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短編

返事のいらない部屋

古いアパートに越した女は、壁の向こうから自分宛ての返事だけが聞こえる部屋に住みはじめる。

Genre
ホラー
Series
単発
#怪談#アパート#声#孤独#隣人

引っ越し先を決めた理由は、家賃が安かったことと、南向きの窓が思ったより広かったこと、それから「隣はずっと空室ですよ」と不動産屋が笑って言ったことだった。

人の気配が苦手だった。

以前住んでいたマンションでは、夜中の足音や、水道をひねる音や、笑い声が、壁一枚隔てただけで自分の生活に入り込んでくるのが耐えられなかった。だから隣室が空いている二階の角部屋という条件は、私にとってかなり魅力的だった。

築四十年の木造アパート「日高荘」は、外階段の錆びと郵便受けのへこみを除けば、想像よりずっときちんとしていた。大家の上野さんは背の低い老婦人で、契約の日、鍵を渡しながらこう言った。

「壁、薄いからねえ。もし何か聞こえても、気にしないのがいちばんよ」

冗談めかしていたが、妙に耳に残った。

最初の三日は静かだった。むしろ静かすぎるほどで、窓の外を走る電車の音のほうが、室内の生活音よりも身近に感じられた。

四日目の夜、歯を磨いているときだった。

洗面所の曇った鏡に向かって、私はなんとなく独り言を言った。

「この部屋、思ったより悪くないかも」

すると、右の壁の向こうから、女の声がした。

「そうでもないよ」

思わず歯ブラシを落とした。

壁の向こうは空室のはずだった。息を止めて聞き耳を立てたが、それきり何も聞こえない。テレビの音も、足音も、衣擦れもない。ただ、古い建物が持つ乾いた沈黙だけがある。

翌朝、出勤前に隣の郵便受けを見た。錆びた口はテープで塞がれ、表札もない。ドアノブには管理会社の古い名札がぶら下がったままだった。

帰宅してから大家に電話をすると、上野さんは「ああ、隣ねえ」と言ってから少し間を置いた。

「入居者はもう何年もいないよ」

「昨日、声がしたんです。女の人の」

「テレビじゃないの」

「テレビじゃなくて、返事みたいな感じで」

受話器の向こうで、上野さんは咳払いをした。

「もし話しかける癖があるなら、やめたほうがいいね」

「え?」

「独り言。返してくるから」

そう言って、電話は切れた。

意味がわからなかった。

けれど、その夜から私は確かに気をつけた。声に出さない。思っても言わない。部屋ではできるだけ物音を立てず、帰宅したらすぐイヤホンをつけた。壁の存在を忘れるために。

それでも、返事は届いた。

冷蔵庫を開けて、卵がないと思った瞬間、壁の向こうで声がした。

「昨日で切れてたよ」

コンビニの袋からレシートが見つからず、舌打ちしかけたときには、

「財布の裏」

と、低く囁いた。

私は一度も口に出していない。なのに、向こうはちょうどいい返答だけをよこしてくる。質問に対する答えではなく、私が胸のうちで形にしかけた言葉の、その続きのような返事だった。

数日経つころには、恐怖よりも気味の悪い慣れが勝っていた。

私は会社でほとんど誰とも話さない。昼休みは屋上の隅でパンを食べ、帰宅すれば動画を流しっぱなしにして眠る。会話のない日が何日も続くことがある。だから壁の向こうの声は、嫌なのに、どこかで生活の継ぎ目になってしまった。

