますか」
遼は箱に手を伸ばし、触れる寸前で止めた。
「受け取ったら、どうなるんです」
「さあ。泣く方もいるし、怒る方もいるし、黙って帰る方もいる。でも受け取らないと、ずっと商店街のどこかで足を止めることになる」
それは脅しめいていたが、不思議と嫌ではなかった。遼は箱を受け取った。驚くほど軽い。中には紙一枚しか入っていない気配だった。
「ここで開けても」
「どうぞ」
ふたを開けると、折りたたまれた便箋が一枚入っていた。家の机の引き出しに眠っているものと同じ、薄いクリーム色。開くと、見覚えのある自分の字が並んでいた。けれど最後の一行だけ、書いた記憶がなかった。
――好きでした。言わないままでも平気だと思っていたけれど、平気なふりをしていただけでした。
遼は便箋を持ったまま立ち尽くした。確かに、自分はそこまで書かなかった。書けなかった。途中で筆が止まり、ありきたりな近況と応援の言葉だけを並べて、封筒に入れて、結局出さなかったのだ。
「預かっていたぶんです」と女が言った。
「勝手に足したわけじゃありませんよ。あのとき、あなたが本当に書こうとしていたこと」
耳の奥で、春の電車の発車ベルが鳴った気がした。三年前のホーム。雫は、改札の向こうで一度だけ振り返った。そのとき遼は柱の陰にいた。見えない場所を選んで、見えないまま後悔した。
「今さらだ」
言葉は思ったより小さく出た。
「そうですね」と女はあっさりうなずいた。
「今さらのことは、多いです。でも、今さらしか届かないものもあります」
店の奥の時計が、こつ、と一つ鳴った。見ると針はどこにもつながっていないのに、ちゃんと時を刻んでいるようだった。
「相手は、もう困るでしょう。こんなもの急にもらっても」
「困らせるかもしれません」
「じゃあ」
「でも、それは相手が決めることです。渡さない理由を、先回りして全部引き受けるのは、親切ではなく臆病です」
遼は思わず顔を上げた。女は責めるふうでも、慰めるふうでもない。ただ棚のほこりを払うような口調で言っただけだった。
「受け取りは終わりです。出口はあちら」
外に出ると、商店街の風が少しぬるんでいた。たい焼き屋の前に小学生が二人並び、コインランドリーの回転音が遠くで鳴っている。いつもの夜景なのに、紙一枚ぶんだけ重心が変わって見えた。
遼はそのまま駅へ向かわず、商店街を引き返した。家に帰ると引き出しを開け、古い封筒を探した。ちゃんとあった。便箋を見比べると、箱に入っていた一枚と文章はほとんど同じで、最後の一行だけが欠けている。遼はしばらく迷ってから、新しい便箋を出した。
三年ぶりに雫へ手紙を書く。今の自分のこと。仕事のこと。商店街が少し変わったこと。あのころ見送りに行かなかったことを謝りたかったこと。そして、あのとき言えなかった言葉を、遅すぎると分かっていても、書いた。
翌朝、通勤前に郵便局へ寄った。投函口に手紙を入れるまで、何度も引き返したくなった。それでも最後は指を離した。赤い口の中へ白い封筒が滑っていくのを見て、胸の奥に長く固まっていたものが、少しだけ形を変えた。
返事は、二週間後に届いた。
封筒の表の字を見た瞬間、遼は台所で立ったまま動けなくなった。雫の字は昔より少し細くなっていた。
便箋には、驚いたこと、でもうれしかったこと、見送りに来なかったことを少しだけ恨んでいたこと、それを今さら書いてくれたから、こちらも今さら返事を書けたことが綴られていた。最後に、こうあった。
――あの商店街のたい焼き、まだありますか。来月、少しだけ帰ります。
その土曜日、遼はまた商店街を歩いた。駅前から古本屋の角まで、なるべくゆっくり。預かり屋のあった場所まで来ると、そこは空き店舗に戻っていた。ガラスの内側には何もなく、貼り紙が一枚あるだけだった。
「春期分の預かりは終了しました」
思わず笑ってしまった。季節商売みたいだ、と。
貼り紙の端には小さく、手書きで一文だけ添えられていた。
「持ち帰ったものは、どうぞご自身で」
風が吹き、貼り紙がかすかに鳴った。遼はポケットの中の返事に触れた。紙の感触はたしかで、軽くて、もうどこかへ流れていったりしなかった。
商店街の先で、たい焼きの焼ける甘いにおいがした。遼は顔を上げ、春の明るいほうへ歩き出した。