短編
返却日のない本
閉館を控えた町の図書館で、司書の女性は返却日の記されていない一冊の本を通して、言葉にできなかった別れの居場所を見つけていく。
町立みずは図書館は、春の終わりに閉まることになっていた。
古い配管は毎冬きしみ、書庫の窓は最後までまっすぐ閉まらなかった。それでも開館十分前になると、玄関前にはいつもの顔ぶれが揃った。新聞だけを読む老人、料理本を抱えて帰る中学生、雨の日だけ来る人。そういう人たちにとって、この建物は本を借りる場所である前に、少しだけ言葉を置いていける場所だった。
司書の小夜は、返却された本のあいだから一枚のカードを見つけた。
貸出カードではない。館内で使っていたどの用紙とも違う、薄いクリーム色の紙で、線も罫もなく、中央にただ小さく鉛筆で丸がひとつ描かれているだけだった。
丸の下に、日付の欄らしき空白があったが、何も書かれていない。
本は詩集だった。背表紙の金文字はかすれ、開くと紙がわずかに湿った土のような匂いを立てた。詩集のあいだには、椿の花びらが一枚、完全に色を失う前の深い茶色で挟まっていた。
「また入ってたのね」
カウンターの向こうから、再任用の司書である野添が言った。彼女は七十を越えているが、返本の背を撫でる手だけは誰よりも若かった。
「知ってるんですか、このカード」
「うちでは昔、たまにあったの。返却日のない本」
小夜が首をかしげると、野添は笑った。
「借りた人が、返しそびれたものを返すためのしるし。そういう言い方をしてた人がいたのよ」
「延滞票みたいなものですか」
「もっと静かなもの」
野添はそれ以上説明しなかった。
閉館のお知らせを出してから、利用者は増えた。惜しむように何度も館内を巡る人もいれば、今さらのように利用登録をする人もいた。思い出を借りに来るのだと、小夜は思った。本そのものより、本を読んでいた自分を引き取りに来るのかもしれない。
その詩集は貸出処理をしていないはずなのに、いつのまにか返却棚にあった。台帳を調べても、最後に誰が借りたかはわからない。紙の記録が電算化される前から蔵書されている本だった。
小夜はなんとなく、その本を廃棄候補の箱に入れられなかった。ページの端に指の油が薄く残り、何度も読まれた気配があったからだ。椿の花びらのある頁には、鉛筆でごく小さく線が引かれている。
さよならは、
言葉より先に
置いていかれる。
詩人の名より、その一節の方が先に胸へ入ってきた。
数日後、閉館案内の掲示を眺めていた男が、小夜に声をかけた。六十代の後半くらいで、背筋は伸びていたが、手に持った帽子のつばだけが何度も折り曲げられていた。
「あの……まだ、古い詩集はありますか。緑色の表紙で、椿の栞が入っているかもしれない本です」
小夜は思わず息を止めた。
「あります。どうしてそれを」
「妻が昔、よく借りていました。返したはずだとずっと言っていたんですが、亡くなる前に、あの本だけは気になっていると」
男は言いよどみ、玄関の方を見た。出ていくことも、入ってくることもためらう人の目だった。
「家を片づけたら、花びらだけ出てきたんです。本に挟んだままだと思っていたのに、そうじゃなかった。だから返したかったのか、返せなかった何かがあったのか、もうわからなくて」
小夜は書庫から詩集を持ってきた。男は表紙を見ただけで、ひどく安堵した顔をした。だが椅子に座って本を開くと、その安堵はすぐに別のものへ変わった。懐かしさと、悔いと、やっと間に合ったという驚きが、順番を守らずに顔へ出た。
「これです。妻は、病院へ行く日もこれを持っていきました。待合室で読むには詩がちょうどいいって」
「借りていかれますか」
「いいえ」
男は静かに首を振った。
「今日は返しに来たんです。遅すぎますけど」
帽子の内側から、薄い封筒が出てきた。宛名も切手もない、小さな封筒だった。
「中を見ないで、本に挟んでもらえますか」
規則なら断るべきだと小夜は思った。蔵書への私物の差し込みは禁止されている。閉館前の整理中ならなおさらだ。けれど男の声は、お願いというより、長く持ちすぎたものをようやく手放す人の重さでできていた。
小夜は野添の方を見た。彼女は遠くで返本車を押しながら、こちらを見ずに言った。
「返却日のない本には、ときどきそういうのもあるわ」
男が帰ったあと、小夜は封筒を開かなかった。そのまま、椿の花びらがあった頁へ挟んだ。そして例のクリーム色のカードを取り出し、丸の下の日付欄に、今日の日付を書いた。
その瞬間、何かが解決したわけではない。ただ、行き場のなかった時間に棚番号が与えられたような気がした。
閉館まであと十日という日、図書館では「思い出の一冊」展示を始めた。利用者が短い札を書き、好きだった本の横へ吊るす。小夜はあの詩集もそこへ置いた。紹介文は書かなかった。代わりに、返却カードだけを横へ添えた。丸の下には、誰かが続きを書けるよう空白を残した。
最初に札をつけたのは、新聞だけを読む老人だった。次に、雨の日だけ来る人が、青い傘を畳んでから黙って書いた。料理本を借りる中学生は、「おばあちゃんが作ってくれた味を忘れないため」と、レシピ本の横に札を結んだ。
札は日に日に増えた。ありがとう、とだけ書く人もいた。ここで涼んだ、と正直に書く子どももいた。誰にも言わなかった離婚の夜にいた、と小さな字で残した人もいた。
図書館は、本を貸す場所から、少しずつ別れを返す場所になっていった。
閉館前日、男がもう一度来た。手ぶらだった。あのときより、肩の位置が少し下がっていた。
「妻のこと、ようやく家で話せました。娘に。十年かかりました」
小夜はうなずいた。
「それは、よかったです」
「本当に返したかったのは、本じゃなかったみたいです」
「そうかもしれませんね」
男は展示台の詩集を見て、返却カードの空白に目を留めた。やがて貸出用の短い鉛筆を借りると、丸の下へ一行だけ書いた。
ちゃんと、さよならを言いました。
字は少し震えていたが、最後の句点だけが深く、ためらいなく打たれていた。
閉館当日、朝から風が強かった。玄関の自動扉はいつもよりせわしなく開閉を繰り返し、館内には紙の匂いと、名残を惜しむ人たちの上着の匂いが混ざった。
最後の来館者を見送り、消灯前の見回りをしていた小夜は、展示台の前で足を止めた。詩集の横に、新しいクリーム色のカードが一枚増えていた。今度は丸の下に、誰かの字でこう書かれていた。
ここで始めてもいいですか。
野添が隣に来て、眼鏡の奥で目を細めた。
「返却ばかりじゃないのね」
「はい」
小夜はそのカードを胸の内で読み返した。閉まる場所にも、受け取れるものは残るのだと思った。失くしたものや言いそびれたことだけではなく、これから持っていくものまで、人はどこかへいったん置かなければ始められない。
消灯の前に、小夜は最後の業務として一枚の紙を入口に貼った。
返却ポストはありません。
でも、置いていきたい言葉があれば、どうぞ。
もう図書館ではない場所に、図書館の続きを残すための、小さな掲示だった。外では春の終わりの風が、街路樹の若い葉を裏返していた。閉じる音は確かにしたが、それは終わりの音というより、誰かが静かに本を棚へ戻す音に近かった。