雨の夜、停電があった。

部屋の明かりが一瞬で消え、冷蔵庫の低い唸りも止んだ。窓の外は遠くで稲光が走っているだけで、部屋の輪郭はすぐ闇に沈んだ。

スマホのライトを探ろうとして、私は思わず声を出した。

「どこだっけ」

壁の向こうから、すぐ返ってきた。

「枕の下」

白い指先が、背筋をなぞったみたいにぞっとした。手探りで枕をめくると、本当にスマホがあった。寝落ちする前に触って、そのまま差し込んでいたらしい。

ライトをつけた。自分の部屋が青白く浮かび上がる。机、カーテン、積み上がった段ボール。壁紙の継ぎ目まで見えるのに、隣の気配だけは見えない。

そのまま私は、初めて壁に近づいた。

「……誰なんですか」

沈黙。

停電のせいで、建物全体が息を潜めている。

もう一度、少し大きな声で聞いた。

「何で、私に返事するんですか」

しばらくして、向こうで何かが擦れる音がした。椅子を引くような、爪で壁紙をなぞるような、小さく湿った音。それから、ひどく近いところで声がした。

「あなたが、前にいたから」

電気が戻ったのは、その直後だった。

眩しさに目を細めてから、私はすぐ玄関を飛び出した。隣の部屋の前に立つ。古いクリーム色のドア。テープで塞がれた郵便受け。管理会社の名札。どれも昼間見たままだ。

なのに、耳を当てると、中で誰かが泣いていた。

低く、息を呑むように、女が泣いていた。

私は転がるように階段を降り、上野さんの部屋を叩いた。事情を説明すると、老婦人はひどく嫌そうな顔をしたが、やがて鍵束を持ってきた。

「開けたこと、なかったのにねえ」

と言った。

錆びついた鍵は二度引っかかって、それから重たく回った。ドアを開けると、黴と、長く閉め切った布団のような匂いが流れ出た。

部屋は空だった。

畳は日に焼け、窓は新聞紙で目張りされ、押し入れの襖は半分外れている。家具も家電も何もない。ただ、壁際に一台だけ、古い留守番電話が置かれていた。コードは抜け、電源も入っていない。なのに赤いランプだけが点滅していた。

上野さんはそれを見た瞬間、顔色をなくした。

「まだあるのかい」

「これ、何ですか」

答えずに老婦人は留守番電話を持ち上げ、乱暴に裏返した。カセットテープの蓋が外れ、中のラベルが見えた。震えた字で、こう書いてある。

『二〇二号 佐伯さんへ』

「前の人の」

上野さんは唇の端を引きつらせた。

「隣に住んでた子。あんたと同じで、一人で、あまり喋らない子だった。ある日いなくなったよ。荷物もそのままでね。警察も来たけど、結局わからずじまい」

「じゃあ、これ……」

「留守電に、自分で録音したんだって。寂しいから、返事をくれる声を残しておくんだって。最初は独り言に合わせて、適当な相槌を吹き込んでたらしいけど、そのうち録ってないことまで返ってくるようになった、って」

私は留守番電話を見た。コードは抜けている。受話器もない。ただ赤い点滅だけが、規則正しく、何かを待つ心臓みたいに明滅している。

「捨てられなかったんですか」

「捨てたよ、何度も」

上野さんは小さく言った。

「気づくと、ここに戻ってる」

その夜、私は眠れなかった。隣室は再び施錠され、上野さんが留守番電話も持っていったはずなのに、二時を回ったころ、壁の向こうで小さくベルが鳴った。昔の電話の、澄んだ、不吉な音だった。

一回。

二回。

三回。

留守番電話に切り替わる間の、あの妙な静けさまで聞こえた。

やがて、機械のテープが回るかすかな音がして、女の声が流れた。若く、細く、擦り切れそうな声だった。

『ねえ、聞こえてるなら、返事して。わたし、ここにいるから』

息が止まった。

その声は壁の向こうからではなく、私の部屋の押し入れの中から聞こえていた。

凍えた足で襖を開けると、奥の板壁に、小さな穴が空いていた。拳ひとつ入らないほどの、雑に塞いで、またこじ開けたような穴だった。向こう側の暗闇が、こちらを覗いていた。

私はしゃがみこんで、穴に耳を寄せた。

湿った空気の底で、誰かがじっと息をしていた。

そのとき、穴の向こうから、ひどく聞き慣れた声がした。

「返事して」

私の声だった。

喉の奥が裏返るほどの悲鳴が出かかったのに、何も音にならなかった。穴の向こうで、私の声はもう一度、今度は少し笑って言った。

「今度は、あなたが向こうね」

翌朝、私は会社に行かなかった。荷造りをして、この部屋を出るつもりだった。だが段ボールに服を詰めているあいだじゅう、壁の向こうからは静かな返事が続いた。

「それは入らないよ」
「鍵、なくすよ」
「夕方までには間に合わないよ」

まるで、ずっと前から私の暮らしを知っているみたいに。

最後に玄関の鍵を閉めようとしたとき、私は気づいた。ドアの内側、郵便受けの下に、誰かが爪で何度も擦って刻んだ文字がある。

薄く、けれど確かに読めた。

返事をすると、場所が入れ替わる。

私は鍵を落とした。

その音に反応するように、隣の空室から、私の声で「だいじょうぶ」と返ってきた。

廊下には誰もいなかった。春の昼の光だけが、埃を明るく浮かべていた。

だから私は、まだここにいる。出ていく支度をしたまま、声を出さないように暮らしている。息を潜め、考えごとにも形を与えないようにしている。

それでも時々、どうしても言葉が喉まで上がってしまう夜がある。

そんなとき、壁の向こうでは、私が言えなかったはずの続きを、もうひとりの私が静かに引き受ける。

返事はいつも、やさしい。やさしいからこそ、いちばん怖い。