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短編

返事の部屋

空室のはずの部屋に返事をしてしまった夜から、私の暮らしは静かに別のものへ差し替わっていく。

Genre
ホラー
Series
単発
#アパート#空室#名前#境界

青錆荘に越してきた日のことを、私は妙に細かいところまで覚えている。玄関脇の割れたタイル、二階の踊り場に置かれた枯れかけのポトス、郵便受けの列の中で、ひとつだけ名札のない銀色の箱があったこと。
その箱は二〇七号室のものだと、不動産屋は鍵を渡しながら言った。

「そこ、ずっと空室なんです。でも気にしなくていいですから」

気にしなくていいと言われると、人は気にする。
私は二〇六号室に入った。間取りは狭かったが、窓の向こうに川沿いの桜並木が見え、古い建物にありがちな湿った匂いも、春先の風でいくらか薄まっていた。ひとりで暮らすにはちょうどいいと思った。

最初の三日間は何もなかった。
四日目の夕方、郵便受けに白い封筒が入っていた。差出人はなく、表に私の部屋番号だけが整った字で書かれていた。中には名刺ほどの紙が一枚。

「在室確認
聞こえても返事をしないでください。
今月の確認者は二〇六号室です。
異常がなければ、裏面に日付を書いて二〇七号室へ戻してください。」

裏には、過去のものらしい日付が几帳面に並んでいた。
先月、その前の月、そのまた前の月。筆跡は毎回違う。女の丸い字も、年寄りじみた震える字も、急いで書いたような若い字もある。最後の行だけが空白だった。

悪戯だろうと思った。
けれど捨てるのも気味が悪く、私はその夜、日付を書き、二〇七号室の郵便受けに滑り込ませた。名札のない銀色の箱は、口だけが妙に新しく磨かれていた。

その晩、廊下で音がした。
こと、こと、と硬いものがドアに触れるような、控えめな音だった。隣人が鍵でも落としたのかと耳を澄ますと、今度は女の声がした。

「いますか」

若くも老いてもいない、輪郭の薄い声だった。
私は息を止めた。冗談めかした気配がなかった。ドアスコープを覗く勇気はなく、台所の明かりを消して、布団の中で朝を待った。

翌朝、二〇五号室の老婆が共有廊下を掃いていた。事情を話すと、彼女は箒を止めもせずに言った。

「返事しなかったでしょう」
「ええ」
「なら大丈夫。紙だけ返しておけば」

大丈夫、という響きは慰めより確認に近かった。
私は笑って受け流そうとしたが、老婆は私の顔を一度だけ見て、低い声で続けた。

「返事をしたら、向こうが覚えるから」

何を、と聞き返す前に、彼女はもう掃除の音を立て始めていた。

それから毎月、白い封筒が届いた。
同じ文面、同じ空白。私は日付を書いて返した。
季節は進み、桜は散り、川沿いの風は湿気を帯びた。青錆荘の住人たちは二〇七号室について何も語らないまま、しかし誰もその習慣を不思議がらないようだった。まるで町内会の回覧板のように、当たり前の顔で署名を引き継いでいる。

奇妙なのは、二〇七号室が本当に空なのかどうか、確かめた者がいないことだった。
管理会社に電話しても、「空室です」の一点張りだった。
ただ、雨の日だけ、二〇七号室のドアの前にうっすら濡れた足跡が残る。裸足の、小さめの、だれのものとも知れない足跡。上からも下からも続いておらず、いつもそこにだけ現れて、昼には乾いて消えた。

九月の終わり、仕事で遅くなった夜、私はやってしまった。
両手に買い物袋を提げ、鍵穴に鍵を差し込んでいたとき、背中側の暗がりから、すぐ耳元で声がした。

「いますか」

それはあまりにも日常的な問いかけだった。
宅配便にでも返すように、私は反射で答えていた。

「はい」

言った瞬間、廊下の空気が静かにたわんだ。
風もないのに、二〇七号室の郵便受けの蓋が、かち、と開いて閉じた。
私はゆっくり振り返った。そこには誰もいなかった。長い廊下の突き当たりの非常灯だけが緑に点っていた。

部屋に入ると、違和感がいくつもあった。
マグカップの取っ手が左向きに置かれている。洗面所の歯ブラシが濡れている。カーテンが、私の好みと逆側で束ねられている。
盗まれたものはない。壊されたものもない。
ただ、私の生活の癖だけが、私ではない誰かのものに、そっと並べ替えられていた。

翌朝、二〇五号室の老婆は私を見るなり目を伏せた。

「返事、したのね」

私は言い訳のようにうなずいた。
老婆はため息をつき、共有廊下の掲示板を顎で示した。
住人名簿のプレートが並ぶ中、二〇六号室の欄だけが白紙になっていた。
そして二〇七号室には、昨夜までなかったはずの小さな札が差し込まれていた。

私の名字が、そこにあった。

管理人室に駆け込むと、老いた管理人は驚きもしなかった。
机の引き出しから白い封筒を束にして取り出し、輪ゴムを外して私の前に置いた。日付を書かれた在室確認の紙。十年分以上あった。最後の署名が突然途切れ、その次の月から別の筆跡に変わる箇所がいくつもある。

「空室っていうのはね」と管理人は言った。
「誰もいない部屋じゃないんです。だれのものでもない部屋のことです。ここは古い建物だから、そういう隙間ができる。隙間には、返事を欲しがるものが来る」

私は理解したくなかった。
理解しなくても、もう遅いのだということだけはわかった。

「じゃあ、二〇六号室は」
「もう埋まりました」

管理人の言い方は、入居が決まった物件について話すのと同じ調子だった。

「あなたが向こうに移れば、ひとまず他の部屋には広がりません。紙を書き続けてください。空であることを、毎月、ちゃんと埋めるんです」

夕方、私は二〇七号室の鍵を渡された。
開けた部屋は驚くほど普通だった。六畳一間、古い流し台、薄いカーテン。畳だけが新しく、窓際には小机があった。引き出しには、歴代の確認者が使ったらしい黒いボールペンが何本も入っている。
そして押し入れの天袋に、一冊のノートがあった。
最初の頁には、私と同じような字でこう書かれていた。

「返事をしたら、向こうがあなたの毎日を覚えます。
でも、紙に名前と日付を残している限り、全部は取られません。
最初のうちは、自分の部屋の音がします」

その夜、壁の向こうから物音がした。
二〇六号室――いや、もとの私の部屋から、湯を沸かす小さな音、戸棚を閉める音、スリッパが床を擦る音。
私が毎晩立てていた、私自身の生活音だった。

やがて、こと、こと、とドアを叩くような音がした。
つづいて、少しだけ掠れた、聞き覚えのある声がする。

「いますか」

私は机に向かい、白い紙の裏面に日付を書いた。
手が震えて、最初の数字を少しだけ書き損じた。
返事の代わりに、紙を封筒へ入れる。
その作業だけが、まだ私のものだと思えた。

廊下へ出ると、向かいの二〇六号室の郵便受けには、きれいな新しい名札が入っていた。
私の知らない名前だった。
けれど部屋の内側では、私の癖で、私の湯呑みの置き方で、私の足音の間で、だれかがもう暮らし始めていた。

私は封筒を差し入れ、投函口が閉じる小さな音を聞いた。
それはどこか、返事に似ていた。