短編
春の匂いがわかる日
駅前の文具店で預かった消印のない手紙が、長く春を待っていた男の時間を静かに動かす。
駅前の古い文具店には、郵便受けによく似た青い箱が置いてあった。店の奥、便箋棚と万年筆のガラスケースのあいだに、申し訳程度の顔で立っている。正面には叔母の丸い字で、こう書かれていた。
「消印のない手紙、お預かりします」
切手はいらない。宛名も急がなくていい。今は渡せない言葉を、渡せる日まで店で預かる。受け取りの条件だけを封筒に書いておけば、約束の日に返す。そんな変わったサービスを、叔母は三十年も続けていたらしい。
叔母が亡くなって、私はこの店をたたむために町へ戻ってきた。駅前には新しいドラッグストアができ、学生はノートもペンも大きな店でまとめて買う。文具店がひとつ消えても、町は少しも困らないように見えた。
だから私は、青い箱を最初に片づけるつもりだった。けれど中にはまだ七通、未返却の手紙があった。輪ゴムで束ねられ、どれも静かに古くなっている。期限切れの約束というものは、捨てるにもためらいがあった。
そのうちの一通だけ、封筒に名前がなかった。
白い封筒の中央に、細い字でこう書かれていた。
「春の匂いがわかった日に」
差出日を見ると、七年前の三月だった。
その手紙が気になりはじめたころ、店に毎日のように来る客がひとりいた。五十代の半ばくらいの男で、濃い灰色の作業着を着て、いつも八十四円切手を一枚だけ買った。今はもう料金が違うのに、古い癖が抜けないらしい。私は訂正もせず、会計のたびに、今日は何円分です、とだけ言った。
男は切手を買うと、店先のベンチに三分ほど座り、ホームへ滑り込む電車を見て帰っていく。手紙を出すところは、一度も見たことがなかった。
四月に入る少し前、雨あがりの午後だった。店の戸を開けたとたん、男はふっと立ち止まり、空気を吸い込んだ。駅前の植え込みはまだ茶色く、春らしい花も咲いていない。けれど風だけがやわらかく、水をふくんだ土のにおいがした。
「今日は、少しわかるな」
独り言のように言ってから、男は初めて青い箱のほうを見た。
「まだ、それ、やってるんですか」
「叔母の代のままです。もう終わらせようかと思ってますけど」
「そうですか」
そこで話は終わるはずだった。けれど男はレジの前に切手を置いたまま、青い箱から目を離さなかった。
「昔、うちのが一通、預けたんです」
私は奥から未返却の束を持ってきて、封筒の表を順に見せた。男の目は、名前のない白い封筒で止まった。
「ああ」
それだけ言って、男は笑うような、困るような顔をした。
「これです」
「お名前がないので、ずっと返せなくて」
「名前を書くと、受け取りに来たくなるからって。妙な理屈でしょう」
男はベンチに座り直し、駅のアナウンスが途切れるのを待ってから話した。
七年前、奥さんは病気をして、においがわからなくなったのだという。重い病気ではなかったが、回復にも時間がかかった。味のしない食事よりつらかったのは、季節が来ても来た気がしないことだった、と男は言った。春の匂いも、雨の匂いも、洗いたてのシーツの匂いも、みんなただの情報になってしまった。
「うちのはね、春が好きだったんです。沈丁花がどこで咲いてるか、鼻で見つけるような人で」
治るまで待とう、とふたりで決めた。
春の匂いがわかった日に、この店へ来て、預けた手紙を開けようと。
「でも、その前に、死んだんです」
男の言い方は平らで、かえって長く抱えてきた時間が見えた。
病気のせいではなく、帰り道の事故だったらしい。私は慰めの言葉を探したが、どれも急ごしらえの紙みたいで、口に出す気になれなかった。
「それで毎年、春になると来てたんですか」
「ええ。切手を一枚買って、もし今日だと思えたら開けようと」
男は少し笑った。
「でも、思えないまま七年です」
私は白い封筒を手のひらでならした。薄くて、軽かった。人の迷いはもっと重そうなのに、紙になるとこんなにも軽い。
「今日、少しわかるって言いましたよね」
「少し、です」
「少しでいいんじゃないですか」
男は黙った。ホームに電車が入り、制服の高校生が何人か降りてきて、店の前を笑いながら通り過ぎた。ひとりの子の肩に、桜の葉みたいな小さなごみがついていた。春は案外そういう、雑なかたちで町に着くのかもしれない。
「叔母なら、たぶんそう言ったと思います」
私は封筒を差し出した。
「ぴったりその日なんて、なかなか来ませんから」
男は受け取ったが、すぐには開けなかった。指先で封をなぞり、封筒ごと息を吸うような仕草をした。
「読んでも、いいと思いますかね」
「書いた人は、読まれるために預けたんだと思います」
男はゆっくり封を切った。便箋は一枚だけだった。視線が数行進んだところで、男は困ったように眉を寄せた。
「字が揺れて、うまく入ってこない」
そう言って、私に便箋を差し出した。
「すみません。読んでもらえますか」
私は少しためらってから、声に出した。
「『春の匂いがわかる日へ。もしその日が私より先にあなたに来たら、おめでとう。ちゃんと季節の中に戻れたんだね。もし私が先にいなくなっていたら、約束どおり、この手紙を開けてください。待つのをやめるために書きました』」
男の肩が、わずかに動いた。
「『春の匂いは、沈丁花だけじゃありません。改札の前で濡れたコートが急に軽くなること。新しいノートを開いた子が、まだ使い慣れない指でページを押さえること。あなたが毎年、切手を一枚だけ買ってしまうこと。たぶん春は、そういう小さい癖の中に先に来ます』」
私はそこで一度、息を継いだ。店の中にはインクと紙の乾いた匂いがして、その向こうから雨あがりの土がまじってきた。
「『だから、もう私を待たないで。私のぶんまで、ちゃんと駅前を通って、ちゃんとお腹をすかせて、ちゃんと次の季節へ行ってください。手紙に消印がないのは、どこへでも行けるようにです』」
最後の一行は短かった。
「『今日は、きっと春です』」
読み終えると、しばらく誰も何も言わなかった。男は便箋を折り直し、封筒に戻した。その手つきは、壊れ物をしまうというより、ようやく持ち主の場所へ返すように見えた。
「うちのらしいな」
男は言った。
「理屈っぽくて、勝手だ」
けれど声は、七年ぶん少し軽くなっていた。
その日、男は切手を置いて帰らなかった。代わりに大学ノートを一冊買った。表紙の青い、ごく普通のものだった。
「何か書くんですか」と私が聞くと、
「たぶん。消印のいらないことを少し」
と答えた。
男が帰ったあと、私は青い箱の中をあらためて見た。空になった場所がひとつあるだけで、箱は急に役目を終えた顔をした。なくしてしまうには惜しい気もした。
翌週、店じまいの貼り紙の横に、小さな紙を一枚だけ足した。
「消印のない手紙、お預かりします。
受け取りの日は、少しでかまいません」
新しい客が来るあては、べつにない。
それでも朝、シャッターを上げると、駅前の風が紙の匂いをかすかに揺らした。私は店の奥で、叔母の丸い字によく似せたつもりの自分の字を見て、少し笑った。
春の匂いは、まだはっきりとはわからない。
けれど、わからないままでも、店を開ける理由には十分だった。