短編
返却期限のない手紙
閉館を控えた図書館で、昔の自分が父に宛てた未送信の手紙を受け取った私は、ようやく返せなかった別れを自分の手で終わらせる。
六月の終わり、薄い灰色のはがきが届いた。
差出人は、いまはほとんど使われていない市立ひばり野図書館分室。そこには事務的な字体で、閉館整理に伴い、保管物の引き取りを願いますとだけ書かれていた。保管物の内容は、「手紙一通」。
私はその文面を、台所の流しの前で三度読んだ。麦茶の氷がからりと鳴っても、意味がうまく染みてこなかった。図書館に預けた手紙なんて覚えがない。けれど、宛名の横に記された名前はたしかに私の旧姓で、いまでは役所の書類でしか見ない字面だった。
日曜の午後、雨の匂いのする風のなかを歩いて分室へ向かった。駅前の大きな図書館ができてから、この古い建物はずっと忘れられたみたいに静かだった。蔦の這った外壁、少し低い天井、雨を吸った木の匂い。子どものころ、母に連れられてきた場所の空気が、そのまま遅れて残っている。
カウンターには、白髪の司書がひとりいた。名札には久世とある。私がはがきを差し出すと、彼女は目を細めて、ああ、と小さく息をついた。
「山岸さんのお手紙ですね。よかった、来てくださって」
「これ、なんですか」
「むかし、夏休みにやっていたんです。書いたけれど出せない手紙を、図書館で預かる催し。読み返したくなったら取りに来てもいいし、そのまま置いていってもいい。そういう棚がありました」
言われて、かすかに思い出した。児童書のコーナーの奥、返却口の隣に、小さな木箱が置かれていたこと。色鉛筆で「ことばのあずかり棚」と書かれていたこと。けれど、そこに自分が何を入れたのかまでは蘇らない。
久世さんは奥から薄い茶封筒を持ってきた。封はされておらず、角が少しだけ丸くなっていた。表には幼い字で、たった三文字。
父へ
喉の奥が、乾いた紙みたいにひきつった。
父が家を出たのは、私が十二の夏だった。怒鳴り声の多い人ではなかった。むしろ静かな人で、食卓でも必要なことしか言わなかった。だから、いなくなった朝も、家のなかの空気はあまり変わらなかった。ただ、父の箸だけが食器棚に残って、コップだけが一つ足りなかった。
母は「しばらく帰らないだけ」と言った。しばらくは一年になり、二年になり、やがて言い換えられなくなった。離婚届が出され、私は母の旧姓に戻った。父からの連絡は一度もなく、待つのをやめたのがいつだったかも、はっきりしない。
「こちらで読まれますか」
久世さんの声にうながされ、私は窓際の机に座った。雨はまだ落ちていないのに、空だけが濡れたような色をしていた。
便箋は二つ折りで、一枚だけだった。開くと、丸みのある、まだ世界を信じている子どもの字が並んでいた。
――おとうさんへ。
きのう、学校であさがおの絵をかきました。
わたしのは、うまくむらさきになりませんでした。
おかあさんは、もうすぐ夏休みだから本をたくさんかりなさいと言いました。
きょうはカレーです。
このまえ、かさをもっていくのをわすれていたので、つぎはわすれないでください。
つぎに会うときは、ちゃんとさよならを言ってください。
そこまで読んで、私は顔を上げた。
責める言葉が書かれていると思っていた。どうしていなくなったのか、どうして迎えに来ないのか、そういう鋭い言葉を、私は昔の自分に期待していたのだと思う。けれど、そこにあったのは拍子抜けするくらい、いつもの暮らしだった。あさがお、図書館の本、夕飯のカレー、忘れた傘。その最後にだけ、小さな棘みたいに、さよならを言ってください、とあった。
その一文のために、この手紙は出されなかったのかもしれない。宛先を知らなかったからではなく、届いてしまったら本当に終わると、子どもの私は知っていたのだろう。
「お父さまには、届かなかったんですね」
いつのまにか近くに来ていた久世さんが、静かに言った。私はうなずいた。
「この棚、分室が閉まるので片づけることになって。お返しするか、こちらで処分するか、選んでいただく決まりなんです」
「処分、というのは」
「溶解に回します。本と同じです。読めなくなった紙は、別の紙になります」
私はその言い方が少し好きだった。捨てるのではなく、別の紙になる。なくなるのでなく、読めないかたちへ移るだけなのだとしたら、別れももう少し穏やかに思える。
窓の外で、風が紫陽花を揺らした。分室の脇の花壇には、毎年だれかが植え替えるのか、色の違う花がきちんと並んでいる。父がいなくなった年の夏も、こんな色だった気がした。
「紙とペン、お借りできますか」
自分でも唐突だと思ったが、久世さんは何も聞かずに細い万年筆を持ってきた。私は便箋の裏にしようとして、やめた。新しい紙を一枚もらい、短く書いた。
――もう、待ちません。
あの日のことを、わたしのせいにはしません。
さよならは、きょう、わたしが言います。
書き終えると、少しだけ指が震えた。立派な言葉ではないと思った。許すとも、忘れるとも書けなかった。ただ、これ以上、自分の時間を玄関に置いたままにしないための、最低限の文だった。
二枚の手紙を重ねて封筒に戻し、私は返事を待つような気持ちでしばらく手に持っていた。けれど返事は来ない。来ないことを、私はもう知っている。
「処分をお願いします」
そう言うと、久世さんはうなずいて、返却口の横にある小さな箱を指した。子どものころ見たのと同じ場所だった。さすがに色鉛筆の札はなくなっていたが、木箱の縁だけが、何度も触れられて艶を帯びている。
私は封筒を入れた。紙の重さはほとんどないはずなのに、箱の底に触れる音は思ったより深かった。
手続きを終えて外に出ると、ようやく雨が降り始めていた。私は傘を開きかけて、やめた。父に向けて書かれた手紙のなかで、私は傘を忘れないでくださいと言っていた。その子どもじみた親切が、いまになって胸に刺さる。あのころの私は、きっと帰ってくる人に向かって書いていたのだ。帰ってこない人にではなく。
雨粒はすぐに強くなった。髪も肩も濡れていく。けれど足取りは妙に軽かった。駅までの坂道を下りながら、私は何度も自分の名字を心のなかでつぶやいた。いまの名前。戸籍のためだけではなく、自分で選んで生きていくための名前。
振り返ると、分室の窓が雨に滲んでいた。あの中で私の手紙は、やがて読めない紙になるのだろう。だれにも届かないまま、それでもたしかに書かれたものとして、別の白さへ変わっていく。
それでいいのだと思った。
言えなかったさよならは、届かなくても終わる。
終わらせるのは、去っていった人ではなく、残されたほうの手なのだ。