短編
返事のいらない郵便受け
誰も住んでいないはずの隣室の郵便受けに手紙を入れた夜から、団地の静けさが少しずつ返事を始める。
雨の夜になると、古い団地は決まって息をひそめた。
外廊下の鉄柵は濡れて黒く、階段の踊り場の蛍光灯は虫の死骸を抱えたまま青白く震えている。音といえば、どこかの部屋の換気扇が回る鈍い唸りと、排水管を落ちていく水の気配くらいだった。
三階の端、三〇五号室に住んで半年になるが、私はまだこの団地の静けさに慣れなかった。都心から離れ、家賃だけを理由に選んだ場所だった。前の住人が残していったのか、玄関脇の郵便受けの内側には、小さく掠れた文字で「何も入れないで」と書かれていた。管理会社に伝えるほどのことでもないと思い、そのままにしていた。
問題は隣の三〇六号室だった。
表札は外されたまま、ドアノブには薄い埃が積もっている。けれど、郵便受けだけはいつ見てもきれいだった。チラシが溜まることもなく、投函口の蓋はよく動かされているように見えた。夜遅く帰ると、たまに内側から小さく金属の鳴る音がした。誰かが住んでいるのかもしれないと思っていたが、一度も顔を見たことはない。
二階の住人らしい年配の女が、エレベーターで一緒になったとき、私が何気なく三〇六号室のことを訊くと、眉を上げて言った。
「あそこ、今は空いてるはずよ」
「でも、郵便受けが」
「そういうの、見ないほうがいいわよ」
それだけ言って、女は一階で降りた。言い方が妙に具体的で、私はむしろ意識してしまった。
その週の金曜、会社でひどく嫌なことがあった。退勤間際に上司から企画の修正をまとめて突き返され、終電に近い時間まで残業した。帰り道、コンビニで安い缶チューハイを二本買い、三階まで重い足を引きずって上がった。廊下は濡れていて、いつものように静かだった。
部屋に入る前、私はふと三〇六号室の郵便受けに目をやった。蓋の端に、白い紙がほんの少しだけ挟まっている。誰かが取り忘れたものかと思い、指をかけると、それは折り畳まれた便箋だった。
宛名も切手もない。封もされていない。
酔いも手伝って、私はそれを開いた。
中には一行だけ、整った細い字でこう書かれていた。
「夜中に泣くなら、窓を閉めてください」
しばらく意味が分からなかった。誰かの悪戯だろうか。私が泣いたことなどない。窓も開けていない。だが、数日前の深夜、仕事の電話を受けながら苛立って声を荒げたことはあった。隣に聞こえていたのかもしれないと思い当たり、急に気まずくなった。
私は自室に入ってから、机のメモ帳を一枚ちぎり、短く返事を書いた。
「すみません。気をつけます」
書いてから、馬鹿げていると思った。空室だという話を思い出したからだ。だが、わざわざ捨てるのも妙で、そのまま部屋を出て、三〇六号室の郵便受けに折り畳んだ紙を差し入れた。蓋は軽く、するりと飲み込んだ。
返事など来るわけがない。
そう思って寝た。
翌朝、出勤しようとして自分の郵便受けを開けたとき、昨夜入れたはずのメモが戻ってきていた。
見覚えのある安い罫線の紙。けれど私の字の下に、細い字が一行増えていた。
「いいえ、泣いていたのはあなたではありません」
背中を、冷たい手でなぞられたような気がした。
誰かの悪質な悪戯だと考えようとしたが、私の部屋に入らなければこの紙は戻せない。郵便受けは外側からしか開かない構造ではなかったが、内側の取り出し口は玄関の扉の内側にある。つまり、誰かが廊下から投函したのではなく、私の郵便受けを一度開けて入れたことになる。合鍵。管理人。いくつかの可能性を思い浮かべても、気味の悪さは消えなかった。
その日から、夜になると耳を澄ます癖がついた。
雨のない晩でも、三〇六号室の向こうから、何か湿った音がする。すすり泣きに似ていることもあれば、喉の奥で息を殺すようなかすかな震えにも聞こえた。壁が薄いだけだ、自分が神経質になっているだけだ、と言い聞かせた。けれど、音は決まって午前一時すぎに始まり、二十分ほどで止む。そして止んだあと、廊下の郵便受けの蓋が、こん、と一度だけ鳴るのだった。
返事をしなければいい。
そう思ったのに、三日目の夜、私はまた紙を書いた。
「誰が泣いているんですか」
翌朝、返事はすでに入っていた。
「前の人です」
私は管理会社に電話した。三〇六号室のことを尋ねると、担当の若い男は事務的な口調で、現在空室であること、前の入居者は一年前に退去済みであることを告げた。退去理由を訊くと、個人情報なので、と言葉を濁された。
「事故物件とかではないですよね」
思いきって尋ねると、数秒の沈黙のあとで、「そういう報告は受けておりません」と返ってきた。妙に慎重な言い方だった。
その夜、私は初めて一時過ぎまで起きて待った。部屋の電気を消し、玄関に座り込み、ドアの覗き穴から廊下を見張った。蛍光灯の白さが水底みたいに滲んでいた。遠くでエレベーターが動く音がして、それきりまた、団地は冷えた井戸のように静まった。
一時七分。
壁の向こうで、かすかな啜り上げる音がした。
女とも子どもともつかない、息の短い泣き方だった。私は立ち上がり、ほとんど無意識に玄関を開けた。廊下の空気はぬるく湿っている。三〇六号室のドアに耳を近づけると、今度ははっきり聞こえた。狭い部屋の奥で、誰かが声を殺して泣いている。
「……いますか」
口にした自分の声が、廊下で薄く反響した。
泣き声が止んだ。
その静けさの深さに、私はいきなり後悔した。何も知らないまま部屋へ戻るべきだった。だが次の瞬間、三〇六号室の郵便受けの蓋が、内側からゆっくりと持ち上がった。
暗い投函口の隙間に、白いものが見えた。指だった。細く、濡れたように艶のない指先が、蓋を支えている。その奥には何も見えない。ただ黒い空洞だけがある。
私は一歩下がった。叫べなかった。
指は郵便受けの内側から、折り畳んだ紙をひとつ押し出した。紙は廊下に落ち、濡れた床で小さく滑った。指はすぐに引っ込み、蓋がぱたりと閉じた。泣き声はもうしない。
私は長いこと動けず、やっと紙を拾った。開くと、あの細い字で書かれていた。
「あなたの部屋の人も、最初は返事をくれました」
足元の感覚が失せた。
私の部屋の人。前の住人。郵便受けの内側にあった「何も入れないで」の文字。あれは残された落書きではなく、警告だったのだ。
私は部屋へ駆け込み、内側から鍵をかけ、玄関の郵便受けをガムテープで塞いだ。朝まで一睡もできなかった。壁の向こうは静かで、何の音もしないのがかえって恐ろしかった。
夜が明けるころ、郵便受けの向こうで、こつ、と小さく音がした。
一度だけではなかった。
こつ、こつ、こつ。
節度ある、遠慮がちなノック。人差し指の骨で叩くような軽さだった。
私は布団をかぶって耳を塞いだ。それでも音は止まず、やがて紙の擦れる音が混じった。投函口は塞いだはずなのに、何か薄いものが差し込まれてくる気配がする。見たくないのに、見なければもっとひどいことになる気がした。
昼になってから、恐る恐る玄関へ行くと、床に白い紙が落ちていた。ガムテープは破られていない。差し込める隙間などないはずなのに、紙は確かに内側にある。
開いた便箋には、昨日と同じ字でこうあった。
「返事は要りません」
「でも、開けてください」
その夜から、私の郵便受けは毎晩一度だけ鳴る。
私はもう返事を書かない。書いてはいけないのだと分かっている。
ただ、雨の強い夜だけは、どうしても眠れない。
向こうで誰かが泣いていて、こちらの郵便受けの向こう側でも、別の誰かがじっと待っている気がするからだ。
最近、管理会社が三〇六号室の新しい入居者を募集し始めた。
廊下の掲示板に小さな紙が貼られ、週末には内見らしい若い夫婦が来ていた。女のほうが、玄関脇の郵便受けを開けて中を覗き込み、首をかしげていたのを見た。
何も入れないで、と伝えるべきか迷った。
けれど、言葉にした瞬間、こちらに気づかれる気がして、私はカーテンの陰に隠れた。
さっき、また郵便受けが鳴った。
見なくても分かる。
今夜の紙にはたぶん、新しい字が増えている。
「隣が決まりそうです